17歳の私たち

 高校二年生。十七歳になったばかり。夏休み直前。親友の瑠佳(るか)が学校に来なくなって、一ヶ月。メッセージの返事が来なくなってから、二週間。

「ねぇ、知ってる? 瑠佳、妊娠したから学校辞めるんだって」
 昼休み。くっつけた席の向かい側に座る友達の言葉に、私は箸で摘まんでいたミートボールを落としそうになった。
「妊娠……?」
 言葉は知っているし、意味も分かる。けれど、その言葉と瑠佳の名前がくっつかなくて、聞いたことのない言葉のように思えて、ただ繰り返すことしかできなかった。
「あ、知ってる。隣のクラスの田中さんが見たらしいよ。一昨日、進路指導室で先生と話してたんだって。お腹も大きかったみたいだよ」
 隣のグループでお弁当を食べていた子がこちらを振り返って、椅子の背もたれから身を乗り出すように言った。それを皮切りに、周りの子たちにも話題が伝染していく。
 盛り上がるクラスメイトたちとは反対に、音が遠のいていく感覚。
 瑠佳とは一年生のときに仲良くなって、二年生でも同じクラスになって喜んで、一年以上一緒にお弁当を食べてきた。
 家に帰ってからもメッセージアプリで夜中まで語り合ったこともあるし、毎週末遊びに行くくらい仲良しだった。
 彼女が好きなものも、悩みも全部全部知っているつもりだった。恋人とのことだって――。
 瑠佳に彼氏がいることは知っていた。高校一年生の夏ごろから付き合っていて、紹介してもらったこともある。瑠佳がバイトしているカフェで知り合った大学生だって言っていた。随分とその人は大人っぽく見えたっけ。優しそうな人だった。
 惚気話も、愚痴も、たくさん話してくれた。
 でも……。
「乃蒼(のあ)ちゃんは何も聞いてないの?」
 向かい側の友達からの言葉に、クラスメイトたちの視線が一斉に私に刺さる。喉が詰まる。私は箸をゆっくりと置いてから、「何も知らない」と首を横に振った。「えー?」とクラスメイトたちは私のことを怪しんだけれど、私は本当になにも知らなかった。背中に汗が滲む。
 一ヶ月くらい前から学校を休んでいる瑠佳からは、「体調不良」だと聞いていた。「早く治しなよ」、「瑠佳がいないと学校つまんない」と送ったのが、二週間前。「ちょっと風邪気味っぽい」、「がんばるー」なんて返事がきてから、それっきり、瑠佳からは何も連絡が返ってこなくなった。
 そろそろお見舞いに行こうかな、なんて思っていたときだった。
 どうして、言ってくれなかったんだろう。なんでも話してくれていたのに。
 っていうか、風邪気味なんて、嘘じゃん。嘘つかれてたってこと? 学校を辞めることすら私に言わずに辞めようとしてたってこと?
「相手って大学生の彼氏でしょ?」
 ぐるぐると巡る思考の隙間を縫うように、クラスメイトたちの声が聞こえてくる。
「まだ付き合ってたんだ」
「いつから妊娠してたんだろ。お腹大きいってことは、結構前ってことー?」
「ああ、だからずっと休んでたの?」
 私たちの会話につられるように、窓の外から聞こえてくる蝉の音が一際騒がしくなったとき。
「ていうか、避妊しなかったのかな」
 その言葉が、私の頭に刺さるように響いた。一瞬だけ呼吸が乱れる。
 『避妊』という言葉に引きずり出されるように、二年生に進級する直前の春休みに見た瑠佳の笑顔が蘇った。

――昨日、彼氏んち泊まったんだー。

 嬉しそうに。なんだか見た夢の話でもするみたいに、カフェのミルクティーを飲みながら話してた。
 私は、なんて返したんだっけ。
 ああ、そうだ。

――いいなー。一人暮らしなんでしょ? 彼氏。
――うん、そう。夜中まで映画見ててさ、寝不足。

 困ったように、瑠佳は笑って言っていたけれど。
 あのときも、そーゆーこと、してたってこと?
 私は、そんなこと、なんにも知らずに、「いいな」って笑ってたってこと?
 胃の中が重くなる。ぐるぐるとかき混ぜられるような、不快感と苛立ち。

「乃蒼から瑠佳に連絡してみたら?」
 誰かの声に意識が引き戻される。
 クラスメイトたちの好奇心に満ちた目が、私を見ている。私は、自分の唇がへらりと笑ったのに気付いていた。
「いや……しないよ。……だって、なんか、気持ち悪くない?」
 その声が、やけに教室に響いたような気がした。
 賑やかだった教室に、沈黙が落ちる。窓の外では、蝉だけが変わらず鳴いていた。

――あれ、私、今、何言った……?

 心臓が強くドキドキしていて、掌が湿る。笑った口元が引きつった。クラスメイトたちの視線を受け止めきれなくて、視線をお弁当のほうへ下げた。
 別に、私、瑠佳のこと本当に気持ち悪いなんて……。
「……まぁ、ちょっと分かる」
 顔を上げると、最初に私と友達の会話に入ってきたクラスメイトが、静かに頷いた。
「だってうちら、まだ高校生だもんね」
 別の子も、零すように言う。
「普通に子どもなんて育てられる気しないんだけど」
「あと、やりたいこともできなくなるじゃん? 無理、無理」
 顔を見合わせて、それぞれが口々に話す。
 今までの私なら、どうしていただろう。
 瑠佳のこと、気持ち悪いなんて絶対に言わなかった。
 瑠佳がちょっと悪く言われてたら、「瑠佳のこと悪く言わないで」って止めていたかもしれない。
 でも、今は、肩の力が抜けている。
 気持ち悪いって思ってしまったこと、私だけじゃなかったんだって、ホッとしている。
 お弁当はまだ半分以上残っていたけれど、食べる気になれなかった。微かに震える手で、お弁当箱の蓋を閉じる。
 テーブルの上のミルクティーに手を伸ばして、ストローに口をつけた。よく瑠佳と一緒に購買で買った、パックのミルクティー。買ったときは冷えていたのに、今は生ぬるい。それも少し気持ち悪くて、私は顔をしかめた。
 明日は、違うやつ、買おうかな。
 

 エアコンが静かに鳴っている。一学期が終わって、夏休みが始まった。終業式の日、担任が瑠佳の机の中身を全部大きな紙袋の中に詰めていた。その日の帰り、担任に呼び出されて、「間宮は藤崎と仲が良かったから」という前置きとともに、瑠佳が一学期で学校を辞めることになったと教えてくれた。事情は言えないけれど、と担任は少しだけ眉を下げていた。学校を辞めるっていうのは、噂じゃなかったんだ。紙袋を指差しながら、「それ、瑠佳が取りに来るんですか?」と聞いた。待っていたら、瑠佳に会えるかもって思ったから。会えたら、何か話してくれるかもって思ったから。
 でも、担任は「お母さんが来るらしい」と首を横に振った。


 自分の部屋のベッドの上。私は仰向けに寝転びながら、スマートフォンの画面をつけた。
 SNSのアイコンをタップする。パッと画面が切り替わる。友人たちの投稿を、すっすっと指を滑らせて眺め、ハートマークを押していく。まだ夏休みも始まって間もないというのに、みんな、プールや遊園地の写真を投稿していて、夏を満喫している。

――去年は私も、瑠佳といっぱい色んなところ行ったのにな。

 今年は夏休みの予定すら立てることができなかった。また来年もプール行こうよって言っていたのに。
 瑠佳のプロフィールページに飛ぶ。一ヶ月前から投稿は止まっていて、過去の瑠佳がずらりと並んでいる。
 ページをスクロールしていく。私と一緒に行ったカラオケで撮った写真。カフェで食べたケーキ。彼氏と頬を寄せ合って撮っているツーショット。
 そこには、私のよく知っている瑠佳の姿があって、けれど、そのどれもが私の知らない瑠佳のように見えた。
 一番新しい投稿を開く。放課後に一緒に撮ろうって言われて、一緒に撮ったやつだ。
日付は、瑠佳が学校に来なくなる直前。このときには、もう、妊娠してたってこと? 瑠佳は、もう学校を辞める気だったから、私と一緒に写真を撮りたかったのかな。
 SNSを閉じて、メッセージアプリを開く。瑠佳とのトーク画面。「がんばるー」という瑠佳からのメッセージで会話が終わっている。
 一度、閉じて、また開く。
 それは今日までに、何度もしてきた行動だった。
 閉じては、何か送ろうかと考えて、体調悪いなら返信考えるのもしんどいだろうなって思って、やめてきた。
 でも、違う。違った。瑠佳が私に連絡しなかったのは、そんな理由じゃなかった。

――体調、大丈夫?

 入力欄に、そう打ち込んで、消す。

――妊娠したって、本当?

 また文字を打ちこんで、消していく。

――どうして、言ってくれなかったの?

 指が止まる。一瞬だけ送信ボタンの上を指が彷徨って、やめた。画面を暗転させたスマートフォンを枕元に投げる。そして背中を向けるように横になった。
 私からは、絶対に連絡しない。
 だって、最初に隠したのは瑠佳だ。
 話したいなら、瑠佳のほうから言ってくるべきだ。
 吐き出す息が無意識に熱く、荒くなる。胸のあたりが重苦しい。
 話したいなら――。
 もう一度、そう頭の中で繰り返そうとして、私は息を詰まらせた。
 瑠佳から連絡がないのは、彼女が話したいと思っていないからだと、気付いてしまったから。
 こんなに気の合う友達ができたのは初めてだって、思ってた。
 瑠佳とは高校生になってから出会って、まだ一年しか一緒にいない。それでも、なんでも話せる相手だと思っていた。
 でも、実際の瑠佳はどうだっただろう。
 私に話していないことだらけだったんじゃないか。
 彼氏とそこまで関係が進んでいるなんて知らなかった。別に話さなきゃいけないことじゃないけれど……。

 赤ちゃん欲しかったの?
 だから、避妊もせずに、そーゆーことしたの?
 なんで、風邪気味だなんて嘘ついたの。
 学校辞めるって、誰と話し合って決めたの。
 っていうか、私、瑠佳から連絡来たら、「おめでとう」って言うの……?

 目を閉じる。バカなことを言い合って、手を叩いて笑う瑠佳が瞼の裏に浮かぶ。
 私の知っている瑠佳は、ちゃんと、瑠佳だったのかな。
 私だけ、バカみたいだ。体調大丈夫? って、気遣って。何も知らないまま、彼氏とのお泊まりデートを「いいなぁ」って羨ましがって。
 同じ十七歳なのに、全然違う。
 私は学校に行って、友達に会って、はしゃいで、笑って、みんなでお弁当食べるのが楽しくて。
 でも、その間に瑠佳は、彼氏とそーゆーことして、赤ちゃんができて、高校を辞めて、お母さんになるってこと……?
 頭がついてこない。たった数ヶ月前までは、瑠佳も私と同じだって思っていたはずなのに。瑠佳だけ、ひとりで知らないところに行ってしまった気がする。


 夏休みは、あっという間に八月の半ばになってしまった。何度か同じクラスの子と遊んだけれど、それ以外の日はほとんど自分の部屋でだらけて過ごしていた。
 相変わらず、瑠佳からは何も連絡が来なかった。私も徐々にメッセージを見返したり、SNSを遡ったりしなくなっていた。
 二学期が始まったら、教室には瑠佳がいないことが当たり前になる。
 それを、この夏休みの間に少しずつ練習しているような気分だった。連絡を取らないことも、向こうからメッセージが来ないことも当たり前で。SNSで繋がっていることすら忘れて。教室にいないことも、休日遊べないことも、くだらないことで笑い合えないことも、きっと時間が過ぎていったら当たり前になる。
 幼稚園のときにすごく仲良しだった子の名前や顔すら今はちゃんと思い出せなくて、瑠佳もそれと一緒になるのかもしれない。
 そういえば、そんな子いたなぁって思うくらい。
 親友と呼べるくらい仲良しの友達でも、きっと、そんなものなのかな。
 家にひとりでいると、そんなモヤモヤばかりを考えてしまってしんどい。
 新学期が始まったら、すぐにお母さんの誕生日が来ることを思い出して、駅前のショッピングモールにプレゼントを探しに行くことにした。
 去年は瑠佳が一緒に選んでくれたバスボムセットを渡した。お母さん、すごく喜んでくれて私も嬉しかった。今年も瑠佳に手伝ってもらいたかった。
 そういえば、そのとき、瑠佳のお母さんの誕生日プレゼントを選ぶときは私が付き合うって約束していたっけ。でも、瑠佳のお母さんの誕生日はもう過ぎてて。じゃあ、二年になってからだねって話をして。結局、瑠佳が学校に来なくなっちゃったから……。瑠佳、お母さんに誕生日プレゼント、選べたのかな。
 ああ、もう、考えるのはやめよう。別れた恋人に未練たらたらな奴みたいで嫌だ。考えないようにするほど、瑠佳のことばかり思い出してしまう。
 ひとつ息を大きく吐き出してから、スニーカーの紐をきゅっときつく結んだ。玄関扉を開けると、夏の陽射しはとても眩しくて、一瞬だけ目がくらむ。
「暑い!」
 わざと独り言を漏らす。暑いのは嫌いだけれど、容赦がないくらいの夏の暑さは余計な思考を遮ってくれるような気がして、今日だけは少しだけありがたかった。


 夏休みだからか、駅前は多くの人で賑わっていた。ショッピングモールが見えてくる。この辺りでは一番なんでも揃っているお店。雑貨屋さんもいくつか入っているから、今日はそこで何か良いものを見つけられたらいい。
 お母さんの好みをイメージしながら、モールの上の階から攻めるか、一階から順番に見て回るかを真剣に検討していた、そのとき。
 モールの入り口前。大きな街路樹の下に設置されているベンチに、ふと視線が吸い寄せられた。
 そこに座っている、女の子。見覚えのある髪型。見慣れた俯き加減の顔。ゆったりとした白いTシャツに、長いスカートは、あまり、彼女っぽくはないけれど……。

――瑠佳だ。

 自分の呼吸が一瞬、止まりかけた。
 学校で会うことも、SNSも、連絡も、何もなかったのに。まさかこんなところで彼女を見つけるなんて。
 思わず足が一歩後ろにさがる。気付かれないようにしないと。だって今、なにを話したらいいのか全然分かんない。瑠佳だって、きっとそう。私に会ったら、困るに決まっている。だから、人ごみに紛れながら、踵を返そうとした。
「あれ? 乃蒼!」
 私を呼ぶ、いつもの声。底抜けに明るい、瑠佳の声。
 ぎゅっと胸に痛みが走って、ショルダーバッグの紐を強く握り込んだ。振り返れば、汗だくの火照った顔で笑って、瑠佳が私に大きく手を振っていた。
「乃蒼、こんなところで何してるの?」
 呆気に取られてしまうくらい、いつもの調子で話しかけられる。夏休み前に聞いた話が全部全部、なにもなかったみたいな。
 でも……。
 ゆったりとしたTシャツの下で、瑠佳のお腹は丸く前に膨らんでいた。なにもない、とは言えないくらい。
「……そっちこそ、何してんの? こんなところで」
 私に会いたくなかったんじゃないの、と聞きそうになって、飲み込んだ。
 その代わりみたいに、口から出た言葉が少しだけ尖った。平静を装いたかったけれど、心臓がうるさくて、痛い。
 瑠佳は私を見て、へらりと眉を下げて笑う。
「買い物に来たんだけど、ちょっと今日は暑すぎるね。疲れちゃって」
 まいったな、と汗で張り付いた髪を瑠佳が指でよける。火照った顔は、私よりもこの夏の暑さのダメージを受けているのか、少しだけ疲れているように見えた。
 瑠佳は小さく息を吐くと、自分のお腹をゆっくりと撫でた。
 なんでそんなにしんどそうなのに、こんなところで休んでるの。店の中に入れば涼しいのに。
 そう思ってから、私は自分でも少しだけ嫌になった。
 さっきまで、瑠佳に気付かれないように逃げようとしていたくせに。
「……店の中、入ろうよ」
 瑠佳の返事を待たずに、私はモールの入り口へ向かって歩き出した。
 数歩進んで、後ろから足音が聞こえないことに気付く。
 振り返ると、瑠佳が「よいしょ」と小さく声を漏らしながら、ベンチから立ち上がろうとしていた。
 思わず駆け寄りそうになって、やめた。
 代わりに、その場で瑠佳が立ち上がるのを待った。
「ごめん、お待たせ」
「……別に」
 瑠佳が隣に並ぶ。「フードコート行く?」と笑った瑠佳に、私は小さく頷いた。いつもよりもほんの少しだけ歩く速度を緩めた。


 三階にあるフードコートまではエレベーターで上がった。昼のピークを過ぎていたからか、思っていたよりも席が空いていて良かった。
 二人掛けの席に向かい合って座る。瑠佳はタオルで首元の汗を拭いながら、深く息を吐いた。
「涼しい、生き返るー!」
「だね」
 瑠佳は、周囲が気になるのかきょろきょろと顔を動かしていた。口元にはいつもと変わらない笑みが浮かんでいるのに、向かい合って座った途端、私とはあまり目が合わなくなった。
「なにか飲む? 買ってくるけど」
「あ、ありがとう」
 パッと瑠佳が私を振り返った。
「ミルクティー……じゃなくて、お水で、大丈夫」
「そうなの?」
「うん」
 それなら私だけ何か頼むのは気が引けてしまって、近くにあるセルフサービスのお水を紙コップにふたつ注いでから席に戻った。
 ありがとう、とまたお礼を言われたきり、会話が止まる。
 聞きたいことも、言いたいことも、たくさんある。
 たくさんあるけれど、いざ瑠佳を目の前にするとどうしていいのか分からなくなった。
 目の前にいる瑠佳が、あまりにも私の知っている瑠佳で。それなのに、間違い探しみたいにお腹だけ大きくて。どこか、気まずそうに視線を逸らして。言いたいことあるなら、言えばいいのに。紙コップを握る手に力が入る。中に入っている冷たい水が、コップ越しに私の掌を冷やした。
「……元気だった?」
 私のほうがこの空気に耐え切れなくて、先に口を開いた。
「私、妊娠してるの。今、妊娠五ヶ月」
「もう五ヶ月なの?」
「うん。生理来ないなって思って、妊娠が分かったときには二ヶ月だったんだよ。びっくりじゃない?」
 なにか面白いことを話すように瑠佳が笑う。
 私は笑ってあげられなくて、唇を一度、引き結んだ。
「二ヶ月って、そんなに気づかないもんなの?」
「だって最初の何週間かは妊娠してるなんて分かんないじゃん」
 保健の授業でそんなことまでやったっけ。あんまり思い出せなくて、
「……いや、知らないけど」
 と、私は苦く笑った。
「あー、そっか。ごめん」
 でも、この会話がスイッチになったのか、瑠佳はぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
「お母さんは、出産に賛成してくれてるんだ。サポートするって言ってくれてる」
「……」
「でも、お父さんは反対してて。どうやって育てるんだって」
「彼氏は? 賛成してるの?」
「……堕ろしてほしいって言ってる」
「え?」
「彼氏には、大学卒業したいから、妊娠は困るって言われてて。向こうの親も同じ意見みたい」
 私は眉を無意識に寄せてしまっていた。
「彼氏が言ってることも分かるんだよ。まだ大学生だし、学費も親に払ってもらってるみたいだし、大学でやりたい勉強、頑張ってるから」
 瑠佳が、ふっと視線を下げる。
「でも、私、どうしても産みたくて、それでちょっと揉めてる」
「なんで?」
「うん?」
「瑠佳は、どうして産みたいの?」
「だって、いるんだよ? ここに。ここにいるって分かってるのに、中絶とか、考えるのもちょっと無理でさ」
 瑠佳は、なぜか笑っていた。全然、笑える話じゃないってことくらい、私でも分かるのに。そのせいで、自分の顔に余計に力が入るのが分かった。
「このまま私が産むって言い続けたら、彼氏とは別れることになると思う」
 重い。
 瑠佳の、言葉のひとつひとつが。
 全部全部、自分が思っていたよりも重苦しくて。「瑠佳は赤ちゃん欲しかったんだ」とか、「彼氏とそーゆーことしたから」とか、そんな得体の知れない気持ち悪さすら圧し潰すような重さ。
 十七年間生きてきて、今まで一度も感じたことがないくらい、重くて。口を開くことさえ憚られて。
 大人っぽくて優しいと思っていた瑠佳の彼氏のこととか、瑠佳の家の中のことを想像して、想像しきれなくて、胃の奥がきつく痛む。
「……でも、育てられるの?」
「……たぶん。お母さんに助けてもらいながらになるとは思う」
 瑠佳はゆるゆると首を横に振った。
「でも、ちゃんとできるかは、分かんない。想像もできないし」
「……そっか」
 自分から質問したのに何も返せなくて、そう相槌を打つことしかできなかった。
 しばらく、沈黙が落ちた。それはとても長いように感じたけれど、実際には数十秒くらいのことだったのかもしれない。
「乃蒼」
 名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「……ずっと連絡できなくて、ごめんね」
 こちらを見ずに、紙コップに入った水を見つめながら言う瑠佳の声は、ひどく小さかった。コップを握る手が微かに震えていることに気付いた。
「乃蒼には、ちゃんと話したいって思ってたんだよ」
「……じゃあ、なんで、何も言ってくれなかったの」
「怖かったから。クラスで、なんて言われてるのか、乃蒼の反応で分かっちゃいそうで」
 制服のスカートがどんどん入らなくなっていったこと。
 学校に来ていたときも、つわりで体調が悪かったこと。
 何回か放課後の学校で、保健室の先生と担任と一緒に話をしたことがあったこと。
 そのときに、誰かに見られていたかもしれないってずっと思っていたこと。
 学校を休めば休むほど、学校でどんどん自分のことを噂されているような気がして、私に連絡することも怖くなったのだと、瑠佳は声を震わせながら話してくれた。
 私は、なにも返せなかった。
 瑠佳の話ではなくて、今度は、自分の言葉が自分の体に重く圧し掛かった。
 気持ち悪いって思って、言葉にしてしまったことが。
 紙コップを握る手に、嫌な汗が滲んだ。
「学校で私、なにか言われてる?」
 妊娠も、学校を辞めたのももうバレてるでしょ、と瑠佳は少し赤くなった目で私を見て首を傾げた。
 自分の視線が泳ぐ。
 瑠佳はもう学校を辞めているし、本当のことを知る必要なんてないんじゃないか。
「別に、なにも」
 だから、そう誤魔化そうとしたのを、「乃蒼」と言われて咎められる。その瑠佳の目は、「ちゃんと分かっている」と言いたげに細められて、私は一度、唾を飲み込んだ。
「……妊娠してること、気付いてる人もいる」
「そっか」
 と、瑠佳はゆっくりと頷いた。
「乃蒼も、やっぱり知ってたんだね」
 全然驚いてないんだもん、と瑠佳は小さく笑った。私は紙コップから手を離して、自分の脚の上に手を置いた。汗をスカートで拭う。
「噂でしか、知らなかったけど。担任が、学校辞めるってことだけ教えてくれた」
「……うん。産んでも、産まなくても、もう行けないなって思っちゃったから」
「そっか」
 私は同じように頷いた。そして、瑠佳の瞳がまた私をゆっくりと捕らえる。
「乃蒼は、どう思ってた?」
 心臓を掴まれたような気がした。誤魔化すことを許さない、瑠佳の真っ直ぐな目が刺さる。
 息を吸い込んだ。乾いた喉がひりひりと痛んだ。
「……気持ち悪いって、正直、思った」
 瑠佳は、そっと目を閉じた。
「うん。そっか」
 それは、噛み締めるような声だった。
 私は自分のスカートごと手を握り込む。
「でも、今は……なんか、違う」
「違う?」
 瑠佳が目を開ける。
「分かんない。気持ち悪いとか、そういうんじゃなくて……」
 瑠佳の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「でも、『おめでとう』って言えばいいのかも、分かんない」
 瑠佳は、一度、二度、瞬きを繰り返してから、
「だよね。私も分かんないもん」
 と、肩を竦ませた。
 会話が止まる。瑠佳は小さく息を吐くと、紙コップを手に取って口元に運んだ。
「喉、乾いた」
 そう言って、少しだけ瑠佳が笑う。 
「私も」
 ようやく一口目を飲んだ水は、すっかり温くなってしまっていた。
 私たちの横を、小さな子どもと手を繋いだ女性が通り過ぎていく。思わずその二人を目で追ってしまう。
 今でも私の中では、こういう光景はずっとずっと先にあるもののように思えてしまう。
 十七歳の私には、まだ、自分が誰かのお母さんになることなんて想像もできない。
 通り過ぎていくその背中を見送ってから、なんとなく視線をその先へ向けた。
 フードコートの向かい側に、子ども服のお店がある。
 入り口には、小さなTシャツやワンピースが並んでいた。私なら腕も通らなさそうなくらい、小さな服。
 私はそれをしばらく眺めてから、向かいに座る瑠佳へ視線を戻す。
 瑠佳のお腹は、テーブルに隠れて見えなかった。
 私はもう一度、小さな服の並ぶ店へ目を向けた。
「……ねぇ、瑠佳」
「うん?」
「今から、あそこ一緒に見に行かない?」


【完】