政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!


「……うーん……なんか、寒いような……熱いような……頭が、ぐるぐる……」

 エナは額に手を当てながら、ふらりと椅子から立ち上がった。この数日、『子供卒業大作戦』の一環である予算案の調整に没頭し、苦手な数字と格闘し続けていたせいで、食事も睡眠もおざなりだった。彼女は、アシュレイに「対等な妻」として認められたい一心で、無理を重ねていたのだ。

「奥様、どうかされましたか?  顔色が優れません」

 リリーが慌てて駆け寄る。

「ううん、だいじょ……ぶ……あれ?  なんか、床が、ぐら……ぐら」

 がくりと足元が崩れた瞬間、後ろから支えるように駆け寄ったのは、専属侍女のリリーだった。

「奥様!!  しっかりしてください!」

 リリーが抱きかかえたエナの体は、ひどく熱を持っていた。

「知恵熱……って子供みたいじゃない……」

 寝台の上で、氷枕を抱えてぐるぐる巻きにされたエナは、いつもの生意気さがどこへやら、すっかりぐったりしていた。赤い顔と、うつろな瞳が、彼女の限界を物語っている。

「奥様、知恵熱ですね……政務の疲れが、苦手な計算と相まって溜まっていたのかと。いくらなんでも、二徹夜は無謀です」

 リリーは心配そうな顔で、濡れタオルを絞り直す。

「知恵熱……って子供みたいじゃない……。大人の熱なら、もっと格好いい名前があってもいいのに」
「いえ、『思考しすぎによる大人の熱』です!  ほら、奥様がどれだけ頑張ったかの勲章ですから!」
「なんか、フォローになってないわ……」

(うぅ……身体も思うように動かないし、頭がぼんやりしてるし……。弱気になってる、自分が嫌。こんな姿、アシュレイには絶対見せたくないのに……)



 枕元の扉がそっと開き、入ってきたのは――もちろん、彼だった。グレンから報告を受け、すぐに駆けつけたのだろう。彼の顔には、隠しきれない心配と慈愛が浮かんでいた。

「エナ、大丈夫かい?  驚かせないように、そっと入ったんだが」
「あ、アシュレイ……」

 アシュレイは静かにベッドサイドの椅子に腰掛けると、リリーから受け取った冷たいタオルを額に乗せ、氷枕の位置を調整した。そして、ぴたりと冷えた額の上に、そっと自分の手のひらを当てた。

「……まだ熱いな。無理したね。もう少し、安静にしようか」
「……ごめんなさい」

 エナは、その優しさに、思わず謝罪の言葉を口にした。

「謝ることじゃない。君は、頑張りすぎただけだよ。僕を驚かせようと、一人で全て抱え込もうとしたからだ」
「……わたし、まだ全然できてないのに。大きなこと言ったくせに、数字ひとつで頭がパンクして……何よ、知恵熱って。わたし、情けないわ……」

 アシュレイは一瞬、黙ったままエナの手を取り、その小さな指にそっと自分の指を絡める。熱を持った手のひらを通して、夫婦の絆が伝わる。

「エナ」
「なに……」
「『弱さ』を認められるのは、強さだよ。君は、自分の限界と向き合えた。それは、『完璧であること』よりも、ずっと難しいことだ」
「…………っ」

 エナは言葉に詰まる。彼の言葉は、いつだって彼女の心の最も柔らかな部分を突いてくる。

「僕は、いつだって完璧でいようとする君より、こんな風に弱音を吐いてくれる君のほうが、好きだ。僕に頼ってくれる君が、愛しい」
「……そんなこと、言わないで……」
「なぜ?」
「……今のわたしじゃ、うまく受け止められないのよ……。これ以上優しくされたら、本当に『子供』に戻っちゃいそうだから……」



 小さく熱を持った指先が、彼の袖をそっと引いた。エナは、自分の心の葛藤を、ついに言葉にした。

「アシュレイ……」
「ん?」
「お願い……『子供扱い』は、今日だけ許してあげるから……その代わりに……」

 エナは、顔を赤くして目を閉じた。熱のせいで理性の壁は崩れ落ち、残ったのは『愛されたい』という純粋な願望だけだった。

「……口付け、してほしいの……」

 ぽつりとつぶやく声は、いつものツンデレとはまるで違う。本当に頼りなくて、本当に弱くて、本当に――愛らしい、妻の甘えだった。アシュレイの顔に、深い感動の色が浮かんだ。彼女が、自ら『弱さ』を開示したことが、何より嬉しかったのだ。

「――君が、欲しいなら、喜んで」

 アシュレイはそっと身をかがめ、ベッドに伏せたエナの額から冷たいタオルを一瞬だけ外し、優しく口付けを落とした。『治癒と安らぎ』を願う、夫のキス。

 ひと呼吸の間を置いて、次に彼はエナの熱を持った頬に。そして、最後に――唇に、そっと重なる。温かく、でも決して重すぎない、それは熱の中でも忘れられない優しさと、深い愛情がこもった口付けだった。

(あぁ……この人って、ほんと……ずるい。わたしの『弱さ』も、全部受け入れてしまうなんて)



 しばらく沈黙のあと、アシュレイが微笑みながら、ぽそりとつぶやいた。口付けの余韻か、エナの頬は先ほどより少しだけ紅くなっている。

「……ねぇ」
「うん?」
「今のは、風邪をうつして元気になる作戦?  それとも、僕が病気になれば、君も看病できるからという、未来を見据えた策?」
「違うわ。ただの『甘え』よ。だって、あなたは私の夫なんだから、妻が病気の時くらい、看病して甘やかしてくれるのが当然の務めでしょう?」

 エナは、少しだけいつものツンデレを取り戻していた。

「……可愛い奥様だね。存分に甘えてほしい」
「またそうやって……。まあ、嫌いじゃないけど。あなたがいないと、回復できないみたいだし」
「光栄だな。僕は君の『特効薬』でいられるようだ」

 アシュレイはエナの頭を優しく撫で、そのまま静かにその傍に座り続けた。



 部屋の外では、リリーと護衛騎士のふたりが、完全に壁と同化して身悶えていた。部屋の中から漏れる会話に興味深々だ。

「奥様、めっちゃ甘え倒してる……!  『口付けしてほしいの』って、破壊力がすごすぎます……!」

 ティナは鼻血を抑える。

「アシュレイ様、もう溺愛が止まらない……。あのキスは、もはや『聖域』の領域です」

 セリアは冷静を装いつつも、耳が赤い。

「発熱してても、やっぱり『愛され奥様』の座は不動なのね。こんな弱音を旦那様に吐けるなんて、真の信頼関係だわ」

 リリーはそっと薬湯を用意する。

「これが『病める時も健やかなる時も』ってやつ……!  私たち、いつになったらあの域に……」
「『うらやましい』で死にそう。リリー、お茶もってきて……この愛の熱量に耐えられないわ!」
「はい、あったかいのどうぞ。奥様のためにも、私たちがしっかり外を守らなくては!」

 辺境伯夫婦の愛は、知恵熱さえも乗り越えて、さらに深く強固になっていくのだった。