政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!


「今日は、お待たせした分も込めて、君だけの時間を」

 その言葉とともに、アシュレイはエナを馬車へとエスコートした。彼の『仕事人モード』の後の『甘い夫モード』は、殺傷力が高すぎた。向かう先は、ウエストヴェイル領内でも特に景観が美しいと名高い『星光の湖 ラグナス』――。

「わぁ……!  すごい……!  きらきらしてる!」

 湖畔に広がる水面は、陽光を跳ね返して宝石のように煌めいていた。その静けさと美しさは、都会の喧騒とはかけ離れた、神聖な空気さえ纏っている。「この湖、もともと王族の離宮地だったらしいんだ。今は我が領の管轄にあって、管理も厳重にされてる」とアシュレイはエナの隣に立ち、穏やかな声で説明した。

「へぇ……本当に静かで綺麗。なんだか、物語の中に来たみたい。アシュレイ、ありがとう」

 桟橋には、優雅な装飾が施された小舟がひとつ浮かんでいる。アシュレイが手を差し出し、エナがそっと舟へ乗り込む。

「揺れるから、気をつけて。捕まってていいよ」
「うん……」

 ふたりの舟は、アシュレイの漕ぐオールによって、ゆっくりと湖面へ漕ぎ出していった。静寂の中を、水音だけが優しく響く。



「……あっ、いま見た!?  なんか、虹色のヒレが……!  幻かしら!?」

 エナが突然、興奮して舟の端に身を乗り出した。湖の奥深くに生息する珍しい魚を捉えようと、前のめりになる。

「危ないよ、エナ。落ち着いて」
「ちょっとだけ、ちょっとだけ……わ、わっ――!」

 ぐらっ、と舟が大きく揺れる。エナはバランスを失い、冷たい湖水に落ちそうになる。エナがよろけたその瞬間、アシュレイが反射的に彼女を抱き寄せ――エナの体を舟側に押し、代わりに自分が舟の外へ倒れ込んだ。

「アシュレイ――っ!!」

 水面に豪快な音を立てて落ちていく旦那様。水しぶきが、ぽつりとエナの髪や頬にも落ちる。

「だ、大丈夫!?  アシュレイ!!」

 エナはパニックになり、顔面蒼白だ。

「……ぶはっ。うん、生きてるよ。君は、無事だよね?」

 湖の中から顔を出したアシュレイは、髪から水を滴らせながらも、どこか涼しげに微笑んでいた。

(いやいやいや、笑ってる場合じゃないわよ……!  完璧な服が台無しだし、風邪ひくわ!)



 湖畔に戻ると、エナは震えるアシュレイを心配し、すぐに着替えを探さなければと焦った。

「誰か、侍従を呼ばないと!  着替えはどこに!」
「いや、大丈夫。まずは太陽の光で乾かす。風邪を引く前に、体温を上げないと」

 アシュレイはためらいなく上着を脱いだ。冷たい水に濡れたシャツも一緒に、その細いボタンを外し始める。

「ちょ……っ!!  アシュレイ!?」

 エナは反射的に目を覆う。しかし、指の隙間からアシュレイを覗き見る。

「服、乾かさないと。このまま着ていたら逆に危ないからね。ここで着替えるわけじゃないよ」

(ま、待って、待って、なんでそんなに自然なの!?  ここ、人目がないとはいえ湖畔よ!?)

 エナの目の前には、絵画のような――いや、彫刻のような、しなやかで引き締まった『男の上半身』。アシュレイは剣術や執務で体を鍛えているため、贅肉は一切なく、適度な筋肉がついていた。濡れた肌が陽に照らされ、艶めいてさえ見える。

(ひぃぃ……目のやり場に困るんだけど……!!  なによ、あの胸筋……なによ、あの腹筋……いつの間に鍛えてたのよ、この男!)

 ちらっ、ちらっ、と視線が泳ぐエナ。顔は真っ赤だ。ツンデレの理性が、男の色気に負けかけている。

「……エナ」
「な、なに……?」
「そんなにチラチラ見られると、逆に恥ずかしいんだけど。僕の体よりも、早く君の服に水滴がないか確認しなさい」
「誰のせいよ!!  自業自業でしょ!!  私を庇うからよ!」



 濡れたシャツを絞り終えたアシュレイは、立ち上がると、そっと後ろからエナを抱きしめた。まだ冷たい彼の肌が、エナの背中に触れる。

「……本当に、君は油断ならないね。魚を見るたびに、僕の心はざわざわしてるよ」
「魚で嫉妬しないで、アシュレイ」
「君の視線の先にあるものが、僕ではないことに嫉妬するんだ」

 ふふっと笑って、エナは彼の腕に体を預けた。冷たい体温が、徐々に熱を帯びていく。

「……ありがとうね。代わりに落ちてくれて。本当に、怖かった」
「当然でしょ。君に怪我をさせるわけにいかないから。僕が盾になる」
「でも、ちょっとだけ……心臓が跳ねた。落ちたのを見て、私、すごく……『この人のいない世界』が、想像できなくなった」
「僕もだよ。君の顔があんなに青ざめたの、初めて見たから。二度とあんな顔はさせない」

 ふたりはしばらく、そのまま言葉なく寄り添っていた。ただ、波の音と風だけが穏やかに耳をくすぐる。命がけのハプニングは、二人の絆をさらに強くした。



「そろそろ帰ろうか。体が冷え切る前に」
「……うん」

 舟に戻る前、アシュレイはエナの手を取った。そして、そのまま彼女の頬に、優しい口付けを落とす。彼の肌はまだひんやりとしているが、唇は温かかった。

「今日も、好きだよ。誰よりも」
「わたしも……好きよ」
「聞こえないな。もっと大きな声で」
「……だ、だーいすきっ!!」

 赤面しながらエナが叫ぶと、アシュレイは満足そうに笑って、もう一度キスをした。

(舟デート、最高すぎるんだけど……!  助けられた上に、かっこいい上半身まで見せつけられて……!)

 馬車の中でも、エナはアシュレイの濡れた胸筋が頭から離れず、窓の外を見ながら度々悶えた。

(あんな体つきをしているなんて聞いてない!  あんな芸術品を普段は完璧な服で隠しているなんて、この男、確信犯よ!  今日は絶対に、あの筋肉を夢に見る……!)



 早馬にて主人たちの様子を聞いた、お留守番組。グレン、セリア、ティナ、リリー。

「はぁ……あのふたりがまた湖で『イチャついて』いると、領兵が報告してきました……。しかも、旦那様は水に落ちたとか」
「そっとしておきましょう。奥様を庇って水に落ちるなんて、騎士道の極致です」
「でも、旦那様、シャツのまま湖に落ちておられましたよ……」
「湖と恋とで、びしょ濡れですね。彼の愛情が、この領地一番の深さだという証拠だ」
「詩人か、君は。しかし、奥様はデート後も妙に顔が赤い。きっと『水辺のキス』が効いたのでしょう」
「命がけのロマンスなんて、まさに物語の主人公。私たちも、見守るしかないわ」
「命がけは政務に支障が……」
「いや、真面目に答えないでよ」