婚礼を終えた翌朝、沙羅が目を覚ました時、隣に周の姿はなかった。
障子の向こうから朝の光が透け、庭では鳥の声に混じって、使用人たちが行き交う足音が聞こえている。掛け布の向こう側には人の眠っていた名残があるものの、触れずとも分かるほど早く起きたらしく、沙羅が身体を起こして辺りを見回していると、廊下を歩いてきた侍女が障子の外から声をかけてきた。
「お目覚めでございますか、奥様」
聞き慣れない呼び方に、沙羅は寝台の上で動きを止めた。
昨日までは誰もが「お嬢様」と呼んでいたのだから無理もないのだろうが、自分とは関係のない人を呼んでいるように聞こえ、返事をする代わりに枕元の卓を二度叩いてから、昨夜のことを思い出す。
暗闇の中で周と決めた合図は、まだ彼との間でしか通じない。
沙羅は寝台を降りて障子を開けると、廊下に控えていた侍女へ頷いてみせた。
「旦那様でしたら、明け方にはお起きになって、庭に出ておられました」
帝の傍らで宮中を取り仕切る宮宰が、婚礼翌日の朝から何をしているのだろうと思いながら、沙羅は用意された紙に筆を走らせる。
『朝廷に行かれたのではないのですか』
「本日は昼前から登城されるとうかがっております。それまでは庭を見たいと仰いまして……」
侍女は言いにくそうに語尾を濁した。
沙羅が顔を見ると、どう説明すればよいのか迷っているらしい。
『何かございましたか』
「いえ、それが……庭師とお話を」
そこまで聞けば、おおよその想像はついた。
沙羅は紙と筆を持ったまま、朝の支度より先に縁側へ向かった。
庭には朝露が残っている。
志紋邸の庭は、華族の屋敷としては華美な造りではない。季節の花木を整然と並べるより、古くからそこにある木を残し、その合間へ新しいものを植え継いできたため、帝都の新しい邸宅に見られるような洗練とは別の趣がある。沙羅が生まれるより昔から枝を広げてきた椿もあれば、祖父の代に植えられた藤もあり、庭の奥には何代前の当主が植えたのか誰も知らない梔子が何株も残っていた。
その庭の中央で、周がしゃがみ込んでいる。
夜着ではなく普段着へ替えているものの、宮中へ上がる姿とは程遠く、袖を肘のあたりまで捲り、庭師と二人で低木の根元を覗き込んでいた。
「ですから、ここは枝を落としすぎない方がいい。日当たりだけを考えるなら今の形でも構わないが、この株は去年の枝にも花をつける種類だろう」
「承知しておりますよ、旦那様。三十年、この庭を見ておりますので」
「それなら、あの枝を切った理由を教えてほしい」
「風通しをよくするためです」
「しかし、ここまで落とせば今年の花数が減る」
「増やせばよいというものでもございません」
「花は多い方が嬉しいではないか」
「木は旦那様を喜ばせるためだけに生えているわけではございませんよ」
庭師は相手が昨日志紋家に入ったばかりの宮宰であることなど気にしていないらしく、腕を組んで周を見下ろしていた。
周も腹を立てる様子はなく、むしろ面白そうに枝を眺めている。
「なるほど。それは正しい」
「お分かりになったのなら、朝餉にお戻りください。奥様がお目覚めになる頃でしょう」
「沙羅ならもう起きているよ」
周が顔を上げた。庭師も振り返り、縁側に立っていた沙羅を見つけると、慌てて姿勢を正した。
「これは奥様、申し訳ございません。朝からお騒がせを」
沙羅が首を振ると、周は立ち上がり、衣服についた土を手で払いながら縁側まで歩いてきた。
「おはよう、沙羅。昨夜は眠れた?」
沙羅は頷いてから、持ってきた紙へ書く。
『おはようございます。旦那様は、いつから庭にいらっしゃるのですか』
「日の出より少し前かな」
『どうしてそのような時間から』
「目が覚めたから」
それだけでは理由になっていない気がした。
沙羅が続けて問いを記すより先に、庭師が後ろから口を挟む。
「こちらへ来られた時には、すでに梔子の根元を調べておられましたよ。旦那様、初日から根を掘り返すような真似だけはなさらないでくださいませ」
「掘らないよ。見ていただけだ」
「その次には椿の枝振りをご覧になり、その次は藤棚の土が硬いと仰いました」
「硬かっただろう?」
「話を逸らさないでください」
沙羅は二人を交互に見た。
周が花を好きなのは知っていたものの、花を眺めることが好きなだけではないらしい。土の状態から剪定の時期まで庭師と話せるのなら、本人が言っていた「自分で育てた」という言葉も、貴族の趣味として人に世話をさせたという意味ではなかったのだろう。
「織部家には僕の庭があったんだ」
沙羅の考えを察したわけではないだろうが、周は庭へ視線を戻しながら言った。
「小さな頃から好き勝手に植えていたら、いつの間にか父が僕の区画として諦めてくれた。もっとも、珍しい苗を持ち込むたびに、庭師からはずいぶん嫌がられたけれど」
『こちらへ来る時、置いてこられたのですか』
「持ってこられるものはいくつか運ばせたよ。ただ、木まで引き抜くわけにはいかないからね。兄が面倒を見てくれると言っていた」
長く暮らした家を出て、自分のために育ててきた庭まで置いてきたのだと、その時になって沙羅は気づいた。
周が婿に入ることは、家名が変わるというだけではない。織部家で暮らしてきた二十七年の生活を手放し、志紋家を自分の家にするということだった。
それを惜しいと思わなかったのかと尋ねかけて、沙羅は筆を止める。
今はまだ聞かない方がよい気がした。昨夜、周が自分にしたように、知りたいことを何でも聞けばいいわけではないのだろう。
沙羅が紙から顔を上げると、周は庭の向こうを見ていた。
「それに、こちらの庭も面白いよ。何年生きているのか分からない木ばかりだし、手を入れすぎていないところがいい。全部を僕の好みに変えるつもりはないから安心して」
沙羅の視線に気づいたわけではないだろうが、周は庭を見渡してから言った。
「ここは志紋家の庭だろう。僕は昨日から住み始めたばかりなのだから、まずは知らなければならない」
それから庭師へ向かって、「というわけで、よろしく頼むよ」と笑った。
「こちらこそお願いいたします。ただし、剪定については私の言うこともお聞きください」
「もちろん。納得できればね」
「そこを最初から納得してくださいませ」
庭師の声を聞きながら、沙羅は口元に手を当てた。
新しい主人を迎えたというより、厄介な弟子を一人押しつけられたようにしか見えなかった。
障子の向こうから朝の光が透け、庭では鳥の声に混じって、使用人たちが行き交う足音が聞こえている。掛け布の向こう側には人の眠っていた名残があるものの、触れずとも分かるほど早く起きたらしく、沙羅が身体を起こして辺りを見回していると、廊下を歩いてきた侍女が障子の外から声をかけてきた。
「お目覚めでございますか、奥様」
聞き慣れない呼び方に、沙羅は寝台の上で動きを止めた。
昨日までは誰もが「お嬢様」と呼んでいたのだから無理もないのだろうが、自分とは関係のない人を呼んでいるように聞こえ、返事をする代わりに枕元の卓を二度叩いてから、昨夜のことを思い出す。
暗闇の中で周と決めた合図は、まだ彼との間でしか通じない。
沙羅は寝台を降りて障子を開けると、廊下に控えていた侍女へ頷いてみせた。
「旦那様でしたら、明け方にはお起きになって、庭に出ておられました」
帝の傍らで宮中を取り仕切る宮宰が、婚礼翌日の朝から何をしているのだろうと思いながら、沙羅は用意された紙に筆を走らせる。
『朝廷に行かれたのではないのですか』
「本日は昼前から登城されるとうかがっております。それまでは庭を見たいと仰いまして……」
侍女は言いにくそうに語尾を濁した。
沙羅が顔を見ると、どう説明すればよいのか迷っているらしい。
『何かございましたか』
「いえ、それが……庭師とお話を」
そこまで聞けば、おおよその想像はついた。
沙羅は紙と筆を持ったまま、朝の支度より先に縁側へ向かった。
庭には朝露が残っている。
志紋邸の庭は、華族の屋敷としては華美な造りではない。季節の花木を整然と並べるより、古くからそこにある木を残し、その合間へ新しいものを植え継いできたため、帝都の新しい邸宅に見られるような洗練とは別の趣がある。沙羅が生まれるより昔から枝を広げてきた椿もあれば、祖父の代に植えられた藤もあり、庭の奥には何代前の当主が植えたのか誰も知らない梔子が何株も残っていた。
その庭の中央で、周がしゃがみ込んでいる。
夜着ではなく普段着へ替えているものの、宮中へ上がる姿とは程遠く、袖を肘のあたりまで捲り、庭師と二人で低木の根元を覗き込んでいた。
「ですから、ここは枝を落としすぎない方がいい。日当たりだけを考えるなら今の形でも構わないが、この株は去年の枝にも花をつける種類だろう」
「承知しておりますよ、旦那様。三十年、この庭を見ておりますので」
「それなら、あの枝を切った理由を教えてほしい」
「風通しをよくするためです」
「しかし、ここまで落とせば今年の花数が減る」
「増やせばよいというものでもございません」
「花は多い方が嬉しいではないか」
「木は旦那様を喜ばせるためだけに生えているわけではございませんよ」
庭師は相手が昨日志紋家に入ったばかりの宮宰であることなど気にしていないらしく、腕を組んで周を見下ろしていた。
周も腹を立てる様子はなく、むしろ面白そうに枝を眺めている。
「なるほど。それは正しい」
「お分かりになったのなら、朝餉にお戻りください。奥様がお目覚めになる頃でしょう」
「沙羅ならもう起きているよ」
周が顔を上げた。庭師も振り返り、縁側に立っていた沙羅を見つけると、慌てて姿勢を正した。
「これは奥様、申し訳ございません。朝からお騒がせを」
沙羅が首を振ると、周は立ち上がり、衣服についた土を手で払いながら縁側まで歩いてきた。
「おはよう、沙羅。昨夜は眠れた?」
沙羅は頷いてから、持ってきた紙へ書く。
『おはようございます。旦那様は、いつから庭にいらっしゃるのですか』
「日の出より少し前かな」
『どうしてそのような時間から』
「目が覚めたから」
それだけでは理由になっていない気がした。
沙羅が続けて問いを記すより先に、庭師が後ろから口を挟む。
「こちらへ来られた時には、すでに梔子の根元を調べておられましたよ。旦那様、初日から根を掘り返すような真似だけはなさらないでくださいませ」
「掘らないよ。見ていただけだ」
「その次には椿の枝振りをご覧になり、その次は藤棚の土が硬いと仰いました」
「硬かっただろう?」
「話を逸らさないでください」
沙羅は二人を交互に見た。
周が花を好きなのは知っていたものの、花を眺めることが好きなだけではないらしい。土の状態から剪定の時期まで庭師と話せるのなら、本人が言っていた「自分で育てた」という言葉も、貴族の趣味として人に世話をさせたという意味ではなかったのだろう。
「織部家には僕の庭があったんだ」
沙羅の考えを察したわけではないだろうが、周は庭へ視線を戻しながら言った。
「小さな頃から好き勝手に植えていたら、いつの間にか父が僕の区画として諦めてくれた。もっとも、珍しい苗を持ち込むたびに、庭師からはずいぶん嫌がられたけれど」
『こちらへ来る時、置いてこられたのですか』
「持ってこられるものはいくつか運ばせたよ。ただ、木まで引き抜くわけにはいかないからね。兄が面倒を見てくれると言っていた」
長く暮らした家を出て、自分のために育ててきた庭まで置いてきたのだと、その時になって沙羅は気づいた。
周が婿に入ることは、家名が変わるというだけではない。織部家で暮らしてきた二十七年の生活を手放し、志紋家を自分の家にするということだった。
それを惜しいと思わなかったのかと尋ねかけて、沙羅は筆を止める。
今はまだ聞かない方がよい気がした。昨夜、周が自分にしたように、知りたいことを何でも聞けばいいわけではないのだろう。
沙羅が紙から顔を上げると、周は庭の向こうを見ていた。
「それに、こちらの庭も面白いよ。何年生きているのか分からない木ばかりだし、手を入れすぎていないところがいい。全部を僕の好みに変えるつもりはないから安心して」
沙羅の視線に気づいたわけではないだろうが、周は庭を見渡してから言った。
「ここは志紋家の庭だろう。僕は昨日から住み始めたばかりなのだから、まずは知らなければならない」
それから庭師へ向かって、「というわけで、よろしく頼むよ」と笑った。
「こちらこそお願いいたします。ただし、剪定については私の言うこともお聞きください」
「もちろん。納得できればね」
「そこを最初から納得してくださいませ」
庭師の声を聞きながら、沙羅は口元に手を当てた。
新しい主人を迎えたというより、厄介な弟子を一人押しつけられたようにしか見えなかった。



