政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!


 午前の執務を終えた書斎の扉をノックしながら、伯爵令嬢レオナ・カーライルは、相変わらず優雅な笑みを浮かべていた。しかし、その目には前日からの屈辱による焦燥の色が濃く滲んでいる。

「アシュレイ様。お忙しいところ恐縮ですが、少しだけ、お時間いただけませんか?」

 金の刺繍が施された新しいドレス、頬にはほんのり紅が差され、まさに『背水の陣』の気配。これが、彼女の『辺境伯夫人奪還』に向けた最後の試みだと、誰もが察した。アシュレイは椅子から立ち上がりながらも、口元だけで笑う。その微笑みは、レオナの気迫とは裏腹に、極めて無感情で冷徹だ。

「いいけど、少しだけだよ。午後はエナと領地開発の打ち合わせがあるから、長くは話せない」
「ありがとうございますわ」

 その声の奥ににじむ『焦り』と『最後の希望』を、エナは廊下の向こうから感じていた。

(ふふ……まだ諦めてなかったのね。さすが『完璧系レディ』、プライドが高いことだわ)



 中庭の奥、人目につきにくい場所でふたりきりになったレオナは、ついに核心を切り出した。

「……どうしてですの?  わたくしでは、ダメだったのですか?」

 彼女の瞳は潤んでいるが、その問いは鋭い。長年積もった想いと、プライドが、彼女を突き動かしている。

「どうしてって、レオナ嬢」

 アシュレイは腕を組み、冷ややかな視線を返す。エナの嫉妬を完全に鎮めるため、彼はあえて残酷なまでの真実を告げる必要があった。

「わたくしの家柄も、教養も、容姿も引けを取りません。わたくしが辺境伯夫人となれば、領地運営においても完璧な助けになれます。それでも……『エナ様』を選ばれた理由が、わたくしにはわからないのです」

 レオナは、エナの『子供っぽい無遠慮な甘え』と、自分自身の『完璧な淑女』を比較していた。

「……エナだからだよ」アシュレイの答えは、驚くほど単純だった。
「……っ!」

 レオナは、その単純さに、言葉を失う。

「君には『完璧さ』がある。それは評価する。だが、僕が求めたのは、僕の人生に『心地よさ』と『感情』を運んでくれる存在だ。君は、僕の『公的な役割』しか見ていない」

 アシュレイは、視線を遠くの空に向け、エナへの愛を語る。その声はレオナに向けられているが、エナに聞かせるために言っているかのようだった。

「エナの笑顔も、毒舌も、拗ねた顔も、嫉妬してクッションを投げる未熟さも、そして誰にも見せない甘えた顔も……全部が僕にとっての特別なんだ。彼女は、僕を『辺境伯』ではなく『一人の男』として見てくれる。君に、それができるかい?」

 レオナの肩が、僅かに震えた。彼女には、『完璧な辺境伯』アシュレイ・ウエストヴェイルに『完璧ではない自分』を見せる勇気はなかった。それでも彼女は意地で笑顔を保とうとする。

「そう……それがアシュレイ様の『偏愛』なのですわね。よくわかりました。ご丁寧に、ありがとうございます」

 レオナは、深く、完璧なカーテシーをして、その場を去った。彼女の『初恋の物語』は、ここで完全に終結した。



「アシュレイ〜〜」

 執務室に戻ってきたアシュレイの胸に、エナは半分飛びつくように抱きつく。周囲に使用人多数。セリアとティナも当然、遠巻きに見守っている。

「エナ、公共の場だよ?  せっかくレオナ嬢を説得したのに、僕を『くっつき虫』に仕立て上げたいのかい?」
「いいのっ!  だってわたしは辺境伯夫人なんだからっ!  『妻の愛の主張』は、領民に見せつけるべきでしょう?」
「……開き直ったね。それは、君が『完璧な令嬢』に勝ったからこその自信だね」

 アシュレイは苦笑しつつ、エナの髪を撫でると、そのまま腰に手を回して引き寄せ――ごく自然な動作で、唇を重ねた。

「……ん!? んぅ……」

 そのキスは、優しさに満ちていながら、どこか深く、甘く。『愛する妻への日常の挨拶』。それはもはや『宣戦布告』ではなく『日常』だった。

「ちょ、ちょっと……またそんな、大人っぽいやつ……!  わたしに心の準備というものが……!」

 エナは息を弾ませる。

「僕の癒し時間なんだけどな。君の熱い唇で『愛のチャージ』をしている」
「わたしを癒す気はないでしょ!?  こっちは毎回、心臓がやばいのよ……!  あんなに愛されてるって、反則よ!」



 その様子を物陰から見ていたレオナの顔が、ぱたりと引きつった。何度目かの『夫婦の濃厚接触』を、『愛の日常』として見せつけられ、ついに限界が来たらしい。

「……もう、いいですわ!!」

 エントランスに響き渡る、プライドをかなぐり捨てた声。

「こんな……こんな、蜜漬けみたいな夫婦生活を毎日見せられるなんて、精神衛生上よろしくありませんの!!」
「レオナ嬢……」

 アシュレイは立ち去る彼女に、同情も後悔も見せない。

「アシュレイ様なんて、ふんっ、くっつき虫の女の人が好みなんですのねっ!!  そんな女しか愛せないなんて、下品ですわ!」
「まぁ、否定はしないかな。僕は、僕に依存し、甘え、僕を愛してくれる妻しか見ていないから」

 アシュレイは、エナを抱きしめたまま、最後に決定的な言葉を浴びせる。

「~~~~~っ!!!」

 ついに顔を真っ赤にして、彼女は屋敷を飛び出していった。その背中には、完璧な淑女の崩壊が刻まれていた。その背を見送りながら、エナは複雑な表情を浮かべる。

(勝った、はずなのに……。わたしが『甘えた女』だから、選ばれた……?)



 夜――エナは自室でひとり、ベッドの上に座り込んでいた。勝利の歓喜よりも、『私でよかったのか』という疑問が、彼女の心を占めていた。

(あんなに想われてた人を、わたしが『くっつき虫』という手段で『追い出した』みたいに見えたかしら)(本当に、わたしでよかったの?  完璧さを持たない、わたしで)

 口には出さないけれど、心の奥に残っていたその問い。
 ドアがノックされる。「入るよ」とアシュレイの声。

「……どうしたの、元気ないね?  勝利の余韻に浸っているのかと思った」
「……なんでもない」
「レオナ嬢のこと?」
「ちが……う……いや、ちょっとは、そうかも」

 アシュレイはため息のように微笑むと、エナの前に膝をついて、優しく手を取った。その視線は、熱く、真剣だった。

「エナ。君はね、僕の人生において、『選んだ』唯一の人なんだ。出会いは王命の政略結婚だったとしても……」
「……アシュレイ?」
「今まで、誰かに言われるがまま、責務に従ってきた。でも、君だけは違う。『この人と生きたい』と、僕が初めて、僕の意志で決めたんだ」
「……ほんと?」
「本当だよ。君が毒を吐いても、拗ねても、嫉妬しても、泣いても、笑っても、全部含めて、僕は君を愛してる。僕の人生に必要なのは、完璧な道具ではなく、不完全な君だからだ」

 エナは、ついに涙を浮かべて、アシュレイにすがりつく。

「……うわぁああん、だって、だって、彼女、完璧な令嬢だったのに、わたしは、いつも失敗ばっかで、甘えてばっかで……!」
「それが、いいんだよ。僕を『ただの男』にしてくれるから」

 アシュレイはエナをそっと抱き締め、彼女の額に口付けを落とした。彼女の不安は、彼の揺るぎない愛によって、完全に消滅した。



「……ふぅ。泣いたらちょっとスッキリした。あなたは、私の『精神安定剤』ね」
「それはよかった。いつでも僕を使ってくれ」
「でも、次に来た令嬢にも『くっつき虫』って言われたら、さすがに怒るわよ?  『公的な場での愛の主張』は、もうしないんだから」
「それは僕がちゃんと追い返すから安心して。『くっつき虫』は、僕だけの秘密の楽しみにしておく」
「ほんとに?  じゃあ、くっつくわよ?」
「どうぞ」

 アシュレイの胸にぐいっと抱きつくエナ。その頬には、もう迷いはない。

「ねえ、アシュレイ」
「ん?」
「好き」
「うん、僕も好きだよ。僕の愛しい、不完全で、完璧な妻」

(――やっぱり、わたしはこの人の隣で、精一杯もふもふ甘えながら、ちゃんと『なりたい自分』になっていこう。この愛が、私を強くするのだから)



 隣室で控えている3人、リリー、セリア、ティナ。彼女たちは主人たちの行動を振り返っていた。

「レオナ嬢、ついに『くっつき虫』発言と共に、玉砕撤退しましたね」

 セリアは溜息をつく。

「奥様、勝利おめでとうございます。でも……アシュレイ様が一番恐ろしいと思いました。『完璧な君より、不完全な君が好き』なんて、究極の支配ですよ」

 ティナが戦慄する。

「まったくです。包容力と溺愛で、ツンデレを『完全制圧』してるんですから。あれはもう、『愛という名の洗脳』だわ」

 リリーはそっと、お茶を配る。

「これぞ、『もふもふ愛され生活』の完成形ですね。『ツンデレと溺愛の相乗効果』」
「タイトルにできますよ、それ。『辺境伯夫人は、くっつき虫として完璧な愛を勝ち取る』」