廊下を通って、学園内の中庭に室内履きのまま進入する。むせるほどに濃い夏草の香りが鼻腔を突き上げる。頭上の炎帝は、登校時より更に灼熱の度合いを増していた。
花井は適当な花壇の前にうずくまり、割り箸でほじるように穴を作った。そこにアブちゃんを寝かせ、土をかける。そばに咲いていたアカツメクサを摘んで、墓石代わりに立てた。
「川魚、ここに眠る」
「……アブちゃんね」
「悠木が名付けたの?」
照れ臭かったが、うん、と顎を引く。キモいよな、引かれるだろうな、とは感じたが、敵意を向けられることさえなければ、大した問題ではない。彼と交流するなど、おそらく今日限りなのだ。
アブちゃんか、と花井は噛み締めるようにリピートする。
「……いきなり、広い川から狭い水槽に連れてこられてさ、絶望しただろうな。でも悠木に名前つけてもらって、可愛がってもらって。それは川ではできない経験だったんだろうな。つらいなかでも、それは嬉しかったんじゃねーかな」
オレは言葉に詰まった。引かれるどころか、そんなふうに評価してもらえるとは意外だった。じんわりと温かい気持ちが込み上げる。
置かれた場所で咲きなさい――そんな言葉をどこかで聞いたことがある。アカツメクサを見つめる花井は、どこか遠い目をしているようにも感じた。
墓前で軽く手を合わせてから、オレは言った。
「オレの名前、知ってると思わなかった」
「当たり前だろ、クラスメートだし。下の名前も知ってるぞ。『真琴(まこと)』だろ?」
「え、すごいね」
「あいにく俺は、川魚より人に興味がある人間なんで」
皮肉を言われていることくらいはわかった。かと言って洋画の俳優みたいに小粋な返しができるわけでもない。
そこで一つ生ぬるい風が吹き抜けた。制服の襟がはためき、花井の首元で煌めくネックレスに、一風変わったモチーフが付いていることに気がつく。
「それ、ネックレス……牙のモチーフ? あ、勝手に見ちゃってごめん」
これ? と花井はワイシャツからネックレスを引っ張り出した。シルバーで作られた牙のような形の飾りが揺れる。
「サメの歯らしい。尊敬する人にもらったんだ。いいだろ?」
「うん。オシャレ。それに、似合ってる」
花井のイメージにぴったりな気がした。
「あげないからな?」
そう冗談めかしてから、敬愛を込めた瞳でネックレスを見下ろしている。きっと大切な人からもらったのだろうな、と想像する。
「おやすみ、アブちゃん。良い夢見ろよ」
花井が土に向かって話しかけた。その指先は、水槽の水と花壇の土ですっかり汚れている。こういった泥臭さとは、最も縁遠い場所にいる人種だと思っていた。
花井瑞樹という男を誤って値踏みしていたようだ。彼が校内階級の頂点であることは間違いないが、気に入らないからといってオレを食い殺すような冷徹な人間ではなさそうだった。男女問わず彼に人が集まる理由がわかった気がした。
「……花井くんってさ」
「え、さむっ。『くん』はいらない。花井でいいよ」
あ、うん、とぎこちなく頷いてから、
「花井ってさ、よく『タラシ』って言われる?」
「シーザー、お前もか」
「それを言うなら『ブルータス』ね」
「ブルータス、お前もか」
「ちゃんと言い直すんだね」
素直かよ、とオレは吹き出しそうになり口元を押さえる。花井は不満げに眉根を寄せた。
「悠木までそれ言うか。なんでみんなそう言うんだ? 失礼だよなあ。俺は至って普通にしてるだけなのに」
「……たぶん、褒め言葉なんじゃないかな」
オレは顎の辺りに浮いた汗を手の甲で拭い、言葉を継いだ。
「少しでも花井と話した人は、みんな花井が好きになっちゃうってことなんだよ」
そう言ってしまったあとで、はたと煮詰まる。
「あれ? ごめん。な、なんか今、キモい言い方したよな。ごめん。違う違う、変な意味じゃなくてさ。ごめんな。言葉のチョイスを間違えた。ごめん。コミュ障だから、よく間違えがちなんだ。ごめん、ごめん」
「何回謝るんだよ」
花井が声をあげて笑う。「ギネスにでも挑戦してんの?」と目尻の涙を拭っている。
「はー、めっちゃ笑えた。悠木、面白いな」
花井は呼吸を整え、手庇をして青い空を見た。陽に当たった彼の髪が白っぽく光る。その様があまりに綺麗で、しばし目線を外せなかった。
「しかし暑ぃな。死にそう」
「そうだね」
オレも彼に倣って立体的な入道雲を睨む。
この「死季」の暑さが、どうしてか今日は不快じゃなかった。
花井は適当な花壇の前にうずくまり、割り箸でほじるように穴を作った。そこにアブちゃんを寝かせ、土をかける。そばに咲いていたアカツメクサを摘んで、墓石代わりに立てた。
「川魚、ここに眠る」
「……アブちゃんね」
「悠木が名付けたの?」
照れ臭かったが、うん、と顎を引く。キモいよな、引かれるだろうな、とは感じたが、敵意を向けられることさえなければ、大した問題ではない。彼と交流するなど、おそらく今日限りなのだ。
アブちゃんか、と花井は噛み締めるようにリピートする。
「……いきなり、広い川から狭い水槽に連れてこられてさ、絶望しただろうな。でも悠木に名前つけてもらって、可愛がってもらって。それは川ではできない経験だったんだろうな。つらいなかでも、それは嬉しかったんじゃねーかな」
オレは言葉に詰まった。引かれるどころか、そんなふうに評価してもらえるとは意外だった。じんわりと温かい気持ちが込み上げる。
置かれた場所で咲きなさい――そんな言葉をどこかで聞いたことがある。アカツメクサを見つめる花井は、どこか遠い目をしているようにも感じた。
墓前で軽く手を合わせてから、オレは言った。
「オレの名前、知ってると思わなかった」
「当たり前だろ、クラスメートだし。下の名前も知ってるぞ。『真琴(まこと)』だろ?」
「え、すごいね」
「あいにく俺は、川魚より人に興味がある人間なんで」
皮肉を言われていることくらいはわかった。かと言って洋画の俳優みたいに小粋な返しができるわけでもない。
そこで一つ生ぬるい風が吹き抜けた。制服の襟がはためき、花井の首元で煌めくネックレスに、一風変わったモチーフが付いていることに気がつく。
「それ、ネックレス……牙のモチーフ? あ、勝手に見ちゃってごめん」
これ? と花井はワイシャツからネックレスを引っ張り出した。シルバーで作られた牙のような形の飾りが揺れる。
「サメの歯らしい。尊敬する人にもらったんだ。いいだろ?」
「うん。オシャレ。それに、似合ってる」
花井のイメージにぴったりな気がした。
「あげないからな?」
そう冗談めかしてから、敬愛を込めた瞳でネックレスを見下ろしている。きっと大切な人からもらったのだろうな、と想像する。
「おやすみ、アブちゃん。良い夢見ろよ」
花井が土に向かって話しかけた。その指先は、水槽の水と花壇の土ですっかり汚れている。こういった泥臭さとは、最も縁遠い場所にいる人種だと思っていた。
花井瑞樹という男を誤って値踏みしていたようだ。彼が校内階級の頂点であることは間違いないが、気に入らないからといってオレを食い殺すような冷徹な人間ではなさそうだった。男女問わず彼に人が集まる理由がわかった気がした。
「……花井くんってさ」
「え、さむっ。『くん』はいらない。花井でいいよ」
あ、うん、とぎこちなく頷いてから、
「花井ってさ、よく『タラシ』って言われる?」
「シーザー、お前もか」
「それを言うなら『ブルータス』ね」
「ブルータス、お前もか」
「ちゃんと言い直すんだね」
素直かよ、とオレは吹き出しそうになり口元を押さえる。花井は不満げに眉根を寄せた。
「悠木までそれ言うか。なんでみんなそう言うんだ? 失礼だよなあ。俺は至って普通にしてるだけなのに」
「……たぶん、褒め言葉なんじゃないかな」
オレは顎の辺りに浮いた汗を手の甲で拭い、言葉を継いだ。
「少しでも花井と話した人は、みんな花井が好きになっちゃうってことなんだよ」
そう言ってしまったあとで、はたと煮詰まる。
「あれ? ごめん。な、なんか今、キモい言い方したよな。ごめん。違う違う、変な意味じゃなくてさ。ごめんな。言葉のチョイスを間違えた。ごめん。コミュ障だから、よく間違えがちなんだ。ごめん、ごめん」
「何回謝るんだよ」
花井が声をあげて笑う。「ギネスにでも挑戦してんの?」と目尻の涙を拭っている。
「はー、めっちゃ笑えた。悠木、面白いな」
花井は呼吸を整え、手庇をして青い空を見た。陽に当たった彼の髪が白っぽく光る。その様があまりに綺麗で、しばし目線を外せなかった。
「しかし暑ぃな。死にそう」
「そうだね」
オレも彼に倣って立体的な入道雲を睨む。
この「死季」の暑さが、どうしてか今日は不快じゃなかった。



