政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!


 霧が晴れきらない早朝。辺境伯領の中庭には、静かな緊張が漂っていた。アシュレイがまとう黒い戦装束と、その隣で準備を整えるノエル。その背後には、選抜された百名規模の騎士団が、音もなく整列している。馬の蹄が石畳を打つ音だけが、辺境の静寂を破っていた。

「報告にあった通り、南部交易路沿いでの武装集団の活動が活発になってきた。今回は“偽装交易”の疑いが濃い。周辺に被害が出る前に、迅速に調査と排除を進める」

 ノエルが小声で言う。アシュレイは静かに頷いた。彼の表情は、数日前の穏やかな夫の顔ではなく、冷徹な指揮官の顔に戻っていた。そして――。

「……行ってきます」

 そう言って、アシュレイは振り返る。その視線の先、石畳の上には小柄な姿のエナが立っていた。白いドレスに、昼には珍しい、内側に毛皮をあしらったケープを羽織って。まだ肌寒いこの季節、彼女の冷え症をよく知っているアシュレイが、前夜にリリーを通して用意させたものだ。

「留守の間、屋敷のことをお願いしてもいいかい?  君なら、完璧にやってくれると信じているよ」

 彼の言葉は、もはや「小鳥」への甘やかしではなく、「信頼」を込めた依頼だった。

「……ふん。そんなこと言われなくても分かってるわよ。わたしはあなたの奥方なんだから。……あんたが帰ってくる場所、壊すわけないでしょ。むしろ、あんたが驚くほど立派に、整えておいてやるわ」

 背筋を伸ばし、顎を少し上げて。それは誰が見ても、立派な“辺境伯夫人”の姿だった。彼女は、昨夜誓った通り、最高のプライドを持って彼を見送ろうとしていた。けれど――アシュレイの瞳に浮かんだのは、どこか寂しそうな微笑みだった。

「……ありがとう、エナ」

(……あ、また)

 あの微笑み。初めてのキスで心が通じ合ったはずなのに、なぜ彼はそんな顔をするのだろう。胸の奥をきゅうっと締めつけるような、優しくて、でもどこか“距離”を感じさせる、あの表情。

(やだ……そんな顔、しないでよ。どうして、別れ際なのに、抱きしめてくれないのよ……!)

 駆け寄って、袖をつかんで、「行かないで」とか「寂しい」とか、素直な言葉を口にできれば、この冷たい空気を破れたかもしれない。だが、「立派な奥様」であろうとするプライドが、エナの足を石畳に縫い付けた。その前に、彼は踵を返し、馬に乗ってしまった。ノエルもエナに軽く会釈すると、兄の隣に馬を進める。

「アシュレイ――っ」

 名前を呼んだが、その背中はもう遠ざかるばかりだった。騎士団の隊列が、霧の中へゆっくりと消えていく。



「……奥様。少し、休まれますか?」

 セリアの、いつもよりずっと優しい声に、エナはかすかに首を振る。

「いいの。……仕事、あるんでしょ?  やるわよ。やらせて。休む暇なんてないわ」

 彼女の言葉に、グレンが静かに文書を差し出した。彼は、アシュレイが出発する直前に、「エナが仕事に没頭できるよう、忙しくさせてやってくれ」と密命を受けていた。

「では、本日の申請書は二十件。内訳は……こちらに整理してあります。まずは優先度の高い補給物資の件から。旦那様不在の間も、領民の生活は待ってくれません」
「うん……えっと、この集落は……春の雪解けによる水害の補修、ね」

 エナは書面を見つめながら、懸命に記憶を呼び起こす。市場で見かけた農夫の顔。地図で学んだ村の位置。

「……ここの水車、小規模だけど、灌漑に使ってるはず。補給より、まず修繕じゃない?  修繕用の大工を先に回すべきよ。それが滞ると、夏作に影響が出る」
「正解です。奥様、的確ですわ。その判断力は、旦那様に引けを取りません」

 ティナが嬉しそうに笑う。エナの判断は、見事にグレンの計画と合致していた。けれど、心のどこかではずっと、あの“悲しそうな微笑み”が残っていた。

(わたし、何か……言いすぎた?  最後の最後で、わたしはまた、素直じゃない自分を押し付けてしまった?)

 毒舌。それはいつもの自分のやり方。でも、それが“彼を寂しくさせた”としたら。彼女の心は、政務の的確さとは裏腹に、深く沈んでいた。



 昼過ぎ。政務の合間に、エナは中庭に出て、一人ベンチに腰かけた。手には温かい紅茶。グレンが、彼女が席を立つ瞬間に、さりげなく用意させたものだ。けれど心は冷えていた。

(アシュレイは、わたしの“強がり”を分かってて、だからああいう顔をしたんだわ。優しすぎるのよ。……ずるいくらい、優しい。素直になれないわたしの弱さを、すべて見抜いて、優しく受け入れた)

「……なんで、抱きしめてくれなかったのよ……」

 ぽつりと、誰に向けるでもない言葉が零れる。

「……ほんとは、怖かったのに。また、一人でこの大きな屋敷に取り残されるのが」

 行ってしまう背中に、「行かないで」なんて言えなかった。“領主夫人”としての誇りが、プライドが、それを許さなかった。でも、心のどこかで、分かっていた。――あの微笑みは、わたしが「素直な愛を求める女性」ではなく、「立派な奥様」になれるかどうかを、静かに見ていたのだと。

「奥様」

 声に顔を上げると、グレンが少しだけ離れた場所に立っていた。彼は彼女の姿をそっと見ていたのだろう。

「……様子を見に来ただけです。お気になさらず。紅茶は温かいうちにどうぞ」
「……様子なんて、見なくていいわよ。わたし、別に泣いてないし。弱くなんかないわ」
「はい、見事なものです。奥様の気丈さは、我々がよく存じております。けれど……時に、気づかないふりも“優しさ”です。無理に強く振る舞う必要はありません」
「…………」

 エナはそっと瞳を伏せた。グレンの言葉はまっすぐに、けれど押し付けがましくない。使用人としての距離感を保ちつつ、しっかりと心に届く。

「セリアも、ティナも、屋敷の皆が奥様を見守っております。旦那様も、奥様がこの屋敷を守ってくださると信じて、安心して行かれました。どうか、ご自分を信じて、日々をお過ごしください」
「……ええ、分かってるわ」

 エナは深く息を吸った。吸い込んだ空気に、少しだけ春の匂いが混じっていた。彼女は、この屋敷の全員が、自分を「アシュレイの隣に立つ者」として受け入れていることを、実感した。



 その夜。帳簿を読み終えたあと、エナはぽつりと呟いた。

「……わたし、大人になるわ。もう、あんな寂しい顔はさせない」

 声に出してみると、不思議と気が引き締まる。アシュレイの隣に、対等な立場で立つには、まだ足りないものばかりだ。

 けれど、あの人は言ってくれた――『一緒に歩いていこう』。ならば、止まってはいられない。

(次に会うとき、わたしはもう、強がりで毒を吐くような子供じゃない。ちゃんと胸を張って、心から「おかえりなさい、愛しい人」って言うんだから)

 エナはそっと、執務机の引き出しを開けた。昨日、アシュレイへの感謝を綴りかけたままの、花柄の便箋。それは彼に宛てた、まだ出せない手紙。「あなたがいなくて寂しい」とも、「どうか無事で」とも書かれていない、ただの便箋。

 いつか――素直に想いを伝えられる、「大人の愛の言葉」で手紙が書ける日のために。エナは再び、政務の書類に目を向けた。その瞳は、決意に満ちて、夜の暗闇の中でも輝いていた。