西部の厳しい冬を越え、春の気配が少しずつ濃くなってきた頃。
ウエストヴェイル辺境伯邸の玄関ホールに、パタパタと少し慌ただしい足音が響いていた。
「奥様、そんなに急がれなくても……!」
「べ、別に急いでなんかいないわよリリー! たまたま足が勝手に早く動いているだけなんだから!」
白銀の髪を揺らしながら階段を駆け下りてきたエナは、侍女のリリーに言い返しつつも、玄関扉の前でぴったりと足を止めた。
領主であるアシュレイ・ウエストヴェイルが、領内巡回と隣接村との調整のため屋敷を空けてから、今日でちょうど半月。毎日のように短い手紙は届いていたものの、直接顔を合わせるのは久しぶりだった。
(別に……寂しかったわけじゃないわ。ただ、屋敷の主が不在だと締まらないから……)
そんな言い訳を胸の中で反芻していたその時、重厚な木製の大扉がゆっくりと開いた。
「ただいま」
落ち着いた、少しだけ疲労の混じった低い声。
長旅の埃を被った外套を脱ぎかけたアシュレイが、エナの姿に気づいて灰青色の瞳を細める。
「……エナ。出迎えてくれたのかい?」
「……」
いつもなら。 『帰ってくるのが遅いのよ』とか『別に待ってたわけじゃないわ』とか、何かしらツンと突っぱねる毒舌が出るはずだった。だが、半月ぶりに見る夫の姿を目にした瞬間、エナの頭の中の「強がり回路」が完全にショートした。
「……アシュレイ」
とことこと迷いのない足取りで近付き───ぎゅっと、その胸元に飛び込んだ。
「……!?」
アシュレイが驚きに目を見開く。だが次の瞬間、愛おしさに満ちた苦笑みを浮かべると、旅の埃も気にせずエナの身体を優しく抱き返した。
「ただいま、エナ」
「……おかえりなさい。……遅い」
「ふふ、ごめんね。会いたかったよ」
「……私も」
消え入りそうな声で溢された本音に、後ろ控えていた侍女のリリーと専属騎士のセリアとティナたちは「あのツンデレ毒舌な奥様が……!?」と驚愕の表情で見交わすのだった。
その日の午後。湯浴みと軽い食事を済ませたアシュレイは、エナの私室を訪れていた。
ふかふかのソファに二人並んで座る。普段なら「近すぎるわよ」と拳一つ分は距離を空けるエナだったが、今日はぴたりと肩が触れ合う距離を保ったままだ。
「……」
「ふふ」
アシュレイが楽しそうに目を細め、エナの白銀の柔らかい髪に手を入れる。指先で撫で降ろすと、エナはうっとりと目を細めた。
「嫌なら言ってね」
「……嫌じゃないわよ。……もっと撫でて」
「可愛いね。今日のエナは本当に素直だ」
「な、なに言ってるのよ! 別にいつも素直でしょ!?」
「そうかな? 普段なら『髪が痛むから触らないで』とか言いそうだけど」
「うっ……そ、それは……」
返す言葉を失ったエナは、照れ隠しにアシュレイの腕をぐっと引っ張り、自分の膝の上に引き寄せた。
「半月も放置されたんだから、これくらい当然よ!」
「そうだね。寂しい思いをさせて悪かったと思っているよ。……だから、おいで」
アシュレイは自分の膝をぽんと叩いた。
「なっ……! こ、子供じゃないんだから!」
「断ってもいいんだよ?」
「……」
意地悪く微笑むアシュレイ。エナは一瞬悔しそうに唇を噛んだが、結局のところ、恋しさに勝てるはずもなかった。
「……少しだけよ」
観念してそっと身体を預けると、アシュレイの強い腕がひょいとエナの腰を抱え上げ、自分の膝の上に乗せてしまった。
「……っ、重くない?」
「全然。むしろもう少し太ってもいいくらいだよ。……ちゃんとご飯は食べていたかい?」
「食べてたわよ! リリーが見張ってたもの!」
「なら安心した」
アシュレイはエナの腰をしっかり抱きしめ、首筋に顔を埋めた。ふわりと甘いエナの体香が鼻腔をくすぐる。
「……はぁ。疲れていたけれど、一気に吹き飛んだよ」
「な、変な声を吐かないでよ……照れるじゃない……」
エナは真っ赤になりながら、アシュレイの胸に額を押し付けた。彼の鼓動が、トントンと心地よいリズムで耳に伝わってくる。
「……ねえ、アシュレイ」
「なんだい?」
「半月って……すごく長いのね」
「そうだね。私も、君が恋しくて仕合わなかった」
さらりと恥ずかしいことを言う夫に、エナは胸をぽかと叩いた。
「ずるい……そういうこと簡単に言う……」
「本音だからね」
しばらく二人で無言のまま温もりを分かち合っていると、アシュレイがローテーブルの上の皿へ手を伸ばした。
「エナ、お菓子を食べるかい?」
「いらない。今は動きたくない……」
「じゃあ、はい。あーん」
一口サイズの焼き菓子が、エナの唇の前に差し出される。
「……何やってるの?」
「あーんだよ。君が動きたくないと言うから」
「自分で食べられるわよ! 私をいくつだと思ってるの!」
「遠慮しないで。ほら」
にっこりと微笑むアシュレイの圧に押され、エナは引きつった顔で菓子を見つめた。
(む、無理……! あーんなんて恥ずかしすぎる……! でも、ここで断ったら冷たいって思われるかしら……!?)
葛藤の末、エナは諦めて小さな口を開けた。
「……ん」
「はい」
ぱくっ、と食いつく。モグモグと頬を膨らませる姿は、まるで木の実を食べる小鳥そのものだ。
「……おいしい」
「ふふ、よかった。じゃあ次も」
「……ちょっと、私をペットか何かと思ってない!?」
「まさか。可愛い愛妻に甘えてもらっているだけだよ」
言いながら、二個目、三個目と口に運ばれる。最初は文句を言っていたエナだったが、途中から「もうどうにでもなれ」と開き直り、おとなしくアシュレイの手からお菓子をはむはむと食べ進めた。
「……もういらない」
「お腹いっぱいになったかい?」
「……うん。あと、ちょっと眠い……」
「横になるといい。膝の上でよければ、このままでも」
「……このままがいい」
エナはすっかり毒気を抜かれた顔で、アシュレイの胸元に頬をすり寄せた。
「半月もいなかったんだから……今日は好きなだけ甘えるんだからね」
「うん、好きなだけ甘えて」
「明日になったら、またいつもの私に戻るから……今日だけよ」
「今日だけと言わず、明日も明後日も甘えてくれていいんだよ?」
「……うるさい。もう喋らないで、撫でて」
「はいはい」
アシュレイは苦笑しながら、再びエナの白銀の髪を優しく撫で始めた。
一定のリズムで伝わる愛おしい体温。安心感に包まれたエナの瞼が、ゆっくりと重くなっていく。
「……だいすき、アシュレイ……」
聞こえるか聞こえないかほどの小さな寝言を残し、エナはすーすーと規則正しい寝息を立て始めた。
アシュレイの手が止まる。 灰青色の瞳を和ませ、眠ってしまった妻の額にそっと唇を寄せた。
「私もだよ、エナ」
膝の上の小さな温もりを、落とさないようにもう一度優しく抱きしめる。 夕暮れの柔らかな光が差し込む部屋で、二人の甘い甘い時間は、静かに、そしてゆっくりと流れていった。


