天才検事は、人の心がわからない

 コンクリに反射した熱波が、身体にまとわりつくような暑さを作り出す。

 歩くだけで、身体中の毛穴から汗が滲み出る。都会の若さは、田舎のそれとは明らかに一線を画している。快晴の空には、手触りすらありそうな巨大な入道雲が浮かんでいた。

 こんな炎暑の日に、わざわざ捜査に出なくたっていいじゃないか。検察官の本分は、デスクワークだ。エアコンの効いた部屋の中にいたい、とオレはうなだれる。

「で、誰なんだ?」
「え」

 藪から棒の問いに、オレは顎を突き出す他ない。

「君の瞼を妊娠させた相手だ」

 ぼってりと腫れたオレの瞼を指差し、検事は下卑た笑みを口元に貼り付ける。また失恋の話か、とオレは辟易する。

「いい加減、しつこいですね」

 そんなに酷いかな、と自分の目を擦ってみる。昨日は一応、冷やしたのにな、アイスノンで。

「そんなに泣くほど、好きな相手だったのか」
「失恋じゃないって、何度言えば」

 オレは検事を振り切るように、歩みの速度を上げる。

「昨夜、アルマゲドンを見ただけです」

 適当に嘘をついて、その場をやりすごそうと試みる。

「俺が慰めてやろうか?」

 この言い草には、さすがに、頭に血が上った。

「結構です! 食事の約束をすっぽかされただけですから」

 あ、口が滑った。 まあ、いいか。

「食事?」検事は黒い前髪の下の両目を眇めた。「たった、それだけでか?」
「デリケートなんです、オレは」

 検事と違って、と舌の根まで飛んできた言葉は、辛うじて飲み込んだ。

「食事の約束を反故にされただけで、そんなに落ち込むとは」
「別に、落ち込んでなんか」
「相当、そいつに惚れ込んでいると見た」
「別に、そういうわけでは」
「『別に』? なんだ、あのチンピラの口癖がうつったのか」

 うるせえ、くそったれ! と思い切り喚けたら、どんなに胸のすく思いがするだろう。
<人の癇に障る>という能力に優劣があるとすれば、松波検事は黒帯どころか師範代だ。

「誰だ? 俺の知っている奴か?」
「検事は、他人には興味がないと思っていました」
「そうだな、他人に興味はない」検事はあっさり顎を引く。 「だが、他人の不幸には興味がある」
「それはそれは、」大げさに肩をすくめた。「素晴らしい性格ですね」

 角を曲がると、オレの革靴の音が止む。会話を遮断するように、オレはぴしゃりと放った。

「ここが、事件現場です」

 検事の目つきが途端に変貌した。

 先ほどまでの、軽佻浮薄を地でいくような目つきから、才気走った知的な双眸に、一瞬で切り変わる。怜悧という熟語がよく似合う、そんな表情だ。

 彼は変人で、最低で、天才だ。ついでに、呆れるくらいの美形。

 こういう奴を、世間ではよく「ずるい」という。

「『襲ってください』と言わんばかりの路地だな」

 検事の言葉は的を射ていた。

 確かにこの路地は、背の高いビルに挟まれ、薄暗く、人目につきにくい。極力、避けて通りたくなるような道だ。人の通る「通路」というよりも、ビルの「隙間」という単語のほうがしっくりくる。

「被害者、佐藤さんの自宅への近道だったようです」

 なるほど、と呟きながら、検事は現場を見渡す。

 と、一匹の三毛猫がそばを通った。猫好きなオレが思わず顔を綻ばせていると、「おい」 という検事の怒気混じりの声が飛来した。緩んだ顔面筋を慌てて締め直す。

「な、なんでしょう」
「ATMがあるぞ」

 検事は、路地を曲がった先を見ている。 路地を出ると、大通りというほどではないが、やや広めの道に突き当たる。検事の後ろから覗き込むと、たしかに、地方銀行のATMがひっそりとその存在を湛えていた。

「ええ、まあ」だからなんだ、と言いたくもなった。「どこにでもありそうな、ありふれたATMです」
「見たんだ」
「はい?」 オレの眉間の皺は深くなる一方だ。
「当時、佐藤氏は現金二十万を持っていたそうだな。ここでおろしたんだろう。それを見たから、被疑者は彼を狙った。 このキャッシュレスの時代に、普通の人間は日常的に二十万も財布に入れない」
 
 なるほどそれなら、女性や高齢者ではなく、成人男性である佐藤氏を選んだ理由になりうる。乾坤一郷の思いでバッグを奪ったところで、中身が空ではしょうがない。理屈はわかる。が、

「だけどそんなこと、調書のどこにも」

 オレは泡を食って調書を取りだし、めくる。

「君はミステリーサークルの謎も、調書に書いてあると思うのか?」眉間に皺を寄せたのは、今度は検事だ。「調書を信用しすぎるな」

 イラッとはしたが、どうにか堪える。

「でも、あのチンピラ――被疑者だって、そんなこと一言も」
「そうだな、問題はそこだ」

 検事は腕を組む。あのチンピラ、正直に「金をおろすところを見たから襲った」と言えば、この性悪な検事に弄くりまわされずに済んだのだ。「もやし」と面罵されることもなかった。

「単に、忘れただけとか?」

 オレは上目遣いで検事を見た。そんな媚びた目線になったのは、不正解とわかっていたからだ。

「そんな重要なことを忘れて、よく本籍地を忘れずに言えたものだな」

 ぐうの音も出ない。あんなナリだが、あの被疑者は初犯だった。初めて犯罪に手を染める、そのきっかけとなった事実を、そう簡単に忘れられるものだろうか。

「その事実を隠す意味も、ないですよね」

 佐藤氏を襲った理由を隠したところで、被疑者にメリットなどなさそうなものだ。量刑や裁判になった後のことまで配慮しながら、慎重に話をしそうなタイプにも見えない。

 ならどうして、隠した? あのATMが、本当に不思議の国の入り口に見えてくる。

「ちょっと飯を食ってくる」

 そう言い残すと、検事は突然踵を返した。え! とオレは調書から顔をあげ、

「ちょ、ちょっと」

 とうろたえた声で呼びとめる。捜査を始めたばっかりじゃないか!

「君も一緒に行くか?」
「いえ、遠慮します」

 そこは冷静にNOの意思表示をした。 それは残念だ、と応ずる検事は、ちっとも残念そうではない。

「奮発して、三五〇円の牛丼を奢ってやろうかと思ったの に」

 それは残念です、とオレも便乗する。「三五〇〇〇円のフルコースならお供しました」

 オレは調書を鞄に仕舞い、支部のほうへ身体を向ける。検事とは逆方向だ。

「一時前にはお戻りくださいね」

 一応、そう念は押したものの、検事が約束の時刻に戻ってきたためしはないし、期待もしていない。太陽暦でも太陰暦でもなく、彼は「松波暦」で生きているので、もうそれはしょうがないことで、こちらは諦めるしかない。

***

 翌日、支部に出勤してきた検事の格好に、オレは開いたロが寒がらなかった。

 ポロシャツに綿パンという出で立ち。ラフにも程がある。くたびれたオレンジのポロシャツは色褪せ、カーキ色の綿パンには、社会人としては目をそむけたくなるような皺がある。

 胸に申し訳なさげに光っている検事バッジも、何故自分がポロシャツなんかに? とさぞ狼狽しているだろう。

 担当事務官としては、眩量による立ちくらみに耐えるので精いっぱいだった。

「ま、松波検事、す、スーツは……?」

 検事は深刻そうに両の眉を下げた。

「今朝、トイレに流してしまった」

 目がしらを押さえ、沸点近くまで到達した怒りのパロメーターをぐっと抑制する。怒ったら負けだ、怒ったら負けだ……。そう念仏のように繰り返すことで、近頃のオレは釈迦も真っ青の寛大さを会得しかけている。

「検事バッジが、無事で、良かったです」

 震える声で偽りの言葉を紡ぐ。

「あのチンピラ被疑者を呼んでこい」
「え?」

 目がしらからぱっと指を離す。いつになく、職務に積極的 じゃないか。

 検事のほうを見遣ると、ものすごく、珍しいものを見ることができた。バツの悪そうな検事、という稀有な光景を。

「……俺だって、好きでこんな格好をしているわけじゃない」

 じゃあ、なんで? という問いは冷めたコーヒーと一緒に飲み込んだ。

 それを聞くのは、あのチンピラ被疑者と二度目のお喋りを始めてからだ。