学習室が閉鎖される七時まで二人で勉強をし、学校を出た。日の沈んだ後とは思えぬ熱気が、ワイシャツの襟元から滑り込んでくる。校舎から正門まで歩くだけで首筋に汗が滲む。
「暑ぃな。アイスでも食う?」
花井が提案し、学校のすぐそばのコンビニに入る。「……しゃいませー」と大学生アルバイトと思しき男性が根暗な声を響かせた。
よく冷えた屋内に生き返る思いがする。オレはソーダ味のアイスキャンディーを、花井はバニラ味のカップアイスを購入した。コンビニの隣の小さな公園に設置されたベンチに二人で腰掛ける。
店員がつけてくれたプラスチックのミニスプーンで、花井はバニラアイスを口に運ぶ。
「真琴。その髪型、元に戻せない?」
何を言うかと思えば。藪から棒にも程がある。齧ったアイスキャンディを飲み込み、剣呑とした声で答える。
「無理だよ、もう切っちゃったんだから。そんなに似合ってない?」
五十嵐さんの自信作だったのにな、と改めて前髪に触れてみる。花井が声量を上げた。
「似合ってないなんて、一言も言ってないだろ」
「言ってたじゃん。朝、『駄目だわ』って」
「……ああ、あれは……そういう意味じゃなくて……」
花井は間の悪さを取り繕うように、もう一口バニラアイスをスプーンで掬う。
「ならどういう意味だよ」
「だから、つまり……いや、やめとくわ。キモいから」
「キモくて悪かったな!」
「真琴に言ってない。自分に言った」
「はあ?」
オレはつい喧嘩腰になる。
「花井にキモい要素なんてないだろ。頭はおかしいけど、一切キモくはない」
「良いニュースと悪いニュースを同時に報告してくるなよ」
花井が不満そうに肩の位置を高めた。
あと二、三日で満ちそうな月が出ていた。雲は見当たらず、夏の星座を簡単に見つけられた。田舎町の小さな夜の公園に、オレたち以外に人気はなかった。
「そういえばさ」
花井が再び話の接ぎ穂を投げてくる。
「真琴は、朋来大の何学部志望? この前、学部までは聞かなかったよな?」
「薬学部だよ」
「薬学部? そうなんだ。美術系なのかと思ってた」
水色のアイスキャンディーに前歯を当てると、少々沁みるような感覚があった。
「ばあちゃん、初期の認知症って言われててさ。オレ、半分はばあちゃんに育ててもらったようなもんだから、やっぱりそれ聞いた時、結構ショックで。いつかオレの顔も忘れちゃうような日がくるのかなって思ったら、つらかった」
スプーンを握った手を止め、花井は真剣な眼差しで耳を傾けている。祖母の病気の話は、片野にもしたことがない。だけど花井はオレに、つらい怪我の経験を踏まえた志望動機を話してくれた。だからこそ自然に、この話題を差し出すことができた。
「もちろん、薬は魔法みたいになんでも治せるわけじゃないけど……薬で治療できる病気が一つでも増えれば、きっとつらい思いをする人も減るよなって」
そうだったのか、と花井は深く頷いた。
「真琴はいちいち、格好いいな」
「そんなことないって」
花井の射抜いてくるような目線が照れ臭くて、顔を逸らす。アイスキャンディーの最後の一口を頬張ってから、リュックを漁った。
「そうだ。これ、描けたんだ。ネーム」
昨日の夜中に完成した漫画のネームを取り出す。全部で三十一ページ。漫画の新人賞に合わせたページ数でもある。
「ネーム?」
「漫画の、設計図っていうか。下描きの下描きみたいなやつ」
手渡されたコピー用紙を受け取り、花井は目を剥いた。
「これが下描きの下描き? もうめっちゃ上手いじゃん。棒人間とかなのかと思った」
「そういう人もいるけどね。オレは、ネームも結構描き込んじゃうほうで」
そのせいで筆が遅いのが難点だ。
「読んでいいのか?」
「うん、もちろん。ちょっと、恥ずかしいけど」
花井は食べ切っていないバニラアイスをベンチに置き、ネームに目を落とし始める。この暑さでアイスが溶けてしまうのも気にしていないようだった。
ヒグラシだろうか、遠くの方でカナカナという鳴き声が聞こえた。
オレは出来立てのネームよりも、芸術みたいに綺麗な花井の横顔ばかり見ていた。将来、どんなに絵が上達したとしても、この美麗な横顔を再現することはできないだろうと諦観する。
物語が終盤に差し掛かった時だった。
花井の目から、涙が一筋垂れた。
オレは咄嗟に謝る。
「あ――ごめん! 何か、気に障った……?」
Bがサッカーを挫折するシーンもある。
実際に怪我をした経験のあるスポーツ選手の伝記やインタビュー記事を読みあさり、必死に想像力を働かせ、その苦悩にリアリティを持たせたつもりだった。でもオレにとっては所詮、イメージの域を出ない世界だ。その理解の浅さゆえに、花井が気を悪くしたのではないか。もしくは彼の心の古傷に塩を塗るような、デリカシーのない表現をしてしまっただろうか。
花井は「違う。ごめん」と薄く笑って、親指で涙を拭った。
「ちょっと……感動して」
「ほ、本当……?」
その言葉にオレの方が泣きそうになった。
そのまま花井は最後のページを読み終え、顔を上げた。バニラアイスはほとんど液状化している。
「ど、どうだった?」
「……めちゃくちゃ、面白かった」
花井の表情は万感が込もっているように見えた。
「専門家じゃないから、平凡な感想しか言えなくてごめん。でも、なんていうか、とにかくめっちゃ面白かった。真琴って、本当にすごいんだな」
「……良かった」
ほっと胸を撫で下ろした。
「俺のサッカー人生は終わったけど、こうして真琴が漫画にしてくれることで、俺の青春が誰かの中で再生され続けていくんだな」
――漫画って、いいな。
感慨深げに花井がこぼした言葉に、また目頭が熱くなる。
花井はガラス細工を扱うような手つきで、ネームをクリアファイルにそっと差し込み、オレに返してきた。
「ありがとう、真琴。読ませてくれて」
「ありがとうは、こっちだよ。花井がいなかったら、この話は描けなかった」
オレが言うと花井は、慈しむような、尊ぶような色味をその目に宿し、こちらを見た。何か言葉を発するのかと思ったが、静かに微笑むだけで、溶けたバニラアイスをまた手に取る。
液体と化したアイスを器用にスプーンで啜り、花井は「あーあ」と出しぬけに声を出した。
「真琴はこんなに格好いいのに、俺ときたらどうだよ。だっせえな」
「え、何?」
花井は立て板に水で喋り出す。
「怪我して、サッカーできなくなって不貞腐れて、女とばっか遊ぶようになって。おかげで成績もボロボロでさ。負の連鎖かよ。だっせえ。ださすぎて目も当てられねえわ」
花井はベンチの背もたれに、項垂れるみたいに身を預けた。大きな溜息とともに頭上の夜空を仰いでいる。悔しがるように歯軋りすると、喉仏が印象的に上下した。何時間でも、ずっと見ていたいと思うほどの美しさだった。
笑う花井も、悔しがる花井も、漫画を読む花井も、オレを庇って怒ってくれる花井も、全部、全部綺麗だ。
「花井は、格好いいよ」
気づいたらそう、口に出していた。
「花井ほど格好いい人に、出会ったことない。オレにとっての、完璧な主人公だ」
花井の瞳が、夜空の星からオレの方へ焦点を当てる。ただ目が合っただけなのに、心拍が早まるのを感じた。
「……さっき、言わなかったけど」
花井は、オレの膝の上に置かれたネームを手で示した。そして艶のある微笑を口元に浮かべる。
「真琴に、ラブレターもらったみたいだって思った」
頬に朱が差すのが自分でもわかった。
「な、なんで花井は、すぐそういうこと言う……!」
「これ描いてるとき、いっぱい、俺のこと考えた?」
全身の血液が熱暴走するかのように滾った。頬も額も首も、熱くてたまらない。
花井の顔がゆっくりと近づいてきた。オレは一ミリも身動きが取れなかった。がなりたてる心音だけが聞こえる。
「……は、花――」
アイスで冷えた花井の唇が、自分のそれに重なる。喉から心臓が飛び出そうだった。
ちゅ、と短い音とともに、すぐに唇は離れた。口元を両手で押さえる。その手は小刻みに震えていた。
「……な、なんでキスしたの」
花井は怯まない。「なんでキスさせたの」
「そ、そ、そっちが勝手に……っ!」
「俺は悪くねーもん。蝿がとまりそうな速度で近づいたし。逃げなかったのは真琴だろ」
「は、蠅とか言うなよ! 情緒がないな!」
「情緒とか気にするタイプ?」
花井は互いの額をコツンと触れ合わせた。
「……なら、情緒があったら、キスしてもいいってこと?」
言葉が紡がれるたびに、バニラの甘い香りがした。
花井は、口元を覆い隠していたオレの手を取り、右手で優しく握る。そして、あいているほうの左手で、オレの短くなった髪に触れた。
「……髪型、似合ってるよ。最高に似合ってる。でも嫌だったんだ。みんなに知られるのが」
知られるって何を、とオレが問いかける前に花井は言葉を継いだ。
「真琴の瞳が、こんなに綺麗なことを知ってるのは、俺だけが良かった」
また唇が重なった。一度目よりも、もっと深く。
バニラの味がした。
――生涯、オレはバニラアイスを食べるたびに、この瞬間を思い出すのだろう。
夏に包まれながら、そう思った。
【続】
「暑ぃな。アイスでも食う?」
花井が提案し、学校のすぐそばのコンビニに入る。「……しゃいませー」と大学生アルバイトと思しき男性が根暗な声を響かせた。
よく冷えた屋内に生き返る思いがする。オレはソーダ味のアイスキャンディーを、花井はバニラ味のカップアイスを購入した。コンビニの隣の小さな公園に設置されたベンチに二人で腰掛ける。
店員がつけてくれたプラスチックのミニスプーンで、花井はバニラアイスを口に運ぶ。
「真琴。その髪型、元に戻せない?」
何を言うかと思えば。藪から棒にも程がある。齧ったアイスキャンディを飲み込み、剣呑とした声で答える。
「無理だよ、もう切っちゃったんだから。そんなに似合ってない?」
五十嵐さんの自信作だったのにな、と改めて前髪に触れてみる。花井が声量を上げた。
「似合ってないなんて、一言も言ってないだろ」
「言ってたじゃん。朝、『駄目だわ』って」
「……ああ、あれは……そういう意味じゃなくて……」
花井は間の悪さを取り繕うように、もう一口バニラアイスをスプーンで掬う。
「ならどういう意味だよ」
「だから、つまり……いや、やめとくわ。キモいから」
「キモくて悪かったな!」
「真琴に言ってない。自分に言った」
「はあ?」
オレはつい喧嘩腰になる。
「花井にキモい要素なんてないだろ。頭はおかしいけど、一切キモくはない」
「良いニュースと悪いニュースを同時に報告してくるなよ」
花井が不満そうに肩の位置を高めた。
あと二、三日で満ちそうな月が出ていた。雲は見当たらず、夏の星座を簡単に見つけられた。田舎町の小さな夜の公園に、オレたち以外に人気はなかった。
「そういえばさ」
花井が再び話の接ぎ穂を投げてくる。
「真琴は、朋来大の何学部志望? この前、学部までは聞かなかったよな?」
「薬学部だよ」
「薬学部? そうなんだ。美術系なのかと思ってた」
水色のアイスキャンディーに前歯を当てると、少々沁みるような感覚があった。
「ばあちゃん、初期の認知症って言われててさ。オレ、半分はばあちゃんに育ててもらったようなもんだから、やっぱりそれ聞いた時、結構ショックで。いつかオレの顔も忘れちゃうような日がくるのかなって思ったら、つらかった」
スプーンを握った手を止め、花井は真剣な眼差しで耳を傾けている。祖母の病気の話は、片野にもしたことがない。だけど花井はオレに、つらい怪我の経験を踏まえた志望動機を話してくれた。だからこそ自然に、この話題を差し出すことができた。
「もちろん、薬は魔法みたいになんでも治せるわけじゃないけど……薬で治療できる病気が一つでも増えれば、きっとつらい思いをする人も減るよなって」
そうだったのか、と花井は深く頷いた。
「真琴はいちいち、格好いいな」
「そんなことないって」
花井の射抜いてくるような目線が照れ臭くて、顔を逸らす。アイスキャンディーの最後の一口を頬張ってから、リュックを漁った。
「そうだ。これ、描けたんだ。ネーム」
昨日の夜中に完成した漫画のネームを取り出す。全部で三十一ページ。漫画の新人賞に合わせたページ数でもある。
「ネーム?」
「漫画の、設計図っていうか。下描きの下描きみたいなやつ」
手渡されたコピー用紙を受け取り、花井は目を剥いた。
「これが下描きの下描き? もうめっちゃ上手いじゃん。棒人間とかなのかと思った」
「そういう人もいるけどね。オレは、ネームも結構描き込んじゃうほうで」
そのせいで筆が遅いのが難点だ。
「読んでいいのか?」
「うん、もちろん。ちょっと、恥ずかしいけど」
花井は食べ切っていないバニラアイスをベンチに置き、ネームに目を落とし始める。この暑さでアイスが溶けてしまうのも気にしていないようだった。
ヒグラシだろうか、遠くの方でカナカナという鳴き声が聞こえた。
オレは出来立てのネームよりも、芸術みたいに綺麗な花井の横顔ばかり見ていた。将来、どんなに絵が上達したとしても、この美麗な横顔を再現することはできないだろうと諦観する。
物語が終盤に差し掛かった時だった。
花井の目から、涙が一筋垂れた。
オレは咄嗟に謝る。
「あ――ごめん! 何か、気に障った……?」
Bがサッカーを挫折するシーンもある。
実際に怪我をした経験のあるスポーツ選手の伝記やインタビュー記事を読みあさり、必死に想像力を働かせ、その苦悩にリアリティを持たせたつもりだった。でもオレにとっては所詮、イメージの域を出ない世界だ。その理解の浅さゆえに、花井が気を悪くしたのではないか。もしくは彼の心の古傷に塩を塗るような、デリカシーのない表現をしてしまっただろうか。
花井は「違う。ごめん」と薄く笑って、親指で涙を拭った。
「ちょっと……感動して」
「ほ、本当……?」
その言葉にオレの方が泣きそうになった。
そのまま花井は最後のページを読み終え、顔を上げた。バニラアイスはほとんど液状化している。
「ど、どうだった?」
「……めちゃくちゃ、面白かった」
花井の表情は万感が込もっているように見えた。
「専門家じゃないから、平凡な感想しか言えなくてごめん。でも、なんていうか、とにかくめっちゃ面白かった。真琴って、本当にすごいんだな」
「……良かった」
ほっと胸を撫で下ろした。
「俺のサッカー人生は終わったけど、こうして真琴が漫画にしてくれることで、俺の青春が誰かの中で再生され続けていくんだな」
――漫画って、いいな。
感慨深げに花井がこぼした言葉に、また目頭が熱くなる。
花井はガラス細工を扱うような手つきで、ネームをクリアファイルにそっと差し込み、オレに返してきた。
「ありがとう、真琴。読ませてくれて」
「ありがとうは、こっちだよ。花井がいなかったら、この話は描けなかった」
オレが言うと花井は、慈しむような、尊ぶような色味をその目に宿し、こちらを見た。何か言葉を発するのかと思ったが、静かに微笑むだけで、溶けたバニラアイスをまた手に取る。
液体と化したアイスを器用にスプーンで啜り、花井は「あーあ」と出しぬけに声を出した。
「真琴はこんなに格好いいのに、俺ときたらどうだよ。だっせえな」
「え、何?」
花井は立て板に水で喋り出す。
「怪我して、サッカーできなくなって不貞腐れて、女とばっか遊ぶようになって。おかげで成績もボロボロでさ。負の連鎖かよ。だっせえ。ださすぎて目も当てられねえわ」
花井はベンチの背もたれに、項垂れるみたいに身を預けた。大きな溜息とともに頭上の夜空を仰いでいる。悔しがるように歯軋りすると、喉仏が印象的に上下した。何時間でも、ずっと見ていたいと思うほどの美しさだった。
笑う花井も、悔しがる花井も、漫画を読む花井も、オレを庇って怒ってくれる花井も、全部、全部綺麗だ。
「花井は、格好いいよ」
気づいたらそう、口に出していた。
「花井ほど格好いい人に、出会ったことない。オレにとっての、完璧な主人公だ」
花井の瞳が、夜空の星からオレの方へ焦点を当てる。ただ目が合っただけなのに、心拍が早まるのを感じた。
「……さっき、言わなかったけど」
花井は、オレの膝の上に置かれたネームを手で示した。そして艶のある微笑を口元に浮かべる。
「真琴に、ラブレターもらったみたいだって思った」
頬に朱が差すのが自分でもわかった。
「な、なんで花井は、すぐそういうこと言う……!」
「これ描いてるとき、いっぱい、俺のこと考えた?」
全身の血液が熱暴走するかのように滾った。頬も額も首も、熱くてたまらない。
花井の顔がゆっくりと近づいてきた。オレは一ミリも身動きが取れなかった。がなりたてる心音だけが聞こえる。
「……は、花――」
アイスで冷えた花井の唇が、自分のそれに重なる。喉から心臓が飛び出そうだった。
ちゅ、と短い音とともに、すぐに唇は離れた。口元を両手で押さえる。その手は小刻みに震えていた。
「……な、なんでキスしたの」
花井は怯まない。「なんでキスさせたの」
「そ、そ、そっちが勝手に……っ!」
「俺は悪くねーもん。蝿がとまりそうな速度で近づいたし。逃げなかったのは真琴だろ」
「は、蠅とか言うなよ! 情緒がないな!」
「情緒とか気にするタイプ?」
花井は互いの額をコツンと触れ合わせた。
「……なら、情緒があったら、キスしてもいいってこと?」
言葉が紡がれるたびに、バニラの甘い香りがした。
花井は、口元を覆い隠していたオレの手を取り、右手で優しく握る。そして、あいているほうの左手で、オレの短くなった髪に触れた。
「……髪型、似合ってるよ。最高に似合ってる。でも嫌だったんだ。みんなに知られるのが」
知られるって何を、とオレが問いかける前に花井は言葉を継いだ。
「真琴の瞳が、こんなに綺麗なことを知ってるのは、俺だけが良かった」
また唇が重なった。一度目よりも、もっと深く。
バニラの味がした。
――生涯、オレはバニラアイスを食べるたびに、この瞬間を思い出すのだろう。
夏に包まれながら、そう思った。
【続】



