「安心して眠ってくれ。僕は向こう側で寝るから、君はこっちを使えばいい」
周が寝台の片側を指し、自分は反対側へ移るらしい。
沙羅は紙へ、『ありがとうございます』と書く。
「礼を言われるようなことではないよ」
周はそれ以上何も付け加えなかった。
やがて二人で寝台へ入り、互いに距離を取ったまま掛け布を整える。
部屋には灯りがついたままだった。
沙羅はしばらく目を閉じていたが、瞼の裏まで薄く明るく、どうにも眠れそうにない。何度か身体の向きを変えた末に起き上がると、周も気づいてこちらを見た。
「どうした?」
寝台脇の卓へ手を伸ばし、紙を引き寄せる。
『灯りを消してください』
周は紙を読むと、何故か不思議そうに首を傾げた。
「何故?」
『眠れません』
「僕は眠れるよ」
沙羅は筆を持ったまま周を見る。
どうやら冗談ではないらしい。
『私は眠れません』
「ああ、君が」
そこまで聞いて、沙羅は本当にこの人が宮宰なのだろうかと思った。
昼間は帝の名代を前に一つの作法も違えず、華族や軍人たちを相手に何の気後れも見せなかった男が、今は自分でも驚くほど簡単なことを取り違えている。
「分かった。では消そう」
周は寝台を降りて灯りへ近づき、火を落とした。
部屋が闇へ沈み、窓から差し込む月明かりだけが床へ淡く広がる。先ほどまで見えていた家具の輪郭も曖昧になり、沙羅はこれなら眠れそうだと思いながら再び横になった。
ところが目を閉じてほどなく、瞼の向こうへ再び明るさが戻ってくる。
沙羅が目を開けると、消したはずの灯りがついていた。
周は何事もなかったような顔で寝台へ戻ってくる。
沙羅はゆっくり身体を起こした。
「どうした?」
こちらが何故起きたのか、本当に分かっていないらしい。
沙羅は卓から紙を取り、今度は先ほどより少し強く筆を走らせる。
『何故ですか』
「何が?」
『灯りです』
「ああ」
周は灯火を見た。
「消したら君の顔が見えなくなった」
沙羅はしばらく彼を見つめたあと、紙に次の一行を加える。
『眠るのですから、見る必要はございません』
「ある」
『ありません』
「あるとも」
周は譲らず、沙羅も紙を置く気にはなれなかった。
『私は暗くしなければ眠れません』
「少し暗くするのは?」
『消してください』
「月明かりくらいなら?」
『それは構いません』
「灯火だけが駄目?」
『はい』
周はそこで初めて考えるように灯りへ目を向け、それから沙羅へ戻した。
「なるほど」
『ですから、消してください』
今度は余計なことを言わず、周は頷いた。
「分かった」
再び灯りが消え、部屋は月明かりだけの暗さへ戻る。
沙羅はしばらく待ってみたが、今度は周が火を点け直す気配もなく、ようやく横になろうとしたところで、暗闇の向こうから名前を呼ばれた。
「沙羅、起きている?」
紙へ書こうにも、もう文字は読めない。
返事の代わりに掛け布の上へ置いた手を動かすと、布の擦れる音がして、周がそれを拾った。
「起きているね」
それだけで通じたことに、沙羅は少し驚く。
「さっきは悪かった。君が本当に嫌がっているのに、少しふざけすぎた」
暗い部屋では、周の顔もよく見えない。それでも声の調子から、先ほどのように面白がっているわけではないことは分かった。
「嫌なものは嫌だと言ってくれて構わない。僕は自分では察しがいい方だと思っているけれど、君についてはまだ知らないことの方が多いし、知っているふりをするつもりもないからね」
沙羅は目を開けたまま聞いていた。
昼間の周を思い出す。
帝の名代を前にして一つも作法を違えなかった男も、朝霧景や南雲宵と気安く言い合っていた男も、父や兄から呆れられていた男も、今こうして暗闇の中で沙羅に謝っている男も、すべて同じ周なのだろう。
「僕には君の声が聞こえない。だからこそ、分かったふりだけはしたくないんだ。嫌だと思った時は嫌だと教えてくれた方が、僕にはありがたい」
顔合わせのあと、周は沙羅に一つだけ頼んだ。伝えることを諦めないでほしい、と。
今日も言っていることは同じだった。
声を出してほしいとは、一度も言わない。代わりに、自分へ伝えてほしいと繰り返す。
暗闇では紙も筆も使えないが、それでも何も伝えられないわけではない。
沙羅は手を伸ばし、二人の間へ広がる掛け布の中ほどを指先で二度叩いた。
とん、とん。
「何だろう」
沙羅はもう一度、同じ間隔で布を二度叩いた。
「二回?」
今度は一度だけ叩く。
「……今のが、はい?」
もう一度、一度だけ。
周が少し考えてから手を動かす。
「では、二回がいいえ?」
一度。
「なるほど。これは便利だ」
感心している周の声を聞きながら、沙羅も同じことを思っていた。
暗い場所でも伝えられる。筆も紙もなく、互いの顔さえよく見えないのに、意思は届く。
「試してもいい?」
沙羅は一度叩いた。
「今日は疲れた?」
一度。
「僕との婚礼は嫌だった?」
指が止まった。
先ほどまでとは質問の重さが違う。
暗闇だからこそ聞いたのかもしれない。
互いの表情が見えないため、どんな顔で答え、どんな顔で受け取るのかを知らずに済む。
婚姻そのものが怖くなかったとは言えないし、この先どうなるかも分からない。
それでも、今日一日を振り返った時、嫌だったという二文字だけは自分の中に見つからなかった。
沙羅が布を二度叩いても周はすぐには何も言わず、聞こえなかったのかと思ってもう一度同じように合図すると、少し間を置いて声が返ってきた。
「そうか。よかった」
それからしばらく、二人の間には庭から届く葉擦れと虫の声だけが流れた。
沙羅は目を閉じる。
「沙羅」
もう一度名前を呼ばれ、手を一度だけ動かす。
「おやすみ」
沙羅は指先を掛け布に置いたまま考えた。
一度では「はい」になり、二度では「いいえ」になってしまう。
そこで一度も二度も使わず、少し間を変えて三度叩いてみた。
とん、とん、とん。
「それは何?」
沙羅は答えられない。
暗くて書くこともできないため、そのまま黙っていると、周は追及せず、面白そうに笑った気配だけを残した。
「では、明日教えてもらおう」
沙羅は目を閉じたまま、もう一度だけ三度叩く。
おやすみなさい。ただそれだけのことを伝えるために、今夜は声も文字も要らなかった。
周が寝台の片側を指し、自分は反対側へ移るらしい。
沙羅は紙へ、『ありがとうございます』と書く。
「礼を言われるようなことではないよ」
周はそれ以上何も付け加えなかった。
やがて二人で寝台へ入り、互いに距離を取ったまま掛け布を整える。
部屋には灯りがついたままだった。
沙羅はしばらく目を閉じていたが、瞼の裏まで薄く明るく、どうにも眠れそうにない。何度か身体の向きを変えた末に起き上がると、周も気づいてこちらを見た。
「どうした?」
寝台脇の卓へ手を伸ばし、紙を引き寄せる。
『灯りを消してください』
周は紙を読むと、何故か不思議そうに首を傾げた。
「何故?」
『眠れません』
「僕は眠れるよ」
沙羅は筆を持ったまま周を見る。
どうやら冗談ではないらしい。
『私は眠れません』
「ああ、君が」
そこまで聞いて、沙羅は本当にこの人が宮宰なのだろうかと思った。
昼間は帝の名代を前に一つの作法も違えず、華族や軍人たちを相手に何の気後れも見せなかった男が、今は自分でも驚くほど簡単なことを取り違えている。
「分かった。では消そう」
周は寝台を降りて灯りへ近づき、火を落とした。
部屋が闇へ沈み、窓から差し込む月明かりだけが床へ淡く広がる。先ほどまで見えていた家具の輪郭も曖昧になり、沙羅はこれなら眠れそうだと思いながら再び横になった。
ところが目を閉じてほどなく、瞼の向こうへ再び明るさが戻ってくる。
沙羅が目を開けると、消したはずの灯りがついていた。
周は何事もなかったような顔で寝台へ戻ってくる。
沙羅はゆっくり身体を起こした。
「どうした?」
こちらが何故起きたのか、本当に分かっていないらしい。
沙羅は卓から紙を取り、今度は先ほどより少し強く筆を走らせる。
『何故ですか』
「何が?」
『灯りです』
「ああ」
周は灯火を見た。
「消したら君の顔が見えなくなった」
沙羅はしばらく彼を見つめたあと、紙に次の一行を加える。
『眠るのですから、見る必要はございません』
「ある」
『ありません』
「あるとも」
周は譲らず、沙羅も紙を置く気にはなれなかった。
『私は暗くしなければ眠れません』
「少し暗くするのは?」
『消してください』
「月明かりくらいなら?」
『それは構いません』
「灯火だけが駄目?」
『はい』
周はそこで初めて考えるように灯りへ目を向け、それから沙羅へ戻した。
「なるほど」
『ですから、消してください』
今度は余計なことを言わず、周は頷いた。
「分かった」
再び灯りが消え、部屋は月明かりだけの暗さへ戻る。
沙羅はしばらく待ってみたが、今度は周が火を点け直す気配もなく、ようやく横になろうとしたところで、暗闇の向こうから名前を呼ばれた。
「沙羅、起きている?」
紙へ書こうにも、もう文字は読めない。
返事の代わりに掛け布の上へ置いた手を動かすと、布の擦れる音がして、周がそれを拾った。
「起きているね」
それだけで通じたことに、沙羅は少し驚く。
「さっきは悪かった。君が本当に嫌がっているのに、少しふざけすぎた」
暗い部屋では、周の顔もよく見えない。それでも声の調子から、先ほどのように面白がっているわけではないことは分かった。
「嫌なものは嫌だと言ってくれて構わない。僕は自分では察しがいい方だと思っているけれど、君についてはまだ知らないことの方が多いし、知っているふりをするつもりもないからね」
沙羅は目を開けたまま聞いていた。
昼間の周を思い出す。
帝の名代を前にして一つも作法を違えなかった男も、朝霧景や南雲宵と気安く言い合っていた男も、父や兄から呆れられていた男も、今こうして暗闇の中で沙羅に謝っている男も、すべて同じ周なのだろう。
「僕には君の声が聞こえない。だからこそ、分かったふりだけはしたくないんだ。嫌だと思った時は嫌だと教えてくれた方が、僕にはありがたい」
顔合わせのあと、周は沙羅に一つだけ頼んだ。伝えることを諦めないでほしい、と。
今日も言っていることは同じだった。
声を出してほしいとは、一度も言わない。代わりに、自分へ伝えてほしいと繰り返す。
暗闇では紙も筆も使えないが、それでも何も伝えられないわけではない。
沙羅は手を伸ばし、二人の間へ広がる掛け布の中ほどを指先で二度叩いた。
とん、とん。
「何だろう」
沙羅はもう一度、同じ間隔で布を二度叩いた。
「二回?」
今度は一度だけ叩く。
「……今のが、はい?」
もう一度、一度だけ。
周が少し考えてから手を動かす。
「では、二回がいいえ?」
一度。
「なるほど。これは便利だ」
感心している周の声を聞きながら、沙羅も同じことを思っていた。
暗い場所でも伝えられる。筆も紙もなく、互いの顔さえよく見えないのに、意思は届く。
「試してもいい?」
沙羅は一度叩いた。
「今日は疲れた?」
一度。
「僕との婚礼は嫌だった?」
指が止まった。
先ほどまでとは質問の重さが違う。
暗闇だからこそ聞いたのかもしれない。
互いの表情が見えないため、どんな顔で答え、どんな顔で受け取るのかを知らずに済む。
婚姻そのものが怖くなかったとは言えないし、この先どうなるかも分からない。
それでも、今日一日を振り返った時、嫌だったという二文字だけは自分の中に見つからなかった。
沙羅が布を二度叩いても周はすぐには何も言わず、聞こえなかったのかと思ってもう一度同じように合図すると、少し間を置いて声が返ってきた。
「そうか。よかった」
それからしばらく、二人の間には庭から届く葉擦れと虫の声だけが流れた。
沙羅は目を閉じる。
「沙羅」
もう一度名前を呼ばれ、手を一度だけ動かす。
「おやすみ」
沙羅は指先を掛け布に置いたまま考えた。
一度では「はい」になり、二度では「いいえ」になってしまう。
そこで一度も二度も使わず、少し間を変えて三度叩いてみた。
とん、とん、とん。
「それは何?」
沙羅は答えられない。
暗くて書くこともできないため、そのまま黙っていると、周は追及せず、面白そうに笑った気配だけを残した。
「では、明日教えてもらおう」
沙羅は目を閉じたまま、もう一度だけ三度叩く。
おやすみなさい。ただそれだけのことを伝えるために、今夜は声も文字も要らなかった。



