政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!


 伯爵令嬢レオナ・カーライルが屋敷を飛び出してから数日。邸内には、ようやく本来の穏やかで静かな空気が戻ってきていた。嵐が去った後のように、淀みがなく、清々しい。

(ふぅ……あの美人台風、やっと去ったわね。もう当分、『運命の花嫁』なんて言葉は聞きたくないわ)

 エナは、窓から見える中庭の木々を眺めながら、紅茶を一口啜った。リリーが新しく淹れたハーブティーを注ぎながら、小声で言った。

「奥様、今朝の旦那様、ご覧になりました?」
「見てないけど?  まだ寝室にいらっしゃるのかと思ってたわ」
「ふふ、すごかったんですから。『例の山積み』が発動して」
「……例の山積み?」
「『レオナ様対応で放置されていた政務』でございます。旦那様が奥様に気を取られていたせいで、書類の山が、まるで『山脈』のようになっているとグレン様が……」

(あ……!)

 エナはふと思い出す。レオナの滞在中、アシュレイはエナの嫉妬を鎮め、レオナの応対に忙殺されていた。どんなに優秀な男でも、時間は有限――その『しわ寄せ』が、いままさにアシュレイの執務室で炸裂しているのだ。



 エナは、気になってそっと執務室の扉に近づいた。扉の隙間からは、普段からは想像できない、緊張した空気が漏れ出している。

「……どうしてこうなるまで放っておいたんですか、アシュレイ様」

 グレンはめずらしく本気で怒っていた。彼は、アシュレイの幼い頃からの補佐官であり、その数少ない理解者だ。アシュレイの執務室の机の上には、まさに『雪崩寸前』の書類タワーが築かれていた。

「仕方ないだろう、グレン。あのときはエナのことも、レオナ嬢の動向も気になっていて。妻の機嫌が優先だった」
「そうして『いつもの余裕顔』で回してたから、部下も手を出せなかったんです!  仕事は回ると思っているのは、あなただけです。責任感強すぎです、あなた」
「……返す言葉もないな。君の言う通りだ」

(叱られてる……アシュレイが、叱られてる!?  しかも、『妻の機嫌』を理由に!)

 扉の隙間から見守っていたエナの目がまんまるになる。アシュレイは常に完璧で、誰にも非難される隙を見せないはずだった。その彼が、グレンに真正面から『弱さ』を指摘され、素直にそれを受け入れている。



 アシュレイは、反省の意を込めながらも、既に気持ちを切り替えていた。彼は机に向かい、ひたすらペンを走らせていた。

 細身の指が鮮やかに書類をめくり、決裁印を押し、流れるような筆致で署名をする。その瞳は、いつもの『甘い夫』の顔ではなく、冷徹なまでの『辺境伯』の顔をしていた。隣でグレンが唸るように言う。

「こんなに溜め込んだのに、処理速度が変わらないのが腹立たしい。まるで機械ですよ」
「仕事は慣れてるからね。昔、父の代理で一日百件の決裁をこなしたこともある。僕が休んでいた分は、僕が取り戻す」
「くっ、イケメン仕事人め……。その集中力を他で使ってくれれば、どれだけ領地が回るか」

(なにこの会話……。ていうか、こんなアシュレイ、初めて見る。いつも穏やかで優しいのに、今は完全に『仕事人モード』……かっこいい……)

 エナは、その『集中と責任感』に満ちたアシュレイの姿に、新たな魅力を感じていた。完璧ではないが、自分の失敗を自分で回収しようとするその姿勢が、人間的な強さとしてエナの心に響いたのだ。気づけばエナは、ほぅ、とため息をもらしていた。「ズルい男」の新たな一面の発見だった。



 その日の夜。エナはめずらしく、アシュレイの書斎に夜食を運んでいった。深夜にもかかわらず、執務室にはまだ光が灯っている。

「あれ?  エナ、どうしたの?  もう休んでいる時間じゃないかい?」
「ちょっと、差し入れ。まだ終わってないんでしょ?  グレンに叱られた分」
「ありがとう。助かるよ。君の『甘い心配り』が、今の僕には一番の栄養だ」

 彼はにこっと笑って、ようやくペンを置き、エナの座るソファに腰を下ろした。「あのね」とエナは、湯気の立つスープを彼に渡しながら、そっと切り出した。

「ん?」
「今日、見てた。執務室で叱られてるとこ」
「……ああ、グレンにたまにガツンとやられないと、僕はバランスを崩すからね。僕の『理性』を保ってくれる、大事な存在だ」
「……そっか」

 エナは、ぽつりと呟いた。

「かっこよかったよ」

 アシュレイは一瞬、驚いたようにまばたきをした。彼は『完璧な仕事』を褒められることはあっても、『叱られている姿』を褒められたことはないだろう。

「そう?  徹夜明けのひどい顔をしていると思うけど」
「うん。完璧じゃないところも、ちゃんと怒られるところも、それでも淡々と自分の責任を果たそうと仕事してるところも……なんか、すごく素敵だった。わたしの知恵熱とは全然違う、大人の集中力だった」

 アシュレイは、すこし照れたように頬をかいた。それは、エナの『純粋な賞賛』が嬉しかったからだろう。

「じゃあ、これからもエナに叱られるようなことをすればいいかな?  『かっこいい』って言ってもらうために」
「それはやめて。わたし、叱るの苦手だから。それより、笑っているあなたの方が、わたしは好きよ」
「そうか、残念」

 ふたりでスープをすすりながら、しばしの静寂。けれど、その沈黙が心地よくて、エナはそっと彼の肩に頭を預けた。

「こういうのも、好き」
「こういうのって?」
「一緒に静かに過ごす時間。ちゃんとあなたの『素の顔』が見える時間」

 アシュレイは彼女の髪を撫でながら、囁くように答える。

「僕もだよ。だから、ちゃんと終わらせる。明日には全部片付けて、エナとゆっくり散歩に行こう。朝食後に」
「ほんと?」

 エナの目が輝く。

「約束だ。君と二人で『愛の散歩』をするためなら、この山積みの書類など、朝飯前だよ」



 エナが朝食を食べ終える頃、グレンが食堂に顔を出した。彼の顔には、驚きと疲労、そしてわずかな敗北感が滲んでいた。

「奥様、よろしいでしょうか。旦那様はたった今、全件処理完了されました」
「うそ……!  あんなに山積みだったのに?」
「ええ。睡眠時間は恐らく三時間でしょう。たぶんあの人、『奥様とのデートの約束』を動力源にしたんだと思います。人間じゃありません」

 エナはくすっと笑った。

(ほんと、どこまでもズルい人……。でも、そうやって私との約束を仕事の原動力にしてくれるところが、大好き)


 彼女は、アシュレイが席を立つのを待つ。今日は、『完璧な仕事人』を乗り越えた『最高の夫』とのデートだ。



 控え室にて、いつものメンバーが主人たちについて話し出す。

「奥様が『惚れ直した』回だね、今回は。旦那様の『仕事人モード』のギャップ萌え」

 ティナが悶えながら感動する。

「旦那様、たまには人間らしい『失敗と努力』を見せるのが、逆にズルいんですよ。完璧の中に、少しだけ不完全さを見せる」

 セリアは淡々と分析する。

「それにしても、あの集中力と処理能力……愛の力って、恐ろしいですね」

 リリーは感心する。

「甘さで人を溶かし、仕事で領地を回す――それが辺境伯アシュレイ・ウエストヴェイルの本性だね。愛を最優先にしているからこそ、仕事も効率的にこなす」
「最強じゃないか。愛も仕事も完璧なんて」
「最強だよ。我々は、その愛の恩恵にあずかっているのだから、感謝しなければ」