君の声で起こして。〜学校一のモテ男を電話で起こしてたら陰キャなのに懐かれて付き合うまでの話〜

 その日の花井は、物思いに耽るように窓の外を眺めていることが多かった。物憂げな横顔も、目尻を下げるいつもの笑い方も、レンブラントの絵画のように様になる男だ。

 オレは朝の一件による動悸を昼頃まで引きずり、放課後になってようやく正常の精神状態が戻ることができた。片野に「なんか顔赤いぞ。熱でもあるのか」と何度も心配された。

「真琴、今日も学習室行くのか?」

 下校の準備を終えた片野がリュックを背負いながら言う。「パズ虎」に出てくる女性キャラクターのキーホルダーが、大量にリュックにぶら下がっている。

「もしこのまま帰るんなら、一緒に本屋行かね? 金曜日だし」

 金曜日は週刊少年アースの発売日だ。

「ああ、そうか、金曜日……忘れてた」
「ええ? 真琴がアースを忘れるとは」

 すると花井が後方から現れ、オレと肩を組んできた。

「真琴は俺と先約。悪いな、片野」

 肩同士が密着し、せっかく収まった動悸が再発しかける。花井という光の戦士にまともに対峙した片野は、なす術もなく「お、おう」と低く唸いてから足早に教室を辞する。「また来週な!」とオレは慌てて片野に手を振った。

 真琴、と呼びかけられたのをオレは聞き逃さなかった。

「いつから下の名前で呼ぶようになったわけ」
「今。片野がそう呼んでたから」
「……何と張り合ってんだよ……」

 オレは花井の腕の中から逃れるようにゆっくりと歩き出す。香水なのか整髪剤のたぐいなのか不明だが、花井からはものすごく良い匂いがした。レモンやマンダリンのような柑橘系の爽やかな香りだ。

「真琴はちょっと先行ってて。俺は一つ用事を済ませてから――」
「ハナぁ。一緒に帰ろー」
「……用事があっちから来た」花井がひとりごちる。

 教室の扉に一人の女子が現れた。アッシュグレーに染まったセミロングヘアは、手入れが行き届いていて艶がある。シューズには「牧(まき)」と記名してあった。マキといえば確か、花井のガールフレンドだったはずだ。てっきり下の名前かと思っていたが、苗字なのか。

 肩が触れ合うほどの距離で花井の横に立っているオレを、牧は珍妙な爬虫類でも見るような目で観察した。そして顔面筋を引き攣らせるように薄く笑う。

「なんでオタク連れてんの?」
「……はあ?」

 花井が冷ややかな声色をこぼした。

「昨日の放課後もいなかったけど、このオタクと一緒だったの? オタクがうつっちゃうよ」
「真琴はそんな名前じゃねえ。見下したような言い方すんな」

 一触即発の空気にオレの方がそわそわしてくる。

「べ、別に大丈夫だから、花井」

 オタクが伝染するかはさて置き、牧の言っていることは間違っていない。オレと花井が昨日も一緒だったことも、オレがオタクであることも事実だ。

 花井はズボンのポケットからシルバーリングを取り出した。昨日までは右手に嵌めていたはずだが、いつの間にか外していたらしい。

「これ返す。もう連絡してくんな。真琴、行こう」
「えっ……ええ……」

 あまりのことに挙動不審になりながら花井の後を追う。牧は呆然とした表情でその場に立ち尽くしていた。

 廊下に出てから、未だに怒気を漂わせている花井の横顔を伺う。

「なんで、オレなんかのことで彼女と喧嘩するんだよ」

 喧嘩というか、今のはもはや、別れ話だろうか。

「当然だ。俺は、俺がリスペクトしているものを蔑ろにされるのが一番嫌いなんだよ」
「な、なんだよそれ……」

 喧嘩の火種となってしまったことに責任を感じていたのに――そんな言い方をされたら、つい、にやけてしまいそうになる。頬の裏側を噛んで、ポーカーフェイスに努めた。

「それに今の一件がなくても、今日別れ話をしにいくつもりだったし」

 さっき花井が言っていた「用事」とはそのことだろう。

「今日? 何で急に?」

 花井が廊下で足を止めたので、オレも真似して立ち止まる。花井からは、さきほどまでのピリついた気配は消え失せていた。

「何で急にって?」
「う……うん。え、何?」

 花井はちょっと肩をすくめ、陽とも陰ともとれない複雑な顔色で、オレの方をまじまじと見た。

「……それ言わす?」

 花井はそう囁くと歩みを再開する。オレは腕いっぱいの疑問符を抱えながら、灼熱の廊下でもなぜか涼しげな背中を追いかけた。


【続】