夜の虫の音は、遠雷に似ている。音はすれども、その姿を確認することはできない。
カナカナと、ずっとどこかから蝉の鳴き声がしている。小さな公園に設置された、ペンキのはげたベンチの上で、隣に腰掛ける花井《はない》が言う。
「……さっき、言わなかったけど」
花井は、オレの膝の上に置かれたネームを手で示した。そして艶のある微笑を口元に浮かべる。
「真琴《まこと》に、ラブレターもらったみたいだって思った」
頬に朱が差すのが自分でもわかった。
「な、なんで花井は、すぐそういうこと言う……!」
「これ描いてるとき、いっぱい、俺のこと考えた?」
全身の血液が熱暴走するかのように滾った。頬も額も首も、熱くてたまらない。
花井の顔がゆっくりと近づいてきた。オレは一ミリも身動きが取れなかった。がなりたてる心音だけが聞こえる。
金髪の前髪の隙間から覗く彼の双眸に、吸い込まれそうになる。
「……は、花――」
アイスで冷えた花井の唇が、自分のそれに重なる。喉から心臓が飛び出そうだった。
――なんで、こんなことになっている?
学園一のモテ男と、底辺陰キャのオレが、なんで、こんなことに? ほんの一週間前まで、ほとんど関わりもなかったのに。
ちゅ、と短い音とともに、すぐに唇は離れた。口元を両手で押さえると、指先に黒縁のメガネが当たった。その手は小刻みに震えている。
「……な、なんでキスしたの」
花井は怯まない。「なんでキスさせたの」
「そ、そ、そっちが勝手に……っ!」
「俺は悪くねーもん。蝿がとまりそうな速度で近づいたし。逃げなかったのは真琴だろ」
「は、蠅とか言うなよ! 情緒がないな!」
「情緒とか気にするタイプ?」
花井は互いの額をコツンと触れ合わせた。
「……なら、情緒があったら、キスしてもいいってこと?」
言葉が紡がれるたびに、バニラの甘い香りがした。
【君の声で起こして。】
日本の夏は「死季」だ。
「……あれ、アブちゃんは?」
制服のワイシャツをパタパタとやって風を通しながら、教室の窓際に置かれた水槽を覗く。早朝のため、オレを除いて教室は無人だ。冷房のスイッチを付けたが、室内が冷えるまでには時間がかかる。教室の後方に並んで貼られた書道の半紙が、冷房の風を受けてパタパタと揺れている。
「おーい、アブちゃーん。あれ? いないな」
昨日まで水槽内には、確かに二匹の魚が泳いでいた。
クラスメートの一人が、「弟が捕ってきた」と突然持ち込んできた川魚だ。スマホで調べたらアブラハヤという名前の魚だと知り、オレは勝手に「アブちゃん」、「ハヤちゃん」と命名していた。見分けは長短でつけた。短い方がアブちゃん、長い方がハヤちゃんだ。雌雄は不明である。
「暑すぎて死んじゃったのかなあ」
人も融けてしまいそうなこの暑さの中では、水の温度も上がってしまうだろうし、無理もないか……そう思いつつ水槽の底を探してみるが、アブちゃんの死骸は見当たらない。汗でずり下がってきた黒縁眼鏡を指で戻す。
アブラハヤを持ち込んだクラスメートは、使われていなかった水槽に魚を入れたきり、世話をする様子はなかった。心配だったが、そのクラスメートの目がある場所で魚の世話をするのは、当てつけのようで気が進まなかった。オレのようなスクールカースト最底辺の「陰キャ」は、相手に喧嘩を売りかねない行動は慎むべきだ。
身を乗り出して水槽の裏側を見てみると、そこにアブちゃんがいた。いや、正確には「アブちゃんだったもの」だ。
「え、アブラハヤって共食いすんの?」
アブちゃんはハラワタを失った無惨な状態で底に横たわっていた。弱肉強食という自然の摂理の厳しさに言葉を失う。
「か、可哀想に……」
共食いをするという生態を事前に知っていれば、水槽を分けるなどの対策ができたのに。自分が無知なばかりにこんなことになってしまった。なんということだ、あとで埋葬してあげねば――
「悠木?」
オレは名を呼ばれて肩をそびやかした。
教室の入り口に、花井瑞樹という男が立っていた。一瞬目が合ってしまったが、オレはすぐに逸らす。そもそも自分の名前を覚えられていたことが意外だった。
「こんな早い時間、絶対誰もいねーと思ったのに。ビビったわ」
何故か驚かせてしまったようなので、とりあえず「すみません」と小さく頭を下げておく。手に持っていた川魚の餌を、自分の机の中に仕舞った。
「なんで謝んの?」
花井は首を傾げて笑った。第二ボタンまで開かれたワイシャツから、華奢なデザインのシルバーネックレスが覗いている。
なぜ謝るって――そんなの当然だ。何をどうまかり間違っても、あの男を敵に回すわけにはいかない。
彼はまさしくスクールカーストのトップオブトップといえる。女子たちの支持はさることながら、お高くとまらない人柄から男友達も多い。太陽の下では白っぽく見えるほど強くブリーチをかけた金髪が、ここまで様になる日本人はなかなかいないだろう。
「花井」という苗字からしてまず華がある。彼の先祖は、末代にこの男が生まれることを予見して「花井」という苗字をチョイスしたに違いない。
自分とは生まれた星が違う。同じ地球人であるはずなのに、そう思わずにはいられない。
たとえばオレが彼に何か粗相をし怒りを買ったとして、花井が本気を出せば、オレを学校で孤立させることなど造作もないだろう。ここが自然界なら、自分はまさしく食い殺されたアブちゃんであり、今日も優雅に水中を遊泳しているハヤちゃんはあの男だ。
「いつもこんなに早えーの?」
「え」
まさか会話が続くとは思わず、身を硬くする。「あ、はい」と短く回答した。今度はずり下がってきたわけではないが、意味もなく眼鏡の位置を正した。
「なんで敬語?」花井はまたおかしそうに笑う。
「……い、一軍の人と話すのは、緊張するので」
一軍? と目を丸くしている。
「打率が何割を下回ったら二軍になるんだ?」
素振りしなきゃな、と満更でもなさそうな顔で言う花井に、野球の話はしてないけど、と無音で返す。
「俺が今日こんなに早いのはさ。あ、ほら、俺っていつもギリギリだろ?」
花井はオレに話しかけてきているんだよな、と改めて周囲を確認してから、首肯する。彼が登校してくるのはいつも始業直前だ。女子が一斉に黄色い声で挨拶をするので、花井が教室に入ってくる瞬間は見なくてもわかる。
「カーテン閉め忘れて寝たら、眩しくて目ぇ覚めて。そしたら出勤前の母親と鉢合わせてさ。この前の模試で志望校がE判定だったこと、むちゃくちゃ責められて、腹立って家出てきた」
「そ……そうなんだ」
初めて絡むような相手に対して、こんなふうに打ち解けて会話を持ちかけてくるとは、さすがは「陽キャ」の教祖である。他人との距離の詰め方が、日陰に生きる人種とは段違いだ。しかも、どうしてか不快ではないから魔術的だ。
「そんだけ?」
「え?」
素っ頓狂な声を出すオレに、花井は肩をすくめる。
「もっとこう、『母親なんてそんなもんだろ』とか、『今の時期にE判定ならそりゃ怒られるわ』とか、ないわけ?」
「こ、コミュ障だから……会話を広げられなくて、ごめん」
「そこの魚には流暢に話しかけてたのに」
「見てたのッ?」
瞬時に顔が熱くなった。「陰キャ・コミュ障・オタク」であるというだけで既に悲劇の三重奏を奏でているのに、そこに「変人」というメタファーまで加わったら絶望の四重奏になる。
変な汗をかいて絶句しているオレを、花井は意に介するふうでもない。
「俺への興味、魚以下? この花井瑞樹が川魚に負ける日が来るとはなあ」
花井は奇妙な自虐をしながら水槽に近寄り、中を覗き込んだ。
「佐田が持ってきた魚だよな? 誰も世話しないわりに長生きしてんなと不思議だったけど、悠木がしてくれてたんだな」
「……でも今朝、一匹死んじゃって」
「あ、本当だ。食われてる。共食いだよな? グロぉ。同じ仲間を食うなよな。自然界きついわ。死ぬほど腹減ってたのかな。な?」
「ど、どうだろうね」
よく喋る男だなあ、とオレは舌を巻く。自分とはまるで対極の人種であることを再確認する。
「なんか可哀想だな。埋葬してやる?」
「え」
彼が自分と同じ発想にたどり着いたことに驚いた。オレとは似てもにつかぬ容貌をした器のなかに、自分の体内に流れるものと同じ水脈を見つけたような気持ちになる。
花井は水槽が載っているささくれだった木製のロッカーを漁り出し、「割り箸があったような」などとぶつぶつ言っている。
「あ、ほら、あった」
既に割られている薄汚れた割り箸をどこからか引っ張り出す。もともと肘のあたりまで折るように捲られていたワイシャツを、さらに肩に近いところまで引き上げ、なんの躊躇もなく水槽の中に割り箸を突っ込んだ。アブちゃんの亡骸をそっと摘み、そばにあった植木鉢の受け皿に横たえさせる。
「中庭がいいかな」
花井は受け皿を持ってさっさと教室を出ていく。オレは慌てて後を追った。
カナカナと、ずっとどこかから蝉の鳴き声がしている。小さな公園に設置された、ペンキのはげたベンチの上で、隣に腰掛ける花井《はない》が言う。
「……さっき、言わなかったけど」
花井は、オレの膝の上に置かれたネームを手で示した。そして艶のある微笑を口元に浮かべる。
「真琴《まこと》に、ラブレターもらったみたいだって思った」
頬に朱が差すのが自分でもわかった。
「な、なんで花井は、すぐそういうこと言う……!」
「これ描いてるとき、いっぱい、俺のこと考えた?」
全身の血液が熱暴走するかのように滾った。頬も額も首も、熱くてたまらない。
花井の顔がゆっくりと近づいてきた。オレは一ミリも身動きが取れなかった。がなりたてる心音だけが聞こえる。
金髪の前髪の隙間から覗く彼の双眸に、吸い込まれそうになる。
「……は、花――」
アイスで冷えた花井の唇が、自分のそれに重なる。喉から心臓が飛び出そうだった。
――なんで、こんなことになっている?
学園一のモテ男と、底辺陰キャのオレが、なんで、こんなことに? ほんの一週間前まで、ほとんど関わりもなかったのに。
ちゅ、と短い音とともに、すぐに唇は離れた。口元を両手で押さえると、指先に黒縁のメガネが当たった。その手は小刻みに震えている。
「……な、なんでキスしたの」
花井は怯まない。「なんでキスさせたの」
「そ、そ、そっちが勝手に……っ!」
「俺は悪くねーもん。蝿がとまりそうな速度で近づいたし。逃げなかったのは真琴だろ」
「は、蠅とか言うなよ! 情緒がないな!」
「情緒とか気にするタイプ?」
花井は互いの額をコツンと触れ合わせた。
「……なら、情緒があったら、キスしてもいいってこと?」
言葉が紡がれるたびに、バニラの甘い香りがした。
【君の声で起こして。】
日本の夏は「死季」だ。
「……あれ、アブちゃんは?」
制服のワイシャツをパタパタとやって風を通しながら、教室の窓際に置かれた水槽を覗く。早朝のため、オレを除いて教室は無人だ。冷房のスイッチを付けたが、室内が冷えるまでには時間がかかる。教室の後方に並んで貼られた書道の半紙が、冷房の風を受けてパタパタと揺れている。
「おーい、アブちゃーん。あれ? いないな」
昨日まで水槽内には、確かに二匹の魚が泳いでいた。
クラスメートの一人が、「弟が捕ってきた」と突然持ち込んできた川魚だ。スマホで調べたらアブラハヤという名前の魚だと知り、オレは勝手に「アブちゃん」、「ハヤちゃん」と命名していた。見分けは長短でつけた。短い方がアブちゃん、長い方がハヤちゃんだ。雌雄は不明である。
「暑すぎて死んじゃったのかなあ」
人も融けてしまいそうなこの暑さの中では、水の温度も上がってしまうだろうし、無理もないか……そう思いつつ水槽の底を探してみるが、アブちゃんの死骸は見当たらない。汗でずり下がってきた黒縁眼鏡を指で戻す。
アブラハヤを持ち込んだクラスメートは、使われていなかった水槽に魚を入れたきり、世話をする様子はなかった。心配だったが、そのクラスメートの目がある場所で魚の世話をするのは、当てつけのようで気が進まなかった。オレのようなスクールカースト最底辺の「陰キャ」は、相手に喧嘩を売りかねない行動は慎むべきだ。
身を乗り出して水槽の裏側を見てみると、そこにアブちゃんがいた。いや、正確には「アブちゃんだったもの」だ。
「え、アブラハヤって共食いすんの?」
アブちゃんはハラワタを失った無惨な状態で底に横たわっていた。弱肉強食という自然の摂理の厳しさに言葉を失う。
「か、可哀想に……」
共食いをするという生態を事前に知っていれば、水槽を分けるなどの対策ができたのに。自分が無知なばかりにこんなことになってしまった。なんということだ、あとで埋葬してあげねば――
「悠木?」
オレは名を呼ばれて肩をそびやかした。
教室の入り口に、花井瑞樹という男が立っていた。一瞬目が合ってしまったが、オレはすぐに逸らす。そもそも自分の名前を覚えられていたことが意外だった。
「こんな早い時間、絶対誰もいねーと思ったのに。ビビったわ」
何故か驚かせてしまったようなので、とりあえず「すみません」と小さく頭を下げておく。手に持っていた川魚の餌を、自分の机の中に仕舞った。
「なんで謝んの?」
花井は首を傾げて笑った。第二ボタンまで開かれたワイシャツから、華奢なデザインのシルバーネックレスが覗いている。
なぜ謝るって――そんなの当然だ。何をどうまかり間違っても、あの男を敵に回すわけにはいかない。
彼はまさしくスクールカーストのトップオブトップといえる。女子たちの支持はさることながら、お高くとまらない人柄から男友達も多い。太陽の下では白っぽく見えるほど強くブリーチをかけた金髪が、ここまで様になる日本人はなかなかいないだろう。
「花井」という苗字からしてまず華がある。彼の先祖は、末代にこの男が生まれることを予見して「花井」という苗字をチョイスしたに違いない。
自分とは生まれた星が違う。同じ地球人であるはずなのに、そう思わずにはいられない。
たとえばオレが彼に何か粗相をし怒りを買ったとして、花井が本気を出せば、オレを学校で孤立させることなど造作もないだろう。ここが自然界なら、自分はまさしく食い殺されたアブちゃんであり、今日も優雅に水中を遊泳しているハヤちゃんはあの男だ。
「いつもこんなに早えーの?」
「え」
まさか会話が続くとは思わず、身を硬くする。「あ、はい」と短く回答した。今度はずり下がってきたわけではないが、意味もなく眼鏡の位置を正した。
「なんで敬語?」花井はまたおかしそうに笑う。
「……い、一軍の人と話すのは、緊張するので」
一軍? と目を丸くしている。
「打率が何割を下回ったら二軍になるんだ?」
素振りしなきゃな、と満更でもなさそうな顔で言う花井に、野球の話はしてないけど、と無音で返す。
「俺が今日こんなに早いのはさ。あ、ほら、俺っていつもギリギリだろ?」
花井はオレに話しかけてきているんだよな、と改めて周囲を確認してから、首肯する。彼が登校してくるのはいつも始業直前だ。女子が一斉に黄色い声で挨拶をするので、花井が教室に入ってくる瞬間は見なくてもわかる。
「カーテン閉め忘れて寝たら、眩しくて目ぇ覚めて。そしたら出勤前の母親と鉢合わせてさ。この前の模試で志望校がE判定だったこと、むちゃくちゃ責められて、腹立って家出てきた」
「そ……そうなんだ」
初めて絡むような相手に対して、こんなふうに打ち解けて会話を持ちかけてくるとは、さすがは「陽キャ」の教祖である。他人との距離の詰め方が、日陰に生きる人種とは段違いだ。しかも、どうしてか不快ではないから魔術的だ。
「そんだけ?」
「え?」
素っ頓狂な声を出すオレに、花井は肩をすくめる。
「もっとこう、『母親なんてそんなもんだろ』とか、『今の時期にE判定ならそりゃ怒られるわ』とか、ないわけ?」
「こ、コミュ障だから……会話を広げられなくて、ごめん」
「そこの魚には流暢に話しかけてたのに」
「見てたのッ?」
瞬時に顔が熱くなった。「陰キャ・コミュ障・オタク」であるというだけで既に悲劇の三重奏を奏でているのに、そこに「変人」というメタファーまで加わったら絶望の四重奏になる。
変な汗をかいて絶句しているオレを、花井は意に介するふうでもない。
「俺への興味、魚以下? この花井瑞樹が川魚に負ける日が来るとはなあ」
花井は奇妙な自虐をしながら水槽に近寄り、中を覗き込んだ。
「佐田が持ってきた魚だよな? 誰も世話しないわりに長生きしてんなと不思議だったけど、悠木がしてくれてたんだな」
「……でも今朝、一匹死んじゃって」
「あ、本当だ。食われてる。共食いだよな? グロぉ。同じ仲間を食うなよな。自然界きついわ。死ぬほど腹減ってたのかな。な?」
「ど、どうだろうね」
よく喋る男だなあ、とオレは舌を巻く。自分とはまるで対極の人種であることを再確認する。
「なんか可哀想だな。埋葬してやる?」
「え」
彼が自分と同じ発想にたどり着いたことに驚いた。オレとは似てもにつかぬ容貌をした器のなかに、自分の体内に流れるものと同じ水脈を見つけたような気持ちになる。
花井は水槽が載っているささくれだった木製のロッカーを漁り出し、「割り箸があったような」などとぶつぶつ言っている。
「あ、ほら、あった」
既に割られている薄汚れた割り箸をどこからか引っ張り出す。もともと肘のあたりまで折るように捲られていたワイシャツを、さらに肩に近いところまで引き上げ、なんの躊躇もなく水槽の中に割り箸を突っ込んだ。アブちゃんの亡骸をそっと摘み、そばにあった植木鉢の受け皿に横たえさせる。
「中庭がいいかな」
花井は受け皿を持ってさっさと教室を出ていく。オレは慌てて後を追った。



