学校へ向かうには、最寄りの「小木津駅」から常磐線に乗り、隣駅の「日立駅」で降車する。日立駅から五分ほど歩いたところに、オレの通う私立高校「聖倫高等学校」がある。
学校の偏差値は地域でも中の上というところで、飛び抜けた進学校でもないが、名前を書けば受かるというレベルの高校でもない。全校生徒は一千人ほどで、規模としては県下でも大きいほうだろう。
六時過ぎには家を出ているので、学校には六時半頃到着してしまう。「りんご食べやぁ」の波状攻撃から逃れるには、学校に来てしまうのが一番なのだ。「ばあちゃん、しつこいて!」と祖母をつい邪険にしようものなら、夕方まで自己嫌悪する羽目になる。
昼間の喧騒が嘘のように静寂に満ちた廊下を抜ける。中庭の横を通ると、花井が昨日、アブちゃんの墓石がわりに立てたアカツメクサが、力なく萎れていた。
今日はいつも通りの朝だった。
一匹になってしまったハヤちゃんに餌をやり――この餌もオレが人知れず用意したものだ――、窓際の観葉植物に霧吹きで水をかける。昨日みたいに、花井が姿を見せるようなイレギュラーが発生することもなく、七時頃までは無人の教室で過ごす。
机に座り、参考書を取り出して自習を始めた。大体八時前に登校してくる唯一の友人、片野功太がやってくるまでは、基本的にオレに話しかけてくるような人間はいない。
七時を回り、続々と生徒たちが教室に入ってくる。三人組の女子が登校してくると急に室内が騒がしくなった。「姦しい」の漢字に、女という字が三つ重なっているところに、今と昔に通じる感性を垣間見る。彼女たちは「花井、今日はいないねー」、「昨日はたまたまっしょ」などと話し合っている。
「おはよう、真琴」
片野が来た。百キロ近くあるという巨体を揺らしつつ、肩にかけた白いフェイスタオルで額の汗を拭っている。
「おはよ、片野」
「見てくれ、昨日ウルトラレアが出た」
片野はスマホで熱中しているゲームアプリ「パズ虎」を立ち上げ、昨日ガチャで引き当てたというレアカードを表示させた。カードの右上に「UR(ウルトラレア)」と黄金の字が輝いている。
「すごい。いくら使った? 『当てた』んじゃなくて、『買った』んだろ」
「それは言いっこなしだぜ、真琴」腫れぼったい一重で不格好にウインクしている。「偉大な業績に犠牲はつきものだ。二兎追うものは一兎をも得ず」
「それ意味違くない?」
「真琴だって『アーミネーター』の一番くじ、箱買いしてだろ。それ、ちびっこの夢を一番壊すやつだからな?」
「あれはどうしてもラストワン賞が欲しかったの!」
『アーミネーター』は最愛の漫画作品だ。元々は往年の名作映画だが、近年になり漫画化されて大ヒットを飛ばした。お年玉をはたいて箱買い――一箱分のくじを丸ごと大人買いすることを指す――してしまった件については反省している。
そのうちに担任の北島が入室してきた。「席につけー」と気だるげに指示を出している。その三秒後、花井が教室に入ってきた。
「……ギリセーフ」
「ギリアウトだ、花井」北島が渋面を作る。
「花井、おはよー!」、「遅えよ花井」、「昨日のMステ見た?」等々、そこここから花井に向けて一斉に言葉の矢が飛ぶ。花井は適当にいなしているが、オレが彼の立場だったら、立ち弁慶のようにその場で死後硬直しているはずだ。
「駄目だ。また寝坊した。今日こそ早く起きようと思ってたのに」
花井は自分の席につくと机に突っ伏した。彼の席は窓際でオレの斜め前だ。
「なんで? いつもこれくらいの時間じゃん」
近くの席に座る加藤という女子が応じている。「姦し三人娘」の一人だ。
「いい加減、真面目に勉強しなきゃやベーなっていう自覚はあんだよ。だから朝だけでも学習室行こうかなって思ったんだけど」
「放課後は女の子の相手で忙しいもんねえ」
昨日、アブちゃんの埋葬を終えて教室に戻ると、花井はテキストを広げて学習を始めようとしていた。意外に真面目なところもあるんだなと感心していると、直後に姦し三人娘が入ってきた。
「え、花井?」、「早っ! どうしたの?」と彼女たちは矢継ぎ早に花井に話しかけ、当然彼の自主学習は中断されてしまった。人気者は大変だ、とオレは同情した。自由に勉強もさせてもらえないのか。
花井は気だるげに頬杖をつく。
「あー、誰かモーニングコールとかで起こしてくんねえかな。アラームは止めちゃうけど、電話の向こうに誰かを待たせてると思えば起きられる気がするんだよな」
「ママに起こしてもらえよ」
佐田という男子が横から口を挟む。川魚をクラスに持ち込んだ男だ。
「五時過ぎには出勤しちゃうんだよ。さすがに毎日五時起きはきつい。父親は飲食業やってるから昼近くまで寝てるし」
「それならあたしが電話してあげるよお」
加藤が猫撫で声を出す。
「……加藤のキンキン声は、寝起きに聞きたい声じゃねーかな」
「ヒドぉ! じゃあ彼女にかけてもらえばあ? 今の彼女誰だっけ。二組のマキ?」
担任の北島は雑談する彼らを注意するでもなく、淡々と朝のホームルームを進めている。
花井の表情は晴れない。
「んー……マキに貸しを作ると、代わりに高いバッグ買えとか言われそうで嫌なんだよな」
「冷めてんなあ。そこに愛はあるんか?」佐田が茶化す。「『来るもの拒まず、去るもの追わず』の恋愛もほどほどにしとけよ。いつか刺されるぞ」
北島が話を終え、教室から出て行った。オレは一時間目の古典の用意を始める。
花井は棚の上の水槽をぼうっと見上げた。ルームシェアから単身世帯となった水槽の中を、ハヤちゃんがご機嫌に泳いでいる。川魚の数が一昨日より減っていることに、一体何人の生徒が気づいているだろう。もしかしたら、オレと花井だけかもしれない。
「……そうだ」
花井は思いついたように呟き、振り向いてこちらを見た。
「悠木っていつも、朝何時に来んの?」
突然話しかけられて驚き、すぐに声が出なかった。古典の単語帳を取り落としそうになる。
「ろ……六時半、くらいかな」
「えっ、そこ仲良かったっけ?」加藤が目を丸くする。
花井がさも当然のように頷く。
「うん。昨日、友達になった」
「え? と、友達になってたの……?」それは知らなかった。
「違えの? 悠木の友達基準って何? 盃とか交わす感じ?」
「任侠かよ」と佐田。
「ウケる。花井、片想いじゃん」加藤が笑う。
花井が椅子から身を乗り出してオレに向き直った。
「悠木。朝、歩きながらでもいいし、教室についてからでもいいからさ、俺に一本電話かけてくんね?」
「別に、いいけど……」
「もちろんタダでとは言わねーよ。そのうちなんか、お礼はするし」
「いいよ、タダで。どうせ暇だし」
食物連鎖の頂点ともいえる男に、オレのようなプランクトンが歯向かうわけにはいかない。代わりに高いバッグを買ってほしいとも思わない。
「あたしの声より悠木のほうがいいってことー?」
加藤が茶目っけたっぷりに、グロスで艶めいた唇を尖らせている。
「悠木の声は、いわゆるイケボっつーのとは違うけど……なんか優しいじゃん。性格が出てんのかな?」
花井が外連味のない声音で語る。
これがこの男の真骨頂か、とオレは拍手しそうになった。「人タラシ」と言われる所以だ。わかっていても耳が熱くなった。
花井瑞樹には、不思議な引力がある。まるで祖母の関西なまりみたいに。
学校の偏差値は地域でも中の上というところで、飛び抜けた進学校でもないが、名前を書けば受かるというレベルの高校でもない。全校生徒は一千人ほどで、規模としては県下でも大きいほうだろう。
六時過ぎには家を出ているので、学校には六時半頃到着してしまう。「りんご食べやぁ」の波状攻撃から逃れるには、学校に来てしまうのが一番なのだ。「ばあちゃん、しつこいて!」と祖母をつい邪険にしようものなら、夕方まで自己嫌悪する羽目になる。
昼間の喧騒が嘘のように静寂に満ちた廊下を抜ける。中庭の横を通ると、花井が昨日、アブちゃんの墓石がわりに立てたアカツメクサが、力なく萎れていた。
今日はいつも通りの朝だった。
一匹になってしまったハヤちゃんに餌をやり――この餌もオレが人知れず用意したものだ――、窓際の観葉植物に霧吹きで水をかける。昨日みたいに、花井が姿を見せるようなイレギュラーが発生することもなく、七時頃までは無人の教室で過ごす。
机に座り、参考書を取り出して自習を始めた。大体八時前に登校してくる唯一の友人、片野功太がやってくるまでは、基本的にオレに話しかけてくるような人間はいない。
七時を回り、続々と生徒たちが教室に入ってくる。三人組の女子が登校してくると急に室内が騒がしくなった。「姦しい」の漢字に、女という字が三つ重なっているところに、今と昔に通じる感性を垣間見る。彼女たちは「花井、今日はいないねー」、「昨日はたまたまっしょ」などと話し合っている。
「おはよう、真琴」
片野が来た。百キロ近くあるという巨体を揺らしつつ、肩にかけた白いフェイスタオルで額の汗を拭っている。
「おはよ、片野」
「見てくれ、昨日ウルトラレアが出た」
片野はスマホで熱中しているゲームアプリ「パズ虎」を立ち上げ、昨日ガチャで引き当てたというレアカードを表示させた。カードの右上に「UR(ウルトラレア)」と黄金の字が輝いている。
「すごい。いくら使った? 『当てた』んじゃなくて、『買った』んだろ」
「それは言いっこなしだぜ、真琴」腫れぼったい一重で不格好にウインクしている。「偉大な業績に犠牲はつきものだ。二兎追うものは一兎をも得ず」
「それ意味違くない?」
「真琴だって『アーミネーター』の一番くじ、箱買いしてだろ。それ、ちびっこの夢を一番壊すやつだからな?」
「あれはどうしてもラストワン賞が欲しかったの!」
『アーミネーター』は最愛の漫画作品だ。元々は往年の名作映画だが、近年になり漫画化されて大ヒットを飛ばした。お年玉をはたいて箱買い――一箱分のくじを丸ごと大人買いすることを指す――してしまった件については反省している。
そのうちに担任の北島が入室してきた。「席につけー」と気だるげに指示を出している。その三秒後、花井が教室に入ってきた。
「……ギリセーフ」
「ギリアウトだ、花井」北島が渋面を作る。
「花井、おはよー!」、「遅えよ花井」、「昨日のMステ見た?」等々、そこここから花井に向けて一斉に言葉の矢が飛ぶ。花井は適当にいなしているが、オレが彼の立場だったら、立ち弁慶のようにその場で死後硬直しているはずだ。
「駄目だ。また寝坊した。今日こそ早く起きようと思ってたのに」
花井は自分の席につくと机に突っ伏した。彼の席は窓際でオレの斜め前だ。
「なんで? いつもこれくらいの時間じゃん」
近くの席に座る加藤という女子が応じている。「姦し三人娘」の一人だ。
「いい加減、真面目に勉強しなきゃやベーなっていう自覚はあんだよ。だから朝だけでも学習室行こうかなって思ったんだけど」
「放課後は女の子の相手で忙しいもんねえ」
昨日、アブちゃんの埋葬を終えて教室に戻ると、花井はテキストを広げて学習を始めようとしていた。意外に真面目なところもあるんだなと感心していると、直後に姦し三人娘が入ってきた。
「え、花井?」、「早っ! どうしたの?」と彼女たちは矢継ぎ早に花井に話しかけ、当然彼の自主学習は中断されてしまった。人気者は大変だ、とオレは同情した。自由に勉強もさせてもらえないのか。
花井は気だるげに頬杖をつく。
「あー、誰かモーニングコールとかで起こしてくんねえかな。アラームは止めちゃうけど、電話の向こうに誰かを待たせてると思えば起きられる気がするんだよな」
「ママに起こしてもらえよ」
佐田という男子が横から口を挟む。川魚をクラスに持ち込んだ男だ。
「五時過ぎには出勤しちゃうんだよ。さすがに毎日五時起きはきつい。父親は飲食業やってるから昼近くまで寝てるし」
「それならあたしが電話してあげるよお」
加藤が猫撫で声を出す。
「……加藤のキンキン声は、寝起きに聞きたい声じゃねーかな」
「ヒドぉ! じゃあ彼女にかけてもらえばあ? 今の彼女誰だっけ。二組のマキ?」
担任の北島は雑談する彼らを注意するでもなく、淡々と朝のホームルームを進めている。
花井の表情は晴れない。
「んー……マキに貸しを作ると、代わりに高いバッグ買えとか言われそうで嫌なんだよな」
「冷めてんなあ。そこに愛はあるんか?」佐田が茶化す。「『来るもの拒まず、去るもの追わず』の恋愛もほどほどにしとけよ。いつか刺されるぞ」
北島が話を終え、教室から出て行った。オレは一時間目の古典の用意を始める。
花井は棚の上の水槽をぼうっと見上げた。ルームシェアから単身世帯となった水槽の中を、ハヤちゃんがご機嫌に泳いでいる。川魚の数が一昨日より減っていることに、一体何人の生徒が気づいているだろう。もしかしたら、オレと花井だけかもしれない。
「……そうだ」
花井は思いついたように呟き、振り向いてこちらを見た。
「悠木っていつも、朝何時に来んの?」
突然話しかけられて驚き、すぐに声が出なかった。古典の単語帳を取り落としそうになる。
「ろ……六時半、くらいかな」
「えっ、そこ仲良かったっけ?」加藤が目を丸くする。
花井がさも当然のように頷く。
「うん。昨日、友達になった」
「え? と、友達になってたの……?」それは知らなかった。
「違えの? 悠木の友達基準って何? 盃とか交わす感じ?」
「任侠かよ」と佐田。
「ウケる。花井、片想いじゃん」加藤が笑う。
花井が椅子から身を乗り出してオレに向き直った。
「悠木。朝、歩きながらでもいいし、教室についてからでもいいからさ、俺に一本電話かけてくんね?」
「別に、いいけど……」
「もちろんタダでとは言わねーよ。そのうちなんか、お礼はするし」
「いいよ、タダで。どうせ暇だし」
食物連鎖の頂点ともいえる男に、オレのようなプランクトンが歯向かうわけにはいかない。代わりに高いバッグを買ってほしいとも思わない。
「あたしの声より悠木のほうがいいってことー?」
加藤が茶目っけたっぷりに、グロスで艶めいた唇を尖らせている。
「悠木の声は、いわゆるイケボっつーのとは違うけど……なんか優しいじゃん。性格が出てんのかな?」
花井が外連味のない声音で語る。
これがこの男の真骨頂か、とオレは拍手しそうになった。「人タラシ」と言われる所以だ。わかっていても耳が熱くなった。
花井瑞樹には、不思議な引力がある。まるで祖母の関西なまりみたいに。



