政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!

 それは、結婚してから五日目の、穏やかな昼下がりだった。エナは温室でリリーとお茶を楽しみながら、今日はどこを歩いて迷ってやろうかと考えていた。彼女は昨日、アシュレイが自分を「小鳥」扱いしたことに、一矢報いるための計画を練っていたのだ。

「リリー、あの屋敷の構造は、迷路というより罠よ。でも、次は台所までの完璧な地図を作って、アシュレイを驚かせてやるわ」
「奥様、地図を作るより、旦那様の手を借りるほうが早いのでは?」
「うるさいわね。彼に頼んだら、また『可愛い子』に教えるように、ゆったりと歩調を合わせるだけで、わたしが自力で成し遂げたことにならないでしょう」

 そんな毒舌交じりのやり取りが交わされているときだった。

 温室の重たい扉が勢いよく開かれ、西部の強い風がざっと吹き込んだ。入ってきたのは、顔に煤をつけた若い兵だった。彼の息は荒く、額には汗が滲んでいる。

「辺境伯様、失礼します!  偵察隊より緊急報告!  北方森の奥に野盗の拠点を発見いたしました!」

 ぴたりと空気が凍る。野盗。それは、都の貴族の社交辞令からは最も遠い、辺境の現実だった。エナは、手に持っていたティーカップを危うく落としそうになった。

 アシュレイは温室に隣接した執務室にいたが、その報告を聞くと、静かに立ち上がり、書類の束を脇に置いた。いつもの柔和な笑顔は消え、表情筋一つ動かない、氷のような顔つきになっていた。

「……確認済みか」
「はい。高台から望遠鏡での確認にて、小屋の数、人数、武装まで、間違いありません。森を下りれば、すぐに領民の主要な交易路に影響が出ます」
「わかった。準備に入れ。第一、第二中隊を招集。装備は重装ではなく、迅速制圧を優先する」

 返事を終えるより早く、彼は屋敷の奥へと歩き出した。その動きは迷いがなく、すべてが流れるように早い。

「ア、アシュレイ!?  ど、どういうことなの!?  どこへ行くのよ!」

 エナも慌てて追いかける。リリーは先に、恐怖で固まって動けなくなっていた。彼は、すでに黒い戦装束に着替えるよう侍従に命じており、屋敷全体に緊張が走り、使用人たちが音もなく動き始めていた。

「領内北方に、野盗の拠点だ。通行人や村の安全を脅かす存在だ。辺境伯の役割は、領地を荒々しい外敵から守ること。早急に制圧せねばならない」
「……そ、そんな。危ないこと、するの?  あなたが?」
「必要があればね。私は『辺境伯』だ、エナ。君が思っているような、優雅にお茶を飲むだけの貴族ではない。守るべきものがある」

 落ち着いた声。だがその背は、いつもよりずっと鋭く、強かった。まるで、戦場の剣。エナが知っていた「アシュレイ」は、半分しか存在していなかったのだ。

(こんな姿、知らなかった……この人、こんな顔するんだ。わたしを子猫扱いする、余裕たっぷりの笑顔が、こんなにも冷徹な指揮官の顔に変わるなんて)

「わたし……わたしはどうすればいいの?」

 弱々しい声が出てしまう。エナの指先が、きゅっとスカートを握る。その不安な姿は、まさにアシュレイが表現した「小鳥」そのものだった。



 エナの動揺に気付いたアシュレイは、戦装束に着替える部屋の前で、ふと足を止めた。エナに近づくと、優しく、けれど迷いなく言った。

「君は、心配しなくてもいい」

 その口調は、戦場に出る男の覚悟というよりも、家に残す小さな娘を安心させるようなトーンだった。

「エナの護衛には、信頼できる者たちをつける。君の安全は、この屋敷の中で最も優先されるべき事項だ。君は、私が命をかけて守るべき、この領地の宝物なのだから」
「そんな言い方……!」

 エナが反論しようとした直後、屋敷前に二人の女性と一人の男性が現れた。彼らはすでに、アシュレイからの命令を受けて待機していたのだろう。一人は身長180cm近い、鋭い双眸の女騎士――セリア・ブランドル。黒髪を後ろで一つに結い、銀の胸当てに深紅の外套を纏っている。

「辺境伯夫人、セリア・ブランドル、参上いたしました。ご安心ください。野盗など、奥様の爪先にも触れさせません。私の剣が、盾となります」

(なんかすごく強そう……!  というか貫禄がすごい。わたしより背が高いわ!)

 もう一人は明るい茶髪の快活な少女――ティナ・コーウェル。細身の剣と軽装で、明るい笑顔が印象的だった。

「こんにちは奥様!  初めまして!  ティナです!  『何かあったら絶対刺す』をモットーにしてますので安心してください!  辺境伯様から、奥様のふわふわの髪一本でも傷つけたら承知しない、と厳命を受けています!」
「……そのモットー、どうなのよ。刺さないで済ませてほしいんだけど」

 そして背後から静かに歩み寄ってきたのは、鋭い眼鏡と品のある立ち姿の男――グレン・アルヴァイン執事長。彼は、アシュレイが最も信頼する片腕だ。

「ご心配には及びません、奥様。旦那様の不在中は、私が全ての政務を代行いたします。報告書、裁可が必要な書類、すべて滞りなく処理されます。奥様はどうか、安心して日々をお過ごしください。旦那様のおっしゃる通り、静かに帰りを待つのが、奥方様の最も大切な役割です」
「……なんか、この人たちに囲まれてたら、無敵な気がしてきたわ」

 エナは安堵した。しかし、同時にアシュレイの周到さに腹も立った。自分の役割をすべて奪われ、「待つこと」だけを求められている。

 だが、その心の奥では――(アシュレイ……大丈夫?)と、小さな不安が膨らんでいた。彼の冷徹な指揮官としての顔を見た後では、いつもの毒舌で取り繕うこともできなかった。



 装備を整えたアシュレイが、屋敷前の黒い軍馬にまたがる瞬間が来た。黒の軍装にマントを翻し、剣を腰に携えたその姿は、いつもの穏やかな“夫”とは異なり、まさしく“指揮官”であり、戦場の騎士だった。

「アシュレイ……」

 呼び止めるように、エナが声を発する。その声は、震えていた。彼は馬上からエナを見下ろし、ふと、戦場に向かう前とは思えないほど穏やかに微笑んだ。

「……怖がらないでいい。君は、私の護衛たちに可愛がられていればいい。すぐ戻るよ。この辺境の治安を乱すような小悪党など、すぐに片付けてくる」

 そして、馬を降りると――。ふいに彼は、エナの前髪に触れた。白銀の髪をそっと撫で、額に触れる。それは、騎士が主君の加護を誓うような、あるいは父が子を慈しむような、優しく、深い敬愛に満ちた仕草だった。エナは、その予想外の行動に、顔が熱くなり、何も言えなかった。

「待ってて。お利口にね、エナ」

 ひと言、それだけを言って、彼は馬に戻った。部下たちが続々と後に続き、列を成して屋敷を離れていく。彼らの背中には、西部の強い日差しが、まばゆい光となって降り注いでいた。その背中が、ゆっくりと小さくなっていくのを、エナはただ黙って見つめていた。

「……リリー」
「はい、奥様」
「戦場って……怖いものなのね」
「そうですね。でも旦那様は、約束は必ず守りますよ。きっと、あっさりした顔で戻ってきて、また奥様を小鳥のように可愛がってくださいます」
「……そうだといいわ」

 強く握りしめた手を、そっと解く。その掌には、アシュレイが触れた額の温もりが、まだ残っているような気がした。
 不安の中に、小さな期待と――そしてほんの少しの、「信頼」が芽生えていた。

(ちゃんと、帰ってきて。……わたしが、あなたのお利口な奥方でいられるように)

 その心の声は、冷たい風の中、彼の背中へ届いただろうか。エナの新しい戦いは、彼の帰りを待つ、この屋敷の中で始まった。