婚礼の儀が始まると、広間の空気はそれまでとは別のものに変わった。
古い家の婚姻には、それに相応しい古い作法が残っている。
沙羅と周は帝の名代の前へ進み、両家の名を記した書を納め、同じ杯へ口をつけた。何代も前から繰り返されてきた儀礼だと聞いていたが、自分がその中心に座っていることには最後まで馴染めず、沙羅は教えられた順序を一つずつ確かめながら手を動かしていく。
隣にいる周は、一度も手順を違えなかった。
宮宰として宮中儀礼を取り仕切る立場なのだから当然なのだろう。それでも杯を取る手にも、礼をする角度にも迷いがなく、先ほどまで景や宵と言い合っていた時の気安さはすっかり影を潜めている。
沙羅は横目で彼を見る。
周は前を向いたまま、最後まで儀礼に意識を向けていた。
その姿を眺めていると、この婚姻を選んだのが本当にこの人なのだという事実が、時間をかけて現実のものへ変わっていく。
家の都合だけではなく、帝に命じられたからでもない。周自身が志紋家へ入り、沙羅の夫になることを選んだ。
その理由を、沙羅はまだ聞いていない。尋ねていいものかどうかも分からなかったが、今すぐ知る必要はないようにも思えた。
儀礼の最後に両家の当主が一礼し、婚姻が正式に成立したことが告げられると、周が沙羅の方へ少しだけ顔を向けた。
「これで夫婦だね」
周囲には届かないほど抑えた声だった。
沙羅が彼を見ると、今度はほんの少しだけ口元を緩める。
「よろしく、沙羅」
紙も筆も持っていないため、沙羅は返事の代わりに頷いた。
それだけで受け取った周の目元が和らぎ、その顔を見ているうちに、沙羅は今日という日を怖いだけのものとして終えずに済みそうな気がした。
夜になり、客人たちが帰ったあと、屋敷は昼間の賑わいが嘘のように落ち着きを取り戻していた。
人の声と足音が絶えなかった廊下には灯りだけが残り、開けられた窓からは、夜露を含んだ土と草の匂いが入り込んでくる。
沙羅は寝間着へ着替え、自室とは別に整えられた夫婦の寝室へ向かった。
戸口の前で足が止まる。婚礼の夜が何を意味するのか、知らないわけではない。
華族の娘として必要な知識は教えられているし、婚礼を迎えるにあたって侍女からも改めて説明を受けた。けれど知識として理解していることと、それが自分の身に起こることのあいだには埋めがたい隔たりがあり、しかも相手は知り合ってまだひと月も経たない男である。
襖へかけた指に力を込め、中へ入った。
周はすでに寝室へ来ており、昼間の礼装からくつろいだ夜着に替え、長い髪も解いて肩から背へ流していた。
「来たね。今日は疲れただろう」
沙羅は頷き、用意されていた卓の前へ腰を下ろす。
そこには紙と筆が置かれていた。
見慣れたものがあるだけで、張りつめていた気持ちが少しほどける。
『周様も、お疲れでしょう』
「僕はこういう儀式には慣れているからね。自分が主役になるのは初めてだったけれど」
沙羅は今日の広間を思い出し、続けて筆を動かす。
『皆様と親しくしておられるのですね』
「景と宵のことかな」
頷くと、周は少し身体を楽にして卓へ肘をついた。
「子どもの頃から知っているよ。家同士の付き合いもあったし、今も何だかんだで顔を合わせる。景とはよく飲むし、宵も誘えば来る」
そこで何か思い出したらしく、少し考えてから付け加える。
「もっとも、宵は誘っていない時でも来るけれど」
沙羅は今日の宵を思い返し、なるほどと思った。
「景は昔からあの調子だし、宵も昔からああだからね。僕だけが常識人として苦労してきた」
沙羅はすぐに筆を取る。
『それは違うと思います』
「何故?」
『皆様のお話を聞く限りでは』
「沙羅まで景たちの味方をするのかい?」
周は本気で不思議そうだった。
少し迷った末、沙羅はさらに一行を加える。
『お父上も、兄上様も、同じご意見のようでした』
周はしばらく紙を眺めてから、悲壮と呼ぶには少し大げさな顔で天井を仰いだ。
「僕の家族は、どうして誰も僕を理解してくれないんだろう」
その言い方がおかしく、沙羅は堪えきれず声のない笑いをこぼした。
肩が小さく揺れる。
周はすぐに気づき、驚いたように目を見開いた。
「今、笑ったね」
沙羅は反射的に顔を戻したが、否定することもできず、仕方なく紙へ、『少しだけです』と記す。
「少しでも構わない」
周は妙に嬉しそうだった。
沙羅はその顔を見ないふりをして筆を置き、ふと寝台の方へ目を向ける。
寝台は一つしかなく、夫婦なのだから同じ場所で眠るためにこの部屋が整えられているのだと分かっていても、目にした途端、先ほどまで周の家族や友人の話で忘れていた緊張が戻り、沙羅は無意識に指先を握った。
周もその視線の先に気づいたらしい。
「ああ、先に言っておくけれど、今日は何もしないよ」
沙羅が顔を上げると、周は寝台ではなく沙羅を見ている。
「疲れているだろうし、僕たちはまだ互いをよく知らない。夫婦になったからといって、今夜から何もかも急に変えなければならない理由もないからね」
気負ったところのない口調だった。
だからこそ、昼間の儀礼よりも今の方が、自分たちが本当に夫婦になったことを感じさせた。
古い家の婚姻には、それに相応しい古い作法が残っている。
沙羅と周は帝の名代の前へ進み、両家の名を記した書を納め、同じ杯へ口をつけた。何代も前から繰り返されてきた儀礼だと聞いていたが、自分がその中心に座っていることには最後まで馴染めず、沙羅は教えられた順序を一つずつ確かめながら手を動かしていく。
隣にいる周は、一度も手順を違えなかった。
宮宰として宮中儀礼を取り仕切る立場なのだから当然なのだろう。それでも杯を取る手にも、礼をする角度にも迷いがなく、先ほどまで景や宵と言い合っていた時の気安さはすっかり影を潜めている。
沙羅は横目で彼を見る。
周は前を向いたまま、最後まで儀礼に意識を向けていた。
その姿を眺めていると、この婚姻を選んだのが本当にこの人なのだという事実が、時間をかけて現実のものへ変わっていく。
家の都合だけではなく、帝に命じられたからでもない。周自身が志紋家へ入り、沙羅の夫になることを選んだ。
その理由を、沙羅はまだ聞いていない。尋ねていいものかどうかも分からなかったが、今すぐ知る必要はないようにも思えた。
儀礼の最後に両家の当主が一礼し、婚姻が正式に成立したことが告げられると、周が沙羅の方へ少しだけ顔を向けた。
「これで夫婦だね」
周囲には届かないほど抑えた声だった。
沙羅が彼を見ると、今度はほんの少しだけ口元を緩める。
「よろしく、沙羅」
紙も筆も持っていないため、沙羅は返事の代わりに頷いた。
それだけで受け取った周の目元が和らぎ、その顔を見ているうちに、沙羅は今日という日を怖いだけのものとして終えずに済みそうな気がした。
夜になり、客人たちが帰ったあと、屋敷は昼間の賑わいが嘘のように落ち着きを取り戻していた。
人の声と足音が絶えなかった廊下には灯りだけが残り、開けられた窓からは、夜露を含んだ土と草の匂いが入り込んでくる。
沙羅は寝間着へ着替え、自室とは別に整えられた夫婦の寝室へ向かった。
戸口の前で足が止まる。婚礼の夜が何を意味するのか、知らないわけではない。
華族の娘として必要な知識は教えられているし、婚礼を迎えるにあたって侍女からも改めて説明を受けた。けれど知識として理解していることと、それが自分の身に起こることのあいだには埋めがたい隔たりがあり、しかも相手は知り合ってまだひと月も経たない男である。
襖へかけた指に力を込め、中へ入った。
周はすでに寝室へ来ており、昼間の礼装からくつろいだ夜着に替え、長い髪も解いて肩から背へ流していた。
「来たね。今日は疲れただろう」
沙羅は頷き、用意されていた卓の前へ腰を下ろす。
そこには紙と筆が置かれていた。
見慣れたものがあるだけで、張りつめていた気持ちが少しほどける。
『周様も、お疲れでしょう』
「僕はこういう儀式には慣れているからね。自分が主役になるのは初めてだったけれど」
沙羅は今日の広間を思い出し、続けて筆を動かす。
『皆様と親しくしておられるのですね』
「景と宵のことかな」
頷くと、周は少し身体を楽にして卓へ肘をついた。
「子どもの頃から知っているよ。家同士の付き合いもあったし、今も何だかんだで顔を合わせる。景とはよく飲むし、宵も誘えば来る」
そこで何か思い出したらしく、少し考えてから付け加える。
「もっとも、宵は誘っていない時でも来るけれど」
沙羅は今日の宵を思い返し、なるほどと思った。
「景は昔からあの調子だし、宵も昔からああだからね。僕だけが常識人として苦労してきた」
沙羅はすぐに筆を取る。
『それは違うと思います』
「何故?」
『皆様のお話を聞く限りでは』
「沙羅まで景たちの味方をするのかい?」
周は本気で不思議そうだった。
少し迷った末、沙羅はさらに一行を加える。
『お父上も、兄上様も、同じご意見のようでした』
周はしばらく紙を眺めてから、悲壮と呼ぶには少し大げさな顔で天井を仰いだ。
「僕の家族は、どうして誰も僕を理解してくれないんだろう」
その言い方がおかしく、沙羅は堪えきれず声のない笑いをこぼした。
肩が小さく揺れる。
周はすぐに気づき、驚いたように目を見開いた。
「今、笑ったね」
沙羅は反射的に顔を戻したが、否定することもできず、仕方なく紙へ、『少しだけです』と記す。
「少しでも構わない」
周は妙に嬉しそうだった。
沙羅はその顔を見ないふりをして筆を置き、ふと寝台の方へ目を向ける。
寝台は一つしかなく、夫婦なのだから同じ場所で眠るためにこの部屋が整えられているのだと分かっていても、目にした途端、先ほどまで周の家族や友人の話で忘れていた緊張が戻り、沙羅は無意識に指先を握った。
周もその視線の先に気づいたらしい。
「ああ、先に言っておくけれど、今日は何もしないよ」
沙羅が顔を上げると、周は寝台ではなく沙羅を見ている。
「疲れているだろうし、僕たちはまだ互いをよく知らない。夫婦になったからといって、今夜から何もかも急に変えなければならない理由もないからね」
気負ったところのない口調だった。
だからこそ、昼間の儀礼よりも今の方が、自分たちが本当に夫婦になったことを感じさせた。



