風呂も入らずに寝てしまったため、シャワーを浴びてから家を出る。できる限り急いで支度をしたが、既に七時を過ぎてしまった。
電車を降り、校門の近くまでたどり着いたあたりで、花井からメッセージが届いた。
『学習室にいる。魚に餌はあげといた。生きてる方の名前はなんだっけ?』
生乾きの頭を手櫛で梳きながら返信する。あと数分で顔を合わせるのに、わざわざメッセージを送るまでもないとは思ったが、勝手に指が動いた。
『ハヤちゃん。生前の担当はオレなのに、ごめん。ありがとう』
送信ボタンを押す。即座に既読がつき、茶色のクマが陽気にVサインをしたスタンプが送られてきた。小走りで昇降口を進む。
学習室の扉を開けると、花井のほかにも二人ほど生徒がいた。生徒たちは間合いを取り合うかのように、適正な距離をおいた場所にそれぞれ座っている。
三人がけの長机の左端に座る花井が手を挙げた。真ん中は荷物置きにして、オレは右端に腰を下ろした。
「寝坊なんて久しぶりにしたよ」
花井が口角を吊り上げて八重歯を覗かせた。
「そんなに遅くまで勉強してたのか? まさか悠木もE判定?」
「一緒にしないでくれる?」背もたれに寄りかかって腕を組む。「何事もなければ、オレは夏休み明けには朋来大の指定校推薦をもらえる予定だから」
「そうなのか?」両の三白眼をぱちくりさせている。「じゃあ逆に、なんで勉強してんの。学期末テストも終わったのに」
「一般受験組と推薦組じゃ、どうしても学力に差がつくし。『これだから推薦組は』って言われたくないんだよ」
「悠木らしいな。格好いい」
花井の率直な物言いは未だに慣れず、いちいち心拍の不細工な乱れを覚える。茶を濁すように、ずれてもいないメガネの位置を直した。
花井の方を見ないようにしながら口火を切る。
「……昨日、ちょっとまた、漫画描いててさ」
「へえ」花井の楽しげな相槌が左から響く。
「その、えっと……花井のことを、描こうかと思ってて」
「俺?」
勝手に彼をモデルにする上、彼の人生から着想を得たストーリーを、許可もなく描いてしまうのは失礼な気がした。
「花井を主役のモデルにして、サッカーのこととか、怪我したこととか、そういうのも含めて描いてみたくて……いいかな?」
「駄目って言うと思う?」
花井が相好を崩す。その名の通り、花のように笑う男だ。「描けたら読ませてな」と花井は言い募ってから、
「受験が終わってるうえ、夢にまで邁進してんの? E判定のぬかるみにいる俺とは月とスッポンだな。尊敬だわ」
「そんな大仰なものじゃないって」
はあ、と花井はひとつ大きく溜息をついてから、何かを思いついたみたいに頬杖から顔を上げた。
「でも、主役が俺ってことはさ」
「ん?」
「その漫画を描いてるあいだじゅう、俺のこと考えてるってこと?」
主人公は二人いるが、どちらも花井がモデルになっている。花井の端正な容貌はAが、歯に衣着せぬ口調はBが引き継いだ。そのどちらを描写していても、「花井ならどんな表情をするかな」、「花井ならこんな言い方はしないかな」と考慮することになる。
「ま、まあ、そうなるかな……どうしたって……」
「ふーん。なんていうか……それって」
花井にしては珍しく歯切れが悪い。
「何?」
「なんか、悠木に恋されてるみたい」
「はっ?」
全身が発熱した。発作的に金切り声を響かせてしまう。
「ただの、創作活動だからッ!」
他の生徒たちの冷然とした目線を感じ、浮かしかけた腰を椅子に戻す。オレの渾身の怒号を受けても、花井はてんで物怖じしていない。
「それに」
「まだ喋るのか」オレは般若のごとき顔で凄む。
「俺のいないところでも、悠木が俺のことを考えてると思うと――、」
花井は頭の後ろで手を組み、柔和な顔つきで虚空を眺めている。
「なんだろ。なんつーか、めっちゃドキドキする」
オレは開いた口が塞がらなかった。肋骨の下で心臓が暴動を起こしている。目のやり場に困って俯くと、ワイシャツから覗いたデコルテのあたりまで真っ赤だった。いわんや顔面をや、である。
「なんでだろうな?」
素朴な声で問うてくる花井には、「オレが知るわけないだろ」としか返せなかった。
本来の目的である自主学習を始めようとテキストを開いたが、目が滑るばかりで一問も解けなかった。
電車を降り、校門の近くまでたどり着いたあたりで、花井からメッセージが届いた。
『学習室にいる。魚に餌はあげといた。生きてる方の名前はなんだっけ?』
生乾きの頭を手櫛で梳きながら返信する。あと数分で顔を合わせるのに、わざわざメッセージを送るまでもないとは思ったが、勝手に指が動いた。
『ハヤちゃん。生前の担当はオレなのに、ごめん。ありがとう』
送信ボタンを押す。即座に既読がつき、茶色のクマが陽気にVサインをしたスタンプが送られてきた。小走りで昇降口を進む。
学習室の扉を開けると、花井のほかにも二人ほど生徒がいた。生徒たちは間合いを取り合うかのように、適正な距離をおいた場所にそれぞれ座っている。
三人がけの長机の左端に座る花井が手を挙げた。真ん中は荷物置きにして、オレは右端に腰を下ろした。
「寝坊なんて久しぶりにしたよ」
花井が口角を吊り上げて八重歯を覗かせた。
「そんなに遅くまで勉強してたのか? まさか悠木もE判定?」
「一緒にしないでくれる?」背もたれに寄りかかって腕を組む。「何事もなければ、オレは夏休み明けには朋来大の指定校推薦をもらえる予定だから」
「そうなのか?」両の三白眼をぱちくりさせている。「じゃあ逆に、なんで勉強してんの。学期末テストも終わったのに」
「一般受験組と推薦組じゃ、どうしても学力に差がつくし。『これだから推薦組は』って言われたくないんだよ」
「悠木らしいな。格好いい」
花井の率直な物言いは未だに慣れず、いちいち心拍の不細工な乱れを覚える。茶を濁すように、ずれてもいないメガネの位置を直した。
花井の方を見ないようにしながら口火を切る。
「……昨日、ちょっとまた、漫画描いててさ」
「へえ」花井の楽しげな相槌が左から響く。
「その、えっと……花井のことを、描こうかと思ってて」
「俺?」
勝手に彼をモデルにする上、彼の人生から着想を得たストーリーを、許可もなく描いてしまうのは失礼な気がした。
「花井を主役のモデルにして、サッカーのこととか、怪我したこととか、そういうのも含めて描いてみたくて……いいかな?」
「駄目って言うと思う?」
花井が相好を崩す。その名の通り、花のように笑う男だ。「描けたら読ませてな」と花井は言い募ってから、
「受験が終わってるうえ、夢にまで邁進してんの? E判定のぬかるみにいる俺とは月とスッポンだな。尊敬だわ」
「そんな大仰なものじゃないって」
はあ、と花井はひとつ大きく溜息をついてから、何かを思いついたみたいに頬杖から顔を上げた。
「でも、主役が俺ってことはさ」
「ん?」
「その漫画を描いてるあいだじゅう、俺のこと考えてるってこと?」
主人公は二人いるが、どちらも花井がモデルになっている。花井の端正な容貌はAが、歯に衣着せぬ口調はBが引き継いだ。そのどちらを描写していても、「花井ならどんな表情をするかな」、「花井ならこんな言い方はしないかな」と考慮することになる。
「ま、まあ、そうなるかな……どうしたって……」
「ふーん。なんていうか……それって」
花井にしては珍しく歯切れが悪い。
「何?」
「なんか、悠木に恋されてるみたい」
「はっ?」
全身が発熱した。発作的に金切り声を響かせてしまう。
「ただの、創作活動だからッ!」
他の生徒たちの冷然とした目線を感じ、浮かしかけた腰を椅子に戻す。オレの渾身の怒号を受けても、花井はてんで物怖じしていない。
「それに」
「まだ喋るのか」オレは般若のごとき顔で凄む。
「俺のいないところでも、悠木が俺のことを考えてると思うと――、」
花井は頭の後ろで手を組み、柔和な顔つきで虚空を眺めている。
「なんだろ。なんつーか、めっちゃドキドキする」
オレは開いた口が塞がらなかった。肋骨の下で心臓が暴動を起こしている。目のやり場に困って俯くと、ワイシャツから覗いたデコルテのあたりまで真っ赤だった。いわんや顔面をや、である。
「なんでだろうな?」
素朴な声で問うてくる花井には、「オレが知るわけないだろ」としか返せなかった。
本来の目的である自主学習を始めようとテキストを開いたが、目が滑るばかりで一問も解けなかった。



