まだ空の色が淡い、四月の初め。
薄桃色の花びらを満開にまとった桜の樹を見上げ、「綺麗だ」と思った。
「どう? 今が一番いいでしょ? 今週末に雨が降ったら、きっと散っちゃうから」
隣に立つ奏先輩が自慢げに言うので、「そうですね」と答える。
「じゃあパパッと撮っちゃおうー」
「はい」
俺は頷いて、言われた場所に立つ。
演劇部の新入部員募集のポスター用として、写真の被写体になってほしいと中学時代の先輩である奏先輩に頼まれたのは、ついさっきのことだ。
明日の入学式を前に、一足先に寮へ入寮してきた俺を見かけ、「ちょうどいい!」と速攻捕まえに走ったらしい。
先輩が卒業してから実に一年ぶりの再会だったが、中学時代もかなり無理なお願いをされることが多かったので、懐かしく思いながら引き受けた。
欲しい画は、先輩がメインなので、カメラマンは俺の後ろにスタンバイする。
俺は先輩と向かい合って立ち、自分よりかなり低い位置にある肩に手を置き、身を屈めた。
(これくらいの位置なら、キスしてるように見えるのかな?)
ご要望は、桜の樹の下のロマンチックなキスシーンだ。
「キタ、遠い。もう少し屈んで」
顔を上向けて両目を瞑り、完璧に可愛いキス待ち顔をしているのに、先輩の可憐な唇から出てくるのは、ひどく事務的で的確な指示。
「……はい」
ギクシャクと顔を傾けて、距離を詰める。
「おっ、いいねー、いい感じ」
カメラマンの先輩は、プロのような声掛けでひたすら褒めて俺を乗せようとしてくれるけれど、相手役の奏先輩は容赦ない。
「いや、全然よくないでしょ。もっといい雰囲気出してよ。僕のこと好きで好きでたまらないみたいな」
「無茶言わないでください」
そうそうこの感じと、キツイダメ出しも懐かしく思いながら、少し表情を緩めてみた時、視線に気がついた。
(………ん?)
離れた場所から、俺たちの撮影を凝視している奴がいる。
サイズの合っていない真新しい制服。長めの髪に黒ぶち眼鏡。きっと俺と同じ新入生だろうが、こちらを見て凍りついたように立ち竦み、頬を真っ赤にしている。
(そうだよなー刺激が強いよなー)
入寮早々こんなシーンに出くわした彼が気の毒で、少し視線を動かして、寮の入り口へと誘導してみる。
(気にしないで行ってくれていいんだよ?)
俺の合図に気づいたらしく、そいつはあたふたとその場から退散しかけた。
しかし何をどうやったらそうなるのか、自らの足に引っ掛かって体のバランスを崩し、その場にドタンと尻もちをつく。
「…………っ」
笑ったら悪いと思いながらも、思わず吹き出しかけた。
「キタ?」
奏先輩が訝しげに俺の名前を呼ぶので、俺は「いかんいかん」と気を引き締めようとする。
だけど——。
春風にふわっと、そいつの長めの前髪が舞い上がった瞬間、他の全てがぽーんと頭から抜け落ちた。
(…………え?)
濡れたように真っ黒な大きな瞳。その目が少し潤んで、細い眉も困ったように下がる。遠目にもわかるほど頬が赤いが、小さな唇も同じ色をしていて、細くて真っ白な首や手との対比がエグイ。
(え、男……だよな?)
かなり小柄で華奢なので、ここが共学だったら判別に迷うところだが、宝翔学園は男子校だ。
転んだはずみで落ちた眼鏡を慌てて探しているそいつは、俺と同じ制服を着ている。
「かっ……」
思わず「可愛い」と声に出そうになり、慌てて手で口を覆った。
「キタぁ???」
俺の挙動に気づいた奏先輩が、怒りを滲ませた声を出しながら目を開け、それから驚いた顔をする。
「え、なに……なんで、にやけてんの?」
「————!」
そうか、にやけてるか。自覚はあったがやっぱりそうかと、手で顔を半分覆いながら、先輩の遥か後ろへ視線を向けてみれば、眼鏡を捜しあてたらしい『彼』がようやくそこから逃げ出すところだった。
(おおっ、速い!)
可愛らしい顔と小柄な体格からは想像できなかったしなやかな走りに、つい見惚れる。
「集中しろっ!」
奏先輩に足を蹴られて、思わず笑い声が出た。
「ははははっ」
唐突に笑いだした俺に、さすがの奏先輩も一歩引く。
「え……壊れた?」
「いや大丈夫……大丈夫ですよ」
一度笑っておかなければ、ずっと顔が緩みっぱなしになりそうだったのだ。
それがわかったので、自分で回避した。
「ちゃんとやります」
もう一度奏先輩と向き合えば、さっき見た彼の顔が頭に浮かんでくる。
(うわ、ヤバいな……)
ここで会ったということは、楓寮の寮生なので、これから三年間一緒ということだ。
(どんな奴なんだろう、名前はなんて言うんだろう、友だちになれるだろうか)
こと最後に関しては、俺はかなりの自信を持っているけれど、見られたシーンがシーンだけに、どうだろう——。
頭の中は完全に雑念だらけなのに、カメラマンの先輩が「おっ、いいね、いい顔になった」と言う。
奏先輩が文句を言わないということは、それは本当だということ。
(仲良く……なれるといいな)
その気持ちが全身を満たしていたこの時の写真が、ポスターになって学校中に貼られまくったのがどれほど照れ臭かったか。
瞼の裏にくっきりと焼きついたあいつの顔と一緒に——ずっとずっと俺しか知らなくていい。
薄桃色の花びらを満開にまとった桜の樹を見上げ、「綺麗だ」と思った。
「どう? 今が一番いいでしょ? 今週末に雨が降ったら、きっと散っちゃうから」
隣に立つ奏先輩が自慢げに言うので、「そうですね」と答える。
「じゃあパパッと撮っちゃおうー」
「はい」
俺は頷いて、言われた場所に立つ。
演劇部の新入部員募集のポスター用として、写真の被写体になってほしいと中学時代の先輩である奏先輩に頼まれたのは、ついさっきのことだ。
明日の入学式を前に、一足先に寮へ入寮してきた俺を見かけ、「ちょうどいい!」と速攻捕まえに走ったらしい。
先輩が卒業してから実に一年ぶりの再会だったが、中学時代もかなり無理なお願いをされることが多かったので、懐かしく思いながら引き受けた。
欲しい画は、先輩がメインなので、カメラマンは俺の後ろにスタンバイする。
俺は先輩と向かい合って立ち、自分よりかなり低い位置にある肩に手を置き、身を屈めた。
(これくらいの位置なら、キスしてるように見えるのかな?)
ご要望は、桜の樹の下のロマンチックなキスシーンだ。
「キタ、遠い。もう少し屈んで」
顔を上向けて両目を瞑り、完璧に可愛いキス待ち顔をしているのに、先輩の可憐な唇から出てくるのは、ひどく事務的で的確な指示。
「……はい」
ギクシャクと顔を傾けて、距離を詰める。
「おっ、いいねー、いい感じ」
カメラマンの先輩は、プロのような声掛けでひたすら褒めて俺を乗せようとしてくれるけれど、相手役の奏先輩は容赦ない。
「いや、全然よくないでしょ。もっといい雰囲気出してよ。僕のこと好きで好きでたまらないみたいな」
「無茶言わないでください」
そうそうこの感じと、キツイダメ出しも懐かしく思いながら、少し表情を緩めてみた時、視線に気がついた。
(………ん?)
離れた場所から、俺たちの撮影を凝視している奴がいる。
サイズの合っていない真新しい制服。長めの髪に黒ぶち眼鏡。きっと俺と同じ新入生だろうが、こちらを見て凍りついたように立ち竦み、頬を真っ赤にしている。
(そうだよなー刺激が強いよなー)
入寮早々こんなシーンに出くわした彼が気の毒で、少し視線を動かして、寮の入り口へと誘導してみる。
(気にしないで行ってくれていいんだよ?)
俺の合図に気づいたらしく、そいつはあたふたとその場から退散しかけた。
しかし何をどうやったらそうなるのか、自らの足に引っ掛かって体のバランスを崩し、その場にドタンと尻もちをつく。
「…………っ」
笑ったら悪いと思いながらも、思わず吹き出しかけた。
「キタ?」
奏先輩が訝しげに俺の名前を呼ぶので、俺は「いかんいかん」と気を引き締めようとする。
だけど——。
春風にふわっと、そいつの長めの前髪が舞い上がった瞬間、他の全てがぽーんと頭から抜け落ちた。
(…………え?)
濡れたように真っ黒な大きな瞳。その目が少し潤んで、細い眉も困ったように下がる。遠目にもわかるほど頬が赤いが、小さな唇も同じ色をしていて、細くて真っ白な首や手との対比がエグイ。
(え、男……だよな?)
かなり小柄で華奢なので、ここが共学だったら判別に迷うところだが、宝翔学園は男子校だ。
転んだはずみで落ちた眼鏡を慌てて探しているそいつは、俺と同じ制服を着ている。
「かっ……」
思わず「可愛い」と声に出そうになり、慌てて手で口を覆った。
「キタぁ???」
俺の挙動に気づいた奏先輩が、怒りを滲ませた声を出しながら目を開け、それから驚いた顔をする。
「え、なに……なんで、にやけてんの?」
「————!」
そうか、にやけてるか。自覚はあったがやっぱりそうかと、手で顔を半分覆いながら、先輩の遥か後ろへ視線を向けてみれば、眼鏡を捜しあてたらしい『彼』がようやくそこから逃げ出すところだった。
(おおっ、速い!)
可愛らしい顔と小柄な体格からは想像できなかったしなやかな走りに、つい見惚れる。
「集中しろっ!」
奏先輩に足を蹴られて、思わず笑い声が出た。
「ははははっ」
唐突に笑いだした俺に、さすがの奏先輩も一歩引く。
「え……壊れた?」
「いや大丈夫……大丈夫ですよ」
一度笑っておかなければ、ずっと顔が緩みっぱなしになりそうだったのだ。
それがわかったので、自分で回避した。
「ちゃんとやります」
もう一度奏先輩と向き合えば、さっき見た彼の顔が頭に浮かんでくる。
(うわ、ヤバいな……)
ここで会ったということは、楓寮の寮生なので、これから三年間一緒ということだ。
(どんな奴なんだろう、名前はなんて言うんだろう、友だちになれるだろうか)
こと最後に関しては、俺はかなりの自信を持っているけれど、見られたシーンがシーンだけに、どうだろう——。
頭の中は完全に雑念だらけなのに、カメラマンの先輩が「おっ、いいね、いい顔になった」と言う。
奏先輩が文句を言わないということは、それは本当だということ。
(仲良く……なれるといいな)
その気持ちが全身を満たしていたこの時の写真が、ポスターになって学校中に貼られまくったのがどれほど照れ臭かったか。
瞼の裏にくっきりと焼きついたあいつの顔と一緒に——ずっとずっと俺しか知らなくていい。



