政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!


 春風が屋敷を包み込むように吹いていた。空は青く澄み渡り、鳥たちの因りが穏やかに響く――その穏やかさの中に、今日という日を待つエナの鼓動だけが、微かに高鳴っていた。

「アシュレイ様、まもなく屋敷に到着されるとの報せが。最終確認が取れました」

 セリアの報告に、エナは小さく頷いた。彼女は今日、最高級の白いドレスに、アシュレイが用意させたケープを外し、胸を張って立っていた。

「……わかったわ。玄関前で迎えるわ。グレン、騎士団への労いは万全に」
「承知いたしました」

 ゆっくりと息を吐く。胸の奥で、小さな鼓動が跳ねる。早足で駆け出したい衝動を必死で抑え、背筋を伸ばし、辺境伯夫人としての誇りを持って歩いた。

(今度こそ、ちゃんと言うの。わたしの言葉で、ちゃんと。「立派な奥様」を演じるのは、もうやめるわ)

 屋敷の正門前。風に髪をなびかせて立つエナの前に、ゆっくりと馬車が到着する。最初に降りてきたのはノエル。爽やかに笑って一礼すると、エナの顔に、「頑張って」という無言のメッセージを送り、さりげなく横に避ける。そして、そのあと――。

「……ただいま、エナ」

 変わらぬ低く優しい声とともに、アシュレイが現れた。彼の顔には、疲労の色があるが、それは充足感に満ちていた。

(……無事だ。本当に、無事に戻ってきてくれた)

 どんな報告よりも、目の前に彼が立っているという事実がすべてだった。エナは一歩、二歩と踏み出す。そして――。

「アシュレイ!」

 エナは、周囲の視線も、ドレスの裾も、すべて構わず、まるで子猫が飼い主のもとへ飛び込むように、彼の胸に飛び込んだ。



 抱きしめられる。温かくて、広くて、全身がほどけるような、究極の安心感に包まれた。この抱擁が、過去数日間のすべての不安を洗い流していく。

「心配……したのよ。無事で、よかった……」

 エナの顔は、アシュレイの黒い軍服に埋もれていた。

「うん、ごめんね。君にそんな顔をさせてしまった。もう大丈夫だ」

 エナは、彼の胸から顔を上げ、涙をこらえながら、まっすぐに彼を見た。そこにあるのは、誤魔化しのない、嘘のないまなざしだった。

「わたし、あのとき……毒舌で強がってたの。ほんとは、行ってほしくなかったの。怖かったの。あなたが危険な場所へ行くのが」
「……うん。知っていたよ」
「でも……『行かないで』なんて言ったら、あなたの『足手まとい』になる気がして。あなたの誇りを傷つける気がして、それがいやで。だから……ちゃんと、言えなかった」

 喉の奥が熱くなる。でも、目は逸らさない。ここで逃げたら、今までと同じ「強がり」の自分に戻ってしまうから。

「だから……ごめんなさい。そして、ありがとう。わたしにこの屋敷を任せてくれて。信じてくれて。あなたのおかげで、わたし、少しだけ……頑張れたの」

 アシュレイはしばし黙って彼女を見つめた。その瞳には、深い愛と、そして「誇り」が浮かんでいた。彼は、エナがこの数日で、「守られるだけの存在」から「共に立つ存在」へと、自力で成長したことを理解していた。そして、ふわりと微笑んだ。その微笑みは、もう寂しい色を含んでいない。

「……ううん。ありがとう、エナ。君がこうしてここで、待っていてくれたから。君がこの屋敷を完璧に守ってくれたから、僕はどんな戦も乗り越えられた」

 そして、そっとその細い肩を抱き寄せ、もう一度――静かに、強く、彼女を抱きしめた。

「君を、誇りに思うよ。私の、対等な奥様」

 その一言が、涙腺をゆるませた。言葉よりも深く、あたたかく、彼女の心の奥に届いた。エナは、彼の胸の中で、静かに涙を流した。



 玄関から部屋へ戻ったのはしばらく後のことだった。ティナもセリアも、優しく微笑んで彼らを迎え、ノエルは「お邪魔虫は退散!」と宣言し、気を利かせて部屋を外していた。
 落ち着いた空気が流れる執務室で、アシュレイは久々に腰を下ろし、ゆったりとした呼吸を整える。

「……やっぱり、ここが一番落ち着くな。君のいる場所は」
「ふふん、当たり前よ。わたしがいるんだから。わたしが完璧に、あなたの居場所を守ったんだから」
「はいはい、そうだね。最強の奥様だ」
「ちょっと!  その『子供の戯言を受け流す』みたいな言い方やめてくれる!?  わたし、もう子供じゃないわ!」

 そこでちょうど、グレンが控えめに扉をノックした。

「お帰りなさいませ、アシュレイ様」
「ただいま、グレン。留守をありがとう。……どうだった?  エナは」

 グレンは穏やかに微笑んだ。

「奥様は……見事に務めを果たされました。政務の采配、領民との対応、そして書類の確認まですべてにおいて迅速かつ的確。ときに大胆な判断もなさいましたが、結果的にすべてが『的確』でした。特に、被災農家への直接的な支援は、領民の心を掴みました」
「……そうか」
「とても……立派に『辺境伯』の代わりを務めてくださいましたよ」

 アシュレイの表情がふっとやわらぎ、彼の瞳は、誇らしげなエナに向けられる。そしてふいに――彼はエナの頭に手を伸ばし、ぽん、と撫でた。

「よく頑張ったね。偉いよ、エナ。私が思っていた以上に、君は強くて、賢い」
「~~~っ!」

 頭を撫でられた瞬間、エナの顔が真っ赤になった。素直に受け止めたいのに、身体が拒否反応を起こす。

「ちょ、ちょっとやめてよ!  子供扱いしないで!  わたし、もう大人なんだから!」

 ぷいっとそっぽを向いて、腕を組む。でも耳まで真っ赤になっているのを、アシュレイもグレンも気づいていた。

「子供じゃないわ。立派な大人の女性よ!  あなたの隣に立つ資格のある女性よ!」
「うん、うん。わかってる。もちろんだ。私も、君がいてくれて心強いよ」
「わかってない顔してる!!」

 口を尖らせるエナの姿に、アシュレイは思わず笑みをこぼす。そんなやりとりの中にも、確かに息づく「信頼」と「親愛」。かつては戸惑いと強がりで包んでいた想いが、少しずつ、けれど確かに――真の絆という形になり始めていた。



 その夜。ふたりは久しぶりに、広い寝室で肩を並べてベッドに座っていた。夜風がカーテンを揺らし、窓の外には満月が輝いている。

「ねえ……アシュレイ」
「ん?」
「……また、出陣とかあるの?  ノエルは、国境の動きが気になるって言ってたけど」
「……あるかもしれない。辺境伯である限り、それは私の宿命だ」

 エナは、先日のように強がることも、泣き出すこともなかった。彼女は少しだけ視線を落とし、静かに続けた。

「そのとき、また怖くなると思う。強がるかもしれない。怒るかもしれない。でも、逃げない」
「……うん」

 アシュレイは、ただ静かに耳を傾ける。

「でも、それでも……待ってるから。あなたが誇りに思う、この屋敷を、領地を、わたしが守って待ってるから。今度は、ちゃんと『いってらっしゃい、無事でいてね』って言うから。だから……ちゃんと『帰ってきて』」

 それは、政略結婚という契約を超えた、愛する者への誓いだった。アシュレイは一度ゆっくりと目を閉じ、彼女を抱きしめた。

「――約束する。エナ。君のところへ、必ず帰ってくる。君が私を待つ限り、私はどんな戦場からも、必ず君の隣へ戻る」

 ふたりの距離はもう、かつてのように遠くなかった。政略結婚で始まった関係は、少しずつ少しずつ、確かな愛と信頼の絆へと変わっていた。そして、エナの心の中には、もうアシュレイの「包容力」に甘えるだけの「小鳥」はいなかった。彼の隣に、誇り高く立つ、「立派な辺境伯夫人」が誕生していた。

(この人となら、大丈夫だ)

 静かな夜の闇の中、エナはそっと微笑んだ。