髪を切り終えて帰宅し、またすぐに自室にこもった。再び漫画の原稿の前に座り、シャーペンを掴む。伸びすぎた前髪を今朝まではピンで留めていたが、もう必要ない。
主人公Aの不遜な表情を描きながら、花井の高い鼻や、均整のとれた上品な唇を思い出す。Bの吹き出しの内容を捻り出すのに、花井の、ふとした一言で相手を幸福にしてしまう話し方を想起する。
頭の中で、ずっと花井の声が鳴っている。その声が、どんどん創作のイメージを呼び覚ましていく。
――数年間、深い眠りについていたクリエイターとしての自分が、花井の声によって起こされている。
そんなふうに感じた。
***
家を出たところでかけた今朝のモーニングコールでは、花井がすぐに応答した。
『おはよう、真琴』
常になくすっきりとしたその声調に、オレは拍子抜けする。
「もう起きてたの?」
『うん。三日ぶりに真琴から電話が来ると思ったら、嬉しくて目が覚めた』
「それ、モーニングコールの意味ある?」
すれ違った通行人に緩んだ口元を見られてしまい、咄嗟に左手で覆う。
『あるよ。めっちゃある。真琴から電話が来ると思うから起きられるんだ』
身支度をするような音がスピーカーから漏れてくる。
『近くにおばあさんいる? 話してよ』
「もう家出たからいないよ。名古屋弁を聞きたいだけだろ」
花井は、ちぇ、といじけるように舌を鳴らしてから、
『俺相手の会話じゃ無理?』
「無理じゃないけど、嫌だ。恥ずかしいから」
『真琴の名古屋弁からしか得られない栄養素があるんだよ』
なんだよそれ、とオレは腹筋を震わせて笑う。
オレはもともと、人との電話というものがあまり好きではなかった。相手の声を、鼓膜のすぐそばで聞くこの行為が、こんなに心地良いものだということを知らなかったからだ。
ハヤちゃんに餌をやりながら、何度も教室の壁掛け時計を見上げた。そろそろ花井が来るかな――。
窓に映る、随分と前髪の短くなった自分を再確認し、意味もなく毛先を指で整える。
「……花井、なんて言うかな」
やっぱり、少し切りすぎただろうか。五十嵐さんは手を叩いて絶賛してくれたし、母も「あら、いいじゃない!」と声を高めていた。でも花井みたいに、同年代で、本当にセンスのある人間が見たらどう感じるだろう――
「真琴、おはよ」
その声に、どきりとしてから振り向く。
「あ、おはよう、花井」
花井と目が合う。
彼は数秒、その場で硬直し、ただでさえ大きい二重の目をさらに拡大させた。じっと凝視され、いたたまれなくなって自分から髪の話題に触れる。
「昨日、髪切って。ど、どうかな……やっぱ、変かな」
花井は臆せぬ足取りでこちらに近寄り、あにはからんや、オレの髪をぐしゃぐしゃと両手で思い切りかき混ぜた。
「うわっ、何すんだよ! せっかく朝、セットしたのに……!」
「……これは駄目」うわごとのように呟いている。「これは駄目だわ」
ええ、とオレは眉毛をハの字に下げる。花井はお気に召さなかったらしい。肩を落とし、溜め息をついてハヤちゃんを見た。むろん気のせいだろうが、「ドンマイ」と慰められているように思えた。
その後は、いつも通り学習室で自習をし、始業の直前に二人で教室に戻った。
「おはよう真琴。先週のアース読んだ?」
片野がやってくる。肩にかけられた今日のタオルはイエローだった。
「あ、髪切った? うわあ、めちゃくちゃいいじゃん」
「そ、そうかな」
「うん、見違えたわ。垢抜けたからって、オレと友達辞めるなんて言うなよ」
「言うわけないだろ」
片野と談笑していると、横で輪を作っていた姦し三人娘が一斉にコーラスした。
「本当だ。悠木、髪切ったんだね」加藤が指をさしてくる。
「えっ、すごい似合ってる。いい感じ!」鈴木(すずき》が机に身を乗り出す。
「意外と可愛い顔してんだあ。今まで前髪長すぎて見えなかった」高橋《たかはし》がカラーコンタクトを装着した両眼を向けてくる。
オレは恐縮する。
「あ、ありがとうございます……」
花井はといえば、それらの反応を前に、どうしてかムスッと機嫌を損ねている。それはどういう情緒なんだよ、とオレは謎めいた花井の態度に首を傾げる。容姿の話題となれば真っ先に名前の挙がる花井のことだから、今日はオレばかりが注目されて面白くないのだろうか。
こんなに一度に、たくさんの人に風貌を褒めそやされた経験は今までない。でも気分はちっとも上がらなかった。
みんなに好評なのは嬉しいけど――オレは、花井に「いいね」って言ってほしかったのにな。
主人公Aの不遜な表情を描きながら、花井の高い鼻や、均整のとれた上品な唇を思い出す。Bの吹き出しの内容を捻り出すのに、花井の、ふとした一言で相手を幸福にしてしまう話し方を想起する。
頭の中で、ずっと花井の声が鳴っている。その声が、どんどん創作のイメージを呼び覚ましていく。
――数年間、深い眠りについていたクリエイターとしての自分が、花井の声によって起こされている。
そんなふうに感じた。
***
家を出たところでかけた今朝のモーニングコールでは、花井がすぐに応答した。
『おはよう、真琴』
常になくすっきりとしたその声調に、オレは拍子抜けする。
「もう起きてたの?」
『うん。三日ぶりに真琴から電話が来ると思ったら、嬉しくて目が覚めた』
「それ、モーニングコールの意味ある?」
すれ違った通行人に緩んだ口元を見られてしまい、咄嗟に左手で覆う。
『あるよ。めっちゃある。真琴から電話が来ると思うから起きられるんだ』
身支度をするような音がスピーカーから漏れてくる。
『近くにおばあさんいる? 話してよ』
「もう家出たからいないよ。名古屋弁を聞きたいだけだろ」
花井は、ちぇ、といじけるように舌を鳴らしてから、
『俺相手の会話じゃ無理?』
「無理じゃないけど、嫌だ。恥ずかしいから」
『真琴の名古屋弁からしか得られない栄養素があるんだよ』
なんだよそれ、とオレは腹筋を震わせて笑う。
オレはもともと、人との電話というものがあまり好きではなかった。相手の声を、鼓膜のすぐそばで聞くこの行為が、こんなに心地良いものだということを知らなかったからだ。
ハヤちゃんに餌をやりながら、何度も教室の壁掛け時計を見上げた。そろそろ花井が来るかな――。
窓に映る、随分と前髪の短くなった自分を再確認し、意味もなく毛先を指で整える。
「……花井、なんて言うかな」
やっぱり、少し切りすぎただろうか。五十嵐さんは手を叩いて絶賛してくれたし、母も「あら、いいじゃない!」と声を高めていた。でも花井みたいに、同年代で、本当にセンスのある人間が見たらどう感じるだろう――
「真琴、おはよ」
その声に、どきりとしてから振り向く。
「あ、おはよう、花井」
花井と目が合う。
彼は数秒、その場で硬直し、ただでさえ大きい二重の目をさらに拡大させた。じっと凝視され、いたたまれなくなって自分から髪の話題に触れる。
「昨日、髪切って。ど、どうかな……やっぱ、変かな」
花井は臆せぬ足取りでこちらに近寄り、あにはからんや、オレの髪をぐしゃぐしゃと両手で思い切りかき混ぜた。
「うわっ、何すんだよ! せっかく朝、セットしたのに……!」
「……これは駄目」うわごとのように呟いている。「これは駄目だわ」
ええ、とオレは眉毛をハの字に下げる。花井はお気に召さなかったらしい。肩を落とし、溜め息をついてハヤちゃんを見た。むろん気のせいだろうが、「ドンマイ」と慰められているように思えた。
その後は、いつも通り学習室で自習をし、始業の直前に二人で教室に戻った。
「おはよう真琴。先週のアース読んだ?」
片野がやってくる。肩にかけられた今日のタオルはイエローだった。
「あ、髪切った? うわあ、めちゃくちゃいいじゃん」
「そ、そうかな」
「うん、見違えたわ。垢抜けたからって、オレと友達辞めるなんて言うなよ」
「言うわけないだろ」
片野と談笑していると、横で輪を作っていた姦し三人娘が一斉にコーラスした。
「本当だ。悠木、髪切ったんだね」加藤が指をさしてくる。
「えっ、すごい似合ってる。いい感じ!」鈴木(すずき》が机に身を乗り出す。
「意外と可愛い顔してんだあ。今まで前髪長すぎて見えなかった」高橋《たかはし》がカラーコンタクトを装着した両眼を向けてくる。
オレは恐縮する。
「あ、ありがとうございます……」
花井はといえば、それらの反応を前に、どうしてかムスッと機嫌を損ねている。それはどういう情緒なんだよ、とオレは謎めいた花井の態度に首を傾げる。容姿の話題となれば真っ先に名前の挙がる花井のことだから、今日はオレばかりが注目されて面白くないのだろうか。
こんなに一度に、たくさんの人に風貌を褒めそやされた経験は今までない。でも気分はちっとも上がらなかった。
みんなに好評なのは嬉しいけど――オレは、花井に「いいね」って言ってほしかったのにな。



