君の声で起こして。〜学校一のモテ男を電話で起こしてたら陰キャなのに懐かれて付き合うまでの話〜

 ――なんでこの魚、死なねえんだろ。

 進級した三年生の教室で、机に伏せながら窓際に設置された水槽を見上げる。クラスメートの佐田が六月の頭に持ち込んできた川魚が二匹、狭い水槽の中で目的もなさそうに泳いでいる。佐田が百均で買ってきたという作り物の水草と、大樹の幹を模したようなチープなオブジェが置かれていた。

 誰かが餌をやっているような様子もないのに、かれこれ一ヶ月以上生きている。持ち込んだ張本人である佐田が世話をしないのだから無責任なものだ。クラスメートも、はじめは魚を鑑賞しに水槽へ群がったが、すぐに飽きて寄りつくものはいなくなった。

 ――俺みたいなやつらだ。

 魚に奇妙なシンパシーを覚えた。人より少し優れた俺の外見につられて色目を使ってきた女子たちも、ドライな対応をしているうちにすぐ興醒めして去っていく。

 それ以上に共鳴したのは、この魚たちの境遇だ。

 広大な川から――四方に壁などない自由な世界から突然、この要塞のごとき狭小な空間に連れてこられた。その絶望はいかばかりか。同情を禁じ得なかった。

「……しんどいよな」

 誰にも聞こえぬ声量で、魚に語りかけた。

 ――「自分の世界」を奪われるのは、きついよな。

 でもいつまでも、嘆いてばかりはいられないのだ。もう川に戻れないのなら、水槽の中にある楽しみを見つけなければならない。一体そんなものが本当にあるのか、俺にもまだ、わからないが。



 その日も、夜遅くまで女と遊びまわり、日付が変わる頃になって帰宅した。

 台所で、自営の飲食店の仕込みをしていた父と目が合った。この数年でずいぶん白髪が増えた。

「おい瑞樹、こんな時間まで……」

 父はそこまで言って口を閉ざし、何度かかぶりを振って、また包丁を動かし始めた。俺は口を噤んだまま台所を通り過ぎる。

 簡単にシャワーだけ浴び、気を失うようにベッドに倒れ込む。数時間ほど眠ると、夏の強烈な朝日が瞼に差し込んだ。カーテンを閉め忘れたようだ。

 尿意を覚えて部屋を出ると、今度は早朝に出勤する母と遭遇した。

「ああ、おはよう。何時に帰ったの?」
「……十二時頃」

 そう、と母は冷然とした声で首肯し、バッグに仕事の用意を詰め込んでいる。

「……サッカーやれなくなって、つらいのはわかる。でも、いつまでそうやって不貞腐れてるつもり? この前の模試だって散々だったじゃない。あなたが希望の進路にリハビリ科を選択したって聞いた時、嬉しかったのに」

 進路を担任に尋ねられて、真っ先に浮かんだのはマナの顔だった。

 前に進まなければならない。そんなことは自分でも嫌というほどわかっている。

 ――だけどさ、無理言うなよ。

 そうも思う。俺は一度、死んだのだ。イエス・キリストだって、生き返るのに三日はかかった。普通の人間がそう簡単に蘇生してたまるか。

 二度寝しようと部屋に戻ったが、苛々して再入眠できない。親とも顔を合わせたくなくて、仕方なく制服を着て家を出た。



 悠木真琴と初めて話したのは、その朝だ。

 早朝の、人気のない教室に彼はいた。まさかこんな早くに登校している生徒がいるとは予想だにせず、教室から漏れ聞こえてくる声が何か霊的なものなのではないかと少々慄いたほどだ。

「おはよう、アブちゃん、ハヤちゃん。今日も暑いなあ。今、冷房つけたから……あれ、アブちゃんは?」

 魚に語りかけながら、悠木はしきりに水槽の中を検分している。手には魚用の餌がある。魚が長生きできている理由がそこでわかった。

「おーい、アブちゃーん。あれ? いないな」

 水槽の前で屈んだり、上から俯瞰してみたりと、ぴょんぴょんと忙しなく彼の背中が動く。その時点で既に、俺は笑いそうになっていた。教室の入り口に立っているこちらの姿に気がつく気配はない。

「暑すぎて死んじゃったのかなあ――え、アブラハヤって共食いすんの? か、可哀想に……」

 切実な悲嘆に吹き出しかけたので、さすがに声をかけた。

「悠木?」

 びくりと体を震わせて悠木が振り返る。まともに目を合わせたのも初めてだ。黒縁眼鏡の奥にある双眸は、長い前髪に半分近く隠れてしまっている。

 誰もが興味を失ったと思っていたあの川魚を、いまだに大切にして可愛がっている人間がいた。そのことが、やけに嬉しかった。

 その後、共食いされてしまった魚を二人で中庭へ埋めに行くことにした。一歩外に出ると盛夏の日照りがじりじりと肌を焦がす。

 魚の亡骸を、割り箸で掘った穴にそっと横たえて土をかける。傍らに咲いていたアカツメクサを引き抜き、墓標として刺した。

「川魚、ここに眠る」
「……アブちゃんね」
「悠木が名付けたの?」
「うん」

 良かったな、アブちゃん。悠木がいてくれて、良かったな――本心からそう思った。

「……いきなり、広い川から狭い水槽に連れてこられてさ、絶望しただろうな。でも悠木に名前つけてもらって、可愛がってもらって。それは川ではできない経験だったんだろうな。つらいなかでも、それは嬉しかったんじゃねーかな」

 流れるように俺は捲し立てた。

 広い川にしかない喜びもあるだろう。でも名前を呼ばれ、大切に世話をされ、最後には弔ってもらえる……そんな経験は、アブちゃんがここにやってきたから得られたものだ。

 悠木は墓前で手を合わせていた。他人が持ち込んだ川魚にすら、ここまでの友愛をかけられる人間がいるのか。一体どこまでお人好しなのだ、と俺は舌を巻く。

 会話の流れの中で、悠木はこんな言葉を寄せてきた。

「少しでも花井と話した人は、みんな花井が好きになっちゃうってことなんだよ」

 まるで贈り物みたいな言葉だった。

 お人好しで、優しくて、清廉だ。眼鏡のレンズに守られた黒目がちの瞳は、一切の邪気がなく、透明で真っ直ぐだった。

 みんな好きになる、だって?

 その言葉をそのまま返すよ、悠木。

「ごめん。な、なんか今、キモい言い方したよな。ごめん。違う違う、変な意味じゃなくてさ。ごめんな。言葉のチョイスを間違えた。ごめん。コミュ障だから、よく間違えがちなんだ。ごめん、ごめん」
「何回謝るんだよ」

 連続かつ高速で謝り続ける悠木に、腹が痛くなるほど爆笑した。こんなに笑ったのは、マナとのリハビリが終わってからは初めてのことだ。

「はー、めっちゃ笑えた。悠木、面白いな」

 心の中の、暗くて深い空洞に、小さな灯りが点った気がした。

 キャンドルの灯火のような、ごくささやかな灯りだった。それでも、真っ暗闇とは絶大な違いがあった。

 たとえ数センチの灯火でも、足元は照らせる。

 ――足元が照らせれば、人は一歩前に踏み出せる。

 その日から、悠木と過ごす夏が始まった。


【続】