君の声で起こして。〜学校一のモテ男を電話で起こしてたら陰キャなのに懐かれて付き合うまでの話〜

リハビリを担当してくれた理学療法士が、ユニークな男だった。

 齢は五十手前だろうか、総合病院のリハビリ科のベテランPTだ。

「初めまして、瑞樹くん。僕はマナ・ウィリアムズ。マナって呼んでね」

 俺はやや気後れしながら一礼した。

「……日本語上手ですね」
「日本生まれ、日本育ちだから。僕は一体何歳になれば、初対面の人にそれを言われなくなるのかなあ。もう立派な中年なんだけど。『日本語ペラペラなのでご安心ください』って額にタトゥーを入れるべき?」

 浅黒い肌に、筋骨隆々とした大柄な体躯。一九〇センチを超えているであろう背丈は、向かい合う相手を無条件に見上げる形にさせる。頭髪の三分の一はロマンスグレーが占めていて、スクラブから覗く胸元や、壮健な上腕に幾何学模様のようなタトゥーが入っている。

「色々と気になるだろうから先に説明するね。両親はハワイ出身。いわゆるポリネシア系ってやつ。このタトゥーは『カカウ』といって、ポリネシア人にとってはファッションじゃなくて、願いのこもった魂の鎧みたいなもの。日本人でいうお守りに近いかな。それからクリスチャンで、毎週日曜日には教会に行く。日本人女性と結婚していて、子どもは可愛い娘が一人。趣味は読書。この体で小さい文庫本を読んでると、娘に『シルバニアファミリーの小道具を持ってるみたい』ってよく笑われる。焼肉も寿司もラーメンも、ワサビもミョウガも納豆もだーい好き。どう? あとは他に質問ある?」
「あ……ないっす」

 初対面の人間が投げてくる可能性の高い質問に、先んじて全て答えておきました、という感じだ。圧倒されている俺に、マナは笑いかけた。

「じゃあ、始めようか」

 厳つい見た目からは想像がつかないほど、人懐っこい笑顔だった。

「初回だからね、ちょっとキツいよ。力抜いてね」
「えっ――」

 マナが、ギプスをしているかのように関節がガチガチに固まった、術後の右膝に触れた。その日の俺は四〇分間のリハビリのあいだ、悲鳴じみた声を上げ続けた。



 医者からは全治一年と言われた。言うまでもなくそれは「元の日常生活に戻れるまで」の期間であり、サッカー選手としての復帰は意味していない。

 リハビリは週に三日、一回につき四〇分間。これを全治までの一年間続けた。

 マナとはすぐに打ち解けた。

 彼は、俺が切り出さない限り、決してサッカーの話をしなかった。日本中がワールドカップの話題に沸いていた期間さえ、サッカーの「サ」の字も徹底して出さない。「話す内容」ではなく、「話さない内容」で表現される優しさが心地良かった。

 マナの話は愉快なものが多かった。

「夜十時以降に外出すると、必ず職務質問されるんだ」
「俺が警察でもするね」
「『えーと』って必死で英語を繰り出そうとしてくる警官に、『あ、日本語でどうぞ』って先手まで打つわけ。僕、善人すぎない?」

 他にも、妻の実家に行くと、緑茶を飲みたいのに問答無用でコーラを出される話や、コンビニでおでんを買ったのに、店員に箸ではなくフォークを付けられる話など、「外国人あるある」でよく笑わせてもらった。

「白滝ってプラスチックフォークだと本当に食べづらいんだから。もうツルツル逃げられて、諦めちゃう時あるからね」
「白滝側にも、誰に食べてもらうかを選ぶ権利があるからな」
「日本人側に立つ人はよく会うけど、白滝側に立つ人には初めて会ったよ」
「俺、人種差別しないからさ」
「異種差別をしてる自覚はある?」

 病院から一歩出れば、サッカー人生を失った事実と向き合う羽目になる。しかしマナと過ごす時間だけはその過酷な現実を忘れられた。

「奥さんとはどこで知り合ったの?」

 ある日、ふと思いついて尋ねたことがある。

「まさにこのリハビリルームだよ。僕の担当患者だったんだ」
 ええ、と俺は仰け反った。「患者に手出したの? やるなあ、マナさんも」

 マナは白々しく肩をすくめる。

「わかってないなあ、瑞樹は。こんな言葉を知ってる? 『ブレーキをかけられる恋は、そもそも恋ではない』」
「初めて聞いた。誰の言葉? ニーチェとか?」
「僕の言葉」
「なんだよそれ」右手で軽くマナの肩をパンチする。「訊いて損したわ」

 ガハハ、とマナは豪快に笑い声を立ててから、穏やかな口調で語り出した。

「ユウコは――あ、妻の名前ね――怪我でスポーツを諦めたんだ。バドミントンの選手でね」

 俺の膝を繊細な手つきで曲げ伸ばししている。

「僕は当事者ではないから、そのときのユウコの真の苦しみは想像するしかない。だからこそ全力で想像して、調べて、耳を傾けて、共感してきたつもりなんだ。ユウコの次には、きっと彼女のつらさを理解できていると思う」

 マナが微笑むと、目尻に愛嬌のある皺が刻まれた。

「最近娘がバドミントンを始めてね。指導したり、一緒に楽しんだりすることが、今のユウコの生きがいになっているみたいだ」

 だから瑞樹も「生きがい」を見つけなよ――マナは、そんな押し付けがましい言い方は絶対にしない。ただ人として正しい姿を、少しでも楽になれる生き方を、静かにこちらに見せてくれる。

 医師は「治るか、治らないか」、「治るとしたらどの程度までか」というような話に終始する。診察も大抵五分で終わる。もちろんそれはそれで、重要で尊い仕事だ。

 一方で、理学療法士は俺とともに伴走してくれる相手だった。一時間弱かけて、いろいろな話をしながら体を触れ合わせる。医師が監督なら、理学療法士はチームメイトだ。

 リハビリに通うようになって数ヶ月が経過した頃、マナはこんな話をしてくれた。

「瑞樹は、恋愛はしたことあるのかい?」
「ない。周りに意外がられるけどさ。サッカー一筋だったから」

 あらまっ、とマナはシニア女性のような反応を示す。

「モテるだろうにねえ」
「まあ、モテるね」

 俺は謙遜しない。実際に女子に言い寄られてきた回数は、容易に数え切れる程度のものではなかった。だが「女ができると成績が下がる」というのはスポーツの世界ではよく囁かれる話でもあり、俺はその好意の全てを斬り捨ててきていた。

「でも、それならちょうど良かった。ジジイの与太話だと思って聞いてよ」

 下肢筋力の低下を防ぐための「下肢挙上訓練」を仰向けで行いながら、俺は彫りの深いマナの顔を見つめた。

「僕はクリスチャンでもあるけど、ポリネシア人には独特の死生観があってね。『口は魂の通り道』って考える。息のことをポリネシア語で『ハ』って呼ぶんだけど――アロハの『ハ』ね」

 ふうん、と俺は訓練を続けつつ話半分に耳を傾けている。

「この『ハ』は、生命の息吹そのもの。神様から預かった神聖なものだ。だから息を混ぜ合わせるキスというものを、ポリネシア人は簡単な覚悟ではしないんだ。それは相手に魂を預けることと同じなんだよ」

 マナはちょっとだけ気まずそうにこめかみを掻いて、

「僕もまあ、若かりし頃は結構女の子と遊んだけどね。でもキスだけはユウコとしかしてないんだよ。素敵だろ?」
「どうかな。純情ぶりたいヤリチンの言い逃れに聞こえる。そういうの『カマトトぶる』っていうんだぞ」
「ムズカシイニホンゴ、ワカラナイ」

 俺たちは顔を見合わせて噴き出すように笑う。こんな取り留めない会話をして笑い合うことが、確かな救いだった。

 窓外の赤い夕陽に目をやる。

 ――「ハ」か。

 噛み締めるように小さく呟いた。

***

 高二の夏に、俺のリハビリ治療は終了した。最後のリハビリのとき、マナがポケットから手のひらサイズの紙袋を取り出した。

「これ、瑞樹に」
「何?」

 受け取って袋を逆さにすると、シルバーネックレスが落ちてくる。牙のようなモチーフが銀で形作られていた。

「これ、サメの歯の形なんだ。僕のタトゥーにも入っててね。『不屈の精神』とか、『勇気』といった意味があるんだよ」

 不屈の精神――か。俺には高尚すぎる言葉だな、と思う。

 マナは上機嫌で続けた。

「僕とお揃いで嬉しいでしょ?」
「……ちょっとキモいかな、男同士で」
「そういうの『天邪鬼』っていうんだよ」

 マナは呆れ顔をする。

 俺はネックレスを握りしめ、口元で弧を描いた。

「ムズカシイニホンゴ、ワカラナイ」


【続】