西部辺境伯邸の執務室。初夏の爽やかな風が、開け放たれた窓からレースのカーテンを揺らしていた。
書類の山を片付けたアシュレイ・ウエストヴェイルは、ゆっくりとペンを置く。灰青色の瞳が向けられた先には、ソファで難しそうな顔をして本を開いている小さな妻の姿があった。
「エナ」
「な、何よ」
名前を呼ばれただけで、エナは、ビクッと肩を跳ねさせて顔を上げた。白銀の髪がふわリと揺れる。
「今日は政務がひと段落したんだ。久しぶりに二人で出掛けないかい?」
「出掛けるって……どこへよ」
「覚えているだろう? あの湖だよ」
その一言で、エナの脳裏に忘れたい恥ずかしい記憶が怒涛のように蘇った。
政略結婚でこの屋敷に来てようやく夫婦らしくなった頃、夫婦らしい休日を過ごそうと連れていかれた湖。珍しい魚を見ようと身を乗り出して転びかけた自分と、それを庇って代わりに湖へ豪快に落ちたアシュレイ。さらには、濡れたシャツを脱いだ彼の裸体を見てしまってパニックになった自分───。
(あ、思い出しただけで顔から火が出そう……!)
「べ、別に行ってもいいけど! あなたが行きたいって顔をしてるから付き合ってあげるだけなんだからね!」
「ふふ、ありがとう。助かるよ」
「なによその余裕そうな顔! 勘違いしないでよね!」
フンッとそっぽを向くエナの頭を、アシュレイは愛おしそうに撫でた。
湖は今日も静かだった。陽光を受けて水面がきらきらと輝いている。木製の小舟に乗り込むと、アシュレイが滑らかな手つきで櫂を動かした。
「懐かしいわね」
「そうだね。あの時も、君はここで目を輝かせていた」
「あなた、ここで派手に落ちたのよ。辺境伯ともあろう人が」
「君を庇った結果だけどね」
「う……それは、まあ……ごめんなさいだけど……」
エナは小さく唇を尖らせた。あの頃と比べれば、二人の距離は格段に縮まった。口付けも交わしたし、夜には彼の体温を直に知る仲にもなった。
(なのに……なんで二人きりで外にいるだけで、こんなに胸がバクバク言ってるのよ……っ)
大人の淑女らしく余裕を持たなければと思えば思うほど、心が千々に乱れる。───その時だった。
「あっ! 大きな魚!」
湖面のすぐ近くで、綺麗な銀色の魚が跳ねた。エナは反射的に船縁へ身を乗り出す。
「エナ、危ない――!」
「きゃっ!?」
ぐらりと舟が大きく傾いた。アシュレイが咄嗟にエナの腰を抱き寄せ、安全な船底へと引き戻す。だが、その反動と急激な重心の移動により、アシュレイ自身が体勢を崩した。
ドボン!!!
豪快な水しぶきが上がり、舟がゆらゆらと大きく揺れた。
「アシュレイー!?」
「……本当に、君は学ばない子だね」
「ぐ……うぅ、返す言葉もございません……」
湖畔の草地。全身ずぶ濡れになったアシュレイが、滴る髪をかき上げながら苦笑していた。エナは膝を抱えて小さくなり、消え入りそうな声で謝る。
「今回で二度目だよ、エナ」
「ごめんなさい……庇ってくれたのは感謝してるわ。でも、そんなに呆れなくても……」
「呆れてなんかいないよ。君が無事ならそれでいい。ただ───」
アシュレイは濡れたジャケットを脱ぎ捨てると、迷いなくシャツのボタンに手をかけた。
「風邪を引く前に乾かさないとね」
「ひゃいっ!?」
目の前で、濡れて肌に張り付いていたシャツがさらりと脱ぎ捨てられる。現れたのは、鍛え上げられた無駄のない胸筋と腹筋。水滴が肌を伝って滑り落ちていく。
(み、見ちゃダメ! でも目の前にある! いや、夫婦なんだから今さら見るななんておかしいでしょ!? でも昼間の太陽の下で見るのは刺激が強すぎるーーーっ!!)
エナの顔は一瞬で茹でダコのように真っ赤になった。 視線が泳ぎまくり、指の間からチラチラと彼の胸元を見ては「ひえっ」と悲鳴を上げて後ろを向く。
そんなエナの露骨すぎる反応を見て、アシュレイの灰青色の瞳に意地悪な光が宿った。
「エナ」
「な、何よ! ちゃんと向こう向いてるわよ!」
「今さら照れるの?」
濡れた足音が近づいてくる。 エナが恐る恐る振り返ると、上半身裸のアシュレイがすぐ目の前まで迫っていた。濡れた黒髪から滴が落ち、その表情はいつもの紳士的な微笑みではなく、獲物を追いつめる肉食獣のそれだった。
「て、照れてなんか……っ! 私だってウエストヴェイル辺境伯夫人よ!? 旦那様の裸体くらいで見乱れたりしないわ!」
「へえ、本当に?」
アシュレイはすっと背をかがめ、エナの耳元に顔を寄せた。低い声が鼓膜を揺らす。
「暗闇の中だけじゃなくて……今も、隅々まで見ていいんだよ?」
「~~~~っっ!?」
エナの頭の中で何かが弾けた。
「ば! バカ! 何言ってるのこの変態辺境伯!!」
「変態とは酷いな。夫婦の健全な会話だろう?」
「どこが健全よ! 昼間っから恥ずかしげもなくそんなこと言って……! あなた紳士じゃなかったの!?」
「君の前でずっと紳士でいるのは、想像以上に理性が要るんだけどね」
アシュレイは楽しそうに目を細めると、ゆっくりと自分のズボンのベルトに手を掛けた。
カチャリ、と金属音が響く。
「あ……え……?」
「シャツだけじゃなくて、ズボンもかなり水を吸ってしまってね。重くて冷たいんだ」
「や、やめて!? 何しようとしてるの!?」
「脱ぐんだよ。乾かすために」
「ここで!? 外よ!? 何考えてるのバカじゃないの!?」
アシュレイの手が躊躇なくベルトを外し、ズボンのボタンへと伸びる。
「だ、ダメ! 絶対ダメ!! 脱がないで!!」
「だが濡れたままだと体に悪い」
「ここ外!! だから脱がないでぇええ!!」
エナはパニックになりながらアシュレイの手にしがみつき、必死でズボンを押し上げた。だが、必死すぎるあまり、彼女の手はアシュレイの腰元や太ももに何度も触れてしまう。
「……エナ」
「なによっ! 脱がせないわよ! 意地でも───」
「そんなに必死に触られると、乾く前に別の問題が起きるんだが」
「あ……」
アシュレイの視線が、自分の腰に触れているエナの手元に向けられている。その瞳の奥にある怪しい熱さに気づいた瞬間、エナは「ひいいっ!」と悲鳴を上げて跳びのいた。
「わーーーっ!! もう嫌っ! ばか! スケベ! 最低!!」
両耳をふさいで顔を真っ赤にし、地足を踏み鳴らすエナ。 そのあまりにも可愛らしくて必死な反応に、ついにアシュレイの忍耐が限界を迎えた。
「くっ……ふふっ……ははははは!」
「……え?」
アシュレイが肩を大きく揺らし、声を上げて笑い出した。心底楽しそうに、腹を抱えて笑っている。
「な、何よ……何がそんなに面白いのよ!」
「ごめん、ごめん……あはは、あまりにも君が可愛くてね」
「~~~っ!!」
またしても真っ赤になったエナは、怒りに任せてアシュレイの(素肌の)胸をぽかぽかと拳で叩いた。
「笑わないで! 意地悪! やっぱりあなた、紳士の皮をかぶった悪魔よ!」
「反省するよ。……でも、君が『完璧な奥様』になろうと背伸びしているより、そうやって感情を爆発させてくれる方が、ずっと愛おしい」
アシュレイは叩いてくるエナの小さな手を優しく包み込み、引き寄せてそのまま抱きしめた。冷たい肌と、温かい体温が交差する。
「無理に大人ぶらなくていいんだ、エナ。君はそのままの君で、私の自慢の妻だよ」
「……ずるい」
「うん?」
「そういう格好いいこと言えば許されると思ったら大間違いなんだから……」
エナはアシュレイの濡れた胸元に額を押し付け、小さくつぶやいた。ポンポンと跳ねていた胸の鼓動が、彼の温もりの中でゆっくりと落ち着いていく。
結局、眩しすぎる太陽光で服を乾かした二人は、夕暮れ時の湖畔を並んで歩いていた。水面が黄金色に染まり、風が気持ちよく吹き抜けていく。
「……あなたのせいで」
「うん?」
「またこの湖が、恥ずかしい思い出で上書きされたじゃない」
「そうかな?」
アシュレイは足を止め、夕焼け空を見上げた後、エナを見つめて優しく微笑んだ。
「これで、この場所には『二人で笑い合った思い出』がまた一つ増えた。私はとても嬉しいよ」
「……」
素直で真っ直ぐな言葉。 やっぱりこの男には勝てないのだと、エナは降参するように溜め息をついた。照れくささが胸を満たしていくけれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
「……帰ったら、温かいお茶淹れてあげる」
「本当かい? エナの淹れてくれた紅茶は世界一美味しいからね、楽しみだ」
「お世辞言っても何も出ないわよ!」
エナがツンと顔を背けると、アシュレイは自然な動作で彼女の指に自分の指を絡め、ぎゅっと握りしめた。
「さあ、帰ろうか。我が家へ」
「……ええ」
握り返す力に少しだけ心を込める。 夕闇が迫る帰り道を、二人は寄り添いながら歩いていく。今日という日もまた、二人にとってかけがえのない大切な記憶の一ページになりながら。


