政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!


 ――それは、ふとした瞬間に、恐ろしいほど鮮明に思い出される。湖畔で水に濡れたアシュレイの姿。書斎で背を伸ばしたアシュレイのシャツの隙間から見えた、わずかな筋肉の張り。風呂上がりの濡れた髪と、首筋を伝う雫。そして、あの時、エナを守るために水に落ちた彼の上半身――まるで、神が彫り上げた芸術品だった。

(あの……胸筋……なにあれ……ずるい。なんで服の下にあんなものが隠れてるのよ!)

 エナの脳裏には、彼の鍛え上げられた体が焼き付いて離れない。引き締まった腕、広く頼もしい肩、腹筋のライン、そして、水に濡れて艶めいていた肌の輝き。

(あれを見て『何とも思わない』なんて、人として無理でしょ!?  わたしだって、健全な女なのよ!)

 それ以来、エナはアシュレイの顔をまともに見られなくなっていた。彼の視線が、まるで『すべてを見透かす目』のように感じられてしまうのだ。彼の口元が動くだけで、エナの心臓は乱高下した。



 朝食の席で。エナは紅茶のカップを両手で持ち、顔を半分隠しながら、必死に正面を見据える。

「最近、目を合わせてくれないね?  食事の味がしないほど、君は何を考えているんだい?」

 アシュレイが静かに笑いながら、紅茶を口にする。その声には、すべてを見透かしたような、余裕たっぷりの甘さが滲んでいた。

(わわ、バレてる……!  もう、この人って本当に勘が鋭すぎる!  私の心の壁が、脆すぎて困るわ!)

 エナは内心パニックになりながらも、ツンデレ令嬢モードを発動させるしかない。

「な、なんでもないわよ!?  べ、別に意識なんかしてないし!  あの時のことなんて、一秒たりとも思い出してないんだから!」
「ふふ……エナ」
「なによ……」

 エナは顔を上げられない。アシュレイは椅子に座ったまま、手を伸ばしてエナの顎をそっと持ち上げた。優しく、しかし有無を言わせない力で。

「夫婦なんだから、そろそろ『僕の体』にも慣れてもらわないと。いずれ、もっと近くで見る日が来るだろう?」

 にこやかに、さらりと核弾頭級の爆弾を投下してくる辺境伯。その瞳は、完全に『誘惑』の色を帯びていた。

「慣れてますっ!!  もう慣れてますから!  あなたの上半身なんて、風景と同じよ!」

 真っ赤になりながら叫んだエナは、自分で自分にとどめを刺した。彼の体が『風景』だなんて、嘘に決まっている。

(なに言ってんのわたしーーー!?  『風景』なわけない!  あれは『国宝級の彫刻』よ!)

 エナはそのまま席を立ち、逃げるように食堂を後にした。



 その夜。エナは寝室で、羞恥心と闘いながら、悶々としていた。部屋の中を何度も往復し、枕を殴り、クッションに顔を埋め――まるで熱に魘されているようだ。

(もう、いい加減……!  『夫婦』という名前に甘えて、一番大事なことに目を背けてるんじゃないわよ、わたし!)

 彼の完璧な肉体に動揺しているだけじゃない。彼女は、レオナが現れたことで改めて、『アシュレイと真に一つになること』の重要性を痛感していた。

(わたしが『子供』だと、いつまでも彼は『庇護者』で、『対等なパートナー』にはなれない。愛されたい、守られたいだけじゃなくて、彼のすべてを受け止められる妻になりたい!)

 そう決意して、夜も更けた頃。震える手で、エナはアシュレイの寝所の扉を、そっとノックした。彼女の心臓は、今にも破裂しそうだ。



「エナ?  どうしたの?」

 寝間着姿のアシュレイが現れる。淡い光に照らされた彼の表情は、いつも以上に穏やかで、優しくて――そして、その存在自体が、エナの理性を揺るがす彫刻だった。

(ああもう、やっぱりずるい顔……!  今日もパーフェクトイケメンなのね!)

「ちょっと……いい?  その、話があるの」

 エナは、視線を床に落としたまま呟いた。
 
「もちろん。どうぞ」

 部屋に招かれ、ベッドの端にちょこんと座ったエナ。アシュレイも横に腰を下ろすが、エナの緊張を察し、触れることはしない。

「……その、ね」
「うん。急がなくていいよ」
「わたしたち、夫婦でしょ。政略結婚なんて、もう関係ないくらい、愛し合ってる」
「そうだね。僕の愛は、君で満たされている」
「だったら……そろそろ、『夫婦らしいこと』、してもいいと思うの。わたしから、お願いする」

 アシュレイの瞳が、すっと見開かれた。その中に、喜びと、深い安堵が浮かぶ。彼は、この瞬間をどれほど待っていたのだろう。



「エナ、君がそう言ってくれるのを……ずっと待ってた。君に『無理』をさせたくなかったから」

 低く、甘い声が、エナの耳元をくすぐる。アシュレイはそっとエナの震える手を取り、優しく引き寄せた。

「でも、無理しないで。少しでも怖いと思ったら、すぐに言ってくれていい」
「してないわ。無理してるのは、むしろあなたの方でしょ?」

 エナは意地を張るように答えた。アシュレイは少しだけ苦笑を浮かべたが、すぐにいつもの包み込む表情に戻す。

「本当に?  どこをどう見てそう思うんだい?」
「……知ってるわよ。わたしが『子供』のふりをしている間、あなたはずっと『理性』で壁を作ってた。でも、もうその壁は必要ない」

 エナは勇気を振り絞り、彼の胸に顔を埋めた。その鼓動が、彼女の決意を後押しする。

「……したいの。アシュレイと、ちゃんと夫婦になりたいの。私を、あなたのものにして」

(……怖くないわけじゃない。でも、それ以上に、あなたと魂が一つになりたい。あの完璧な体を受け止めたい)

 アシュレイは、エナの頬を優しく包み込み、そっと唇を重ねる。

「じゃあ……君の望むように、ゆっくりと。そして、二度と君が不安にならないように、深く、愛を誓おう」



 アシュレイの指先が、エナの髪を撫で、頬をなぞる。ひとつひとつの動作が丁寧で、細やかで、まるで壊れ物を扱うように慎重だった。優しすぎる彼の態度に、エナの緊張は少しずつ解けていく。

「アシュレイ……」
「君は、僕が思っていたよりも、ずっと愛しい。ずっと、僕の全てだ」

 そして――彼はエナの首筋に顔を埋め、熱い息とともに『真実の愛』を囁く。

「愛してるよ、エナ。心から」
「……わたしも。ずっと、あなただけ」

 灯りが落とされる中で、ふたりはゆっくりと愛を交わした。そこにはもう、『ツンデレ』も『甘やかし』も『計算』もなかった。あるのは、ただ純粋な愛情と、夫婦としての結合。言葉よりも、熱よりも、心が重なった夜。政略結婚から始まった物語が、ついに『真実の愛』という名の結実を迎えた。



 目を覚ましたエナは、自分がアシュレイの腕の中に、しっかりと抱きしめられていることに気づく。彼の胸に頬を寄せ、昨夜の余韻に包まれていた。

「……あれ、わたし……夢じゃないのよね?」
「おはよう、エナ。夢じゃないよ。昨夜、君は『辺境伯夫人』としての、一番大切な一歩を踏み出したんだ」

 アシュレイの低い声が耳元で響き、エナは顔を真っ赤に染める。彼の体は、まさに彼女の『理想の彫刻』のままだ。

「うぅ……恥ずかしい……。なんでそんなに平然としてるのよ!」
「夫婦だからね。そして、僕は最高の幸福感に満たされている。昨日ほど君を愛しく思った夜はないよ」
「昨夜の君は、可愛くて、情熱的で、僕の理性では抑えきれないほど魅力的だった」
「言うなぁぁぁぁ!!  それ以上言ったら、ベッドから出て行ってやる!」

 エナは叫びながらも、彼の胸にさらに深く顔を埋めた。この温かさこそが、彼女が求めていた『真の居場所』だった。



 朝の廊下。セリアとティナとリリーが感慨深そうに顔を見合わせてお喋りを始める。

「旦那様、やけに肌がつやつやしておられましたね。いつもより『満足』のオーラがすごかったです」
「エナ様も、今日は一段と機嫌が良いようです。少し顔色が赤いのは、愛の証でしょうか」
「……ついに、ですね。私たちも、見守り続けた甲斐がありました」
「ついに、です。あの『子供っぽいツンデレ』が、『大人の愛情』に勝利した瞬間です」

 騎士ふたりと侍女がそっと会話を交わし、静かに笑いあった。辺境伯夫婦の愛は、辺境一の深さをもって、さらに強固になったのだった。