好きって言ったらキスしてくれる?

「ひとつ……お願いしてもいい?」

 お前の願いならなんだって叶えてやるよ! と、やけくそ気味の答えは心の中に留めて、俺はぶっきらぼうに返す。

「なんだよ」
「うん……」

 悠臣は俺を抱きしめていた手を解いて、肩に手を置いた。顔が近づいてくる気配がする。

「…………」

 緊張に思わず身を硬くしていると、こつんと頭に頭が軽く当たった。
 耳のすぐ近くで、悠臣の小さな声が聞こえる。

「名前で呼んでいい?」
「————!」

 それは、俺にとっては禁忌で、高校生活の間は絶対に封印しておくつもりだった。
 だけど、赤いスポーツカーに乗せてくれた麻美さん曰く「超ロマンチスト」の悠臣にとっては、とても意味のあることだとも知っている。
 自分の信念と、悠臣の気持ち。それを天秤に掛ければ、どちらを優先するかなんて、今の熱に浮かされた状態の俺にとっては、迷うことなく決まっている。

「いいよ、お前なら」

 俺の返事に息を呑んだ悠臣が、震える声で俺の名前を呼んだ。

「皆実」
「————!」

 その名前を呼ばれて、こんなに嬉しい気持ちになる日が来るなんて、想像したこともなかった。
 他の誰でも、こうはならない。悠臣だからだと胸を張って言えることが嬉しい。

「なんだよ、悠臣」

 同じような気持ちで、こいつも俺が呼ぶ自分の名前を聞いているのかな、なんて思っていると、嬉しそうに喉を鳴らして笑われる。
 顔を見なくても、きっと優しい笑顔なんだろうってことが想像できる。

「他の奴に真似されたくないから、他に人がいるところでは絶対呼ばない」

 何の決意表明だというようなことを、大真面目な声で言ってくるけれど、半分はきっと、極力名前で呼ばれたくない俺のためだ。そうわかる。

「この部屋の中だけにする」

 だったら悠臣が、みんなの前で自分の希望をきっぱり言い切って、守り抜いた同室の権利を、俺ももっと大切にしなければと思った。
 まちがってもこの部屋の外で、悠臣のことを好きだという気持ちが、他の寮生たちにダダ洩れになったりしてはいけない。

 それでは中谷と押上のように、同室解除になってしまう。
 あいつらはそれでも、お互いに向ける気持ちを他の奴らに示しておきたくて、言葉にすることを選んだ。

 でも俺は——俺たちは、この部屋の中でだけ呼べる名前を、俺だけが知っている悠臣の秘密を、一緒に育てている窓際の花を、大切にしたい。
 だからお互いに向ける感情を、他の奴には教えない。教えなくても、お互いだけは十分すぎるくらいわかっているつもりだ。

「…………」

 なんだか胸がいっぱいになって、(そうか、これが幸せってヤツか……)なんて考えている俺の耳元で、悠臣がまた囁く。

「今なら、ここなら、他に誰もいないから……フリじゃなくほんとに、キスしていい?」
「は?」

 思わず反射的に「いいわけないだろ!」と突っぱねてしまいそうになり、俺は慌てて口を噤む。
 照れて、恥ずかしがって、悠臣を押し退けても、後できっと後悔するだけだと自分でもわかる。
 だったら変な意地は心の奥に封じ込めて、素直に悠臣のペースに乗ってしまった方がいい。それがきっと最善だと、俺はよく知っている。

「い、いいけど……俺のことどう思ってるか……今だけ聞かせて」

 この部屋を出たら、お互いに絶対言葉にしない。その誓いは、卒業まで必ず守り通すつもりだけど、そういえばちゃんと聞いたことはなかったと思い、ついでに願ってみた。俺にしてはうまい交渉だなどと、満足に思っていた。
 だけど——。

「好きだ、皆実」
「—————!」

 どストレートに言われて、こんなに爆発しそうに心音が速くなるとはわかっていなかった。
 血液が身体の中を逆流しているみたいで、自分の心臓の音が頭いっぱいに鳴り響く。

(だめだ……倒れそう……)

 でも悠臣だって、瀕死の俺をそのまま放っておいてはくれない。

「そっちは? 俺のことどう思ってる?」
「————!」

 当然のように訊かれて、思わず顔を上げてしまった。
 あまりにも顔が赤すぎるだろうから、見られるのは恥ずかしいとか、きっとしまりのない顔をしているだろうから、悠臣には見せない方がいいとか、考えていたことは山ほどあったのに、すっかり頭から消し飛んでいた。

「俺は……」

 そこまではなんとか言えても、本当に苦しいくらいに心臓が暴れていて、大きく肩を上下させて必死に呼吸を継いでいる状態の俺を、悠臣の綺麗な瞳が覗きこむ。

「言ってくれたら、キスしてあげる」

(はあっ??)

 それじゃまるで、俺がねだって悠臣にキスしてもらおうとしてるみたいじゃないか。
 そうじゃない、絶対にそうじゃないのに、悠臣にだけ言わせて、自分は言わないのはフェアじゃないという謎のプライドが、俺を突き動かす。バカみたいな行動に出させてしまう。

「好き、だよ……悠臣」

 息も絶え絶えになりながら、なんとか言葉にした俺に、悠臣が唇を寄せる。
 それはほんのわずか、かすかに触れただけのキスだったけれど、完全に俺のキャパを越えた。
 バタンと仰向きに倒れ、本当だったら床に頭をぶつけるところが、ベッドの上にいたので寝転んだのと同じような状況で、特に怪我もなくてよかった——と、薄れる意識の中で俺が考えることが出来たのは、そこまで。

「え? ちょ……皆実? 皆実?」

 悠臣が俺の名前を連呼しているのを、くすぐったくも嬉しく遠くに聞きながら、俺は意識を手放した。
 そんな醜態が——俺の、大好きな悠臣とのファーストキスの記憶。