婚礼の儀は、志紋邸の奥にある広間で執り行われた。
志紋家の血筋を考えれば宮中で行うこともできたそうだが、沙羅が大勢の前へ出ることを好まないため、周の方から志紋邸で構わないと申し出たらしい。招かれたのも両家の近しい親族と帝の名代を務める者たち、あとは周と長く付き合いのある、ごく限られた人間だけだった。
広間へ足を踏み入れた沙羅は、最初に周の姿を見つける。
濃い色の礼装に身を包み、長い髪も今日はいつも以上に丁寧に整えられている。もともとの容貌が華やかなため、飾りを重ねずとも人目を引くことに変わりはなかったが、立ち姿にも所作にも隙がなく、顔合わせの日に花束を抱えて現れた男と同じ人物だと知らなければ、近づきがたいと感じたかもしれない。
けれど沙羅が広間に入るなり、周はそれまで崩さなかった端正な表情をあっさり失い、目を見開いて何か言いかけたところを、隣にいた年嵩の男性から間を置かず腕を掴まれた。
「周」
低く呼ばれ、周が不満そうにそちらを向く。
「何です、父上」
「今日だけは黙っていなさい」
「まだ何も言っていませんよ」
「言おうとしただろう」
「褒めようとしただけです」
「それが心配なのだ」
どうやら周の父らしい。息子ほど華やかな顔立ちではないものの、眉や目元には似たところがあり、立っているだけで名門の当主らしい落ち着きが伝わってくる。それでも今だけは、息子が何を口にするか気が気ではないらしく、周の腕を離したあともこめかみを押さえていた。
その隣では、もう一人の男性が楽しそうに笑っている。周よりいくらか年上に見え、柔らかな目元をした端正な人物で、紹介される前から兄なのだろうと察しがついた。
「父上、今日はさすがに周も大丈夫でしょう」
「お前は昔から弟に甘い」
「そうでしょうか」
「そうだ」
周の兄らしい男は困ったように笑いながら周を見ると、今度は自分が彼の肩へ手を置いた。
「ただ、今のは父上が正しいと思うよ。せめて儀式が終わるまでは黙っていなさい」
「兄上まで」
不満を隠さない周を見ているうちに、沙羅は先ほどまで身体に残っていた緊張が少し薄れたことに気づく。
その時、広間の奥から呆れたような声が聞こえた。
「相変わらずだな」
振り向けば、軍服を纏った背の高い男が立っている。姿勢も顔立ちも鋭く、周とは異なる種類の近寄りがたさがあったが、沙羅でも名を知っている人物だった。
その軍人こそ、朝霧景だった。帝国軍少将にして朝霧家の当主であり、その傍らには落ち着いた佇まいの女性が立っている。
「景、今日は友人の婚礼なのだから、もう少し祝福しているような顔をしてくれてもいいだろう」
周が言えば、景は眉ひとつ動かさない。
「している」
「どこが?」
「来ただろう」
「それだけ?」
「十分だ」
それ以上取り合うつもりはないらしく、景は隣の女性へ何か言葉をかける。
すると別の場所から笑い声が聞こえ、今度は黒を基調とした装いの男が、面白そうにこちらを見ていた。
「周、朝霧に愛想を求める方が間違っているよ」
白い肌に整った面差しは、周とも景とも似ていない。
もう一人は、南雲宵だった。軍府の陰陽寮を束ねる南雲家の当主だと、沙羅は以前叔父から聞いたことがある。その隣には細身の女性がいて、宵の袖を軽く引いている。
「宵様、今日は織部様をからかいに来たのではありませんよ」
「分かっているよ、透子」
「分かっておられるようには見えません」
宵は楽しそうに笑うばかりで、否定しなかった。
沙羅は彼らのやり取りを眺めながら、不思議な気持ちになる。
朝霧景も南雲宵も、沙羅にとってはこれまで遠い世界の人物だった。帝都で名を知らぬ者のいない軍人や、軍府の異能を束ねる当主として耳にしてきた人々が、周とはごく普通の友人として言葉を交わしている。
その事実を知っただけで、顔合わせから今日までに見てきた周とは別の輪郭が、少しずつ見え始める気がした。
「沙羅」
呼ばれて視線を戻すと、周は先ほどまでとは少し違う顔をしていた。
「紹介してもいいかな」
沙羅が頷くと、彼はまず朝霧景とその妻を紹介し、続いて南雲宵と透子へ話を移した。どちらの夫婦も沙羅が声を出せないことを事前に聞いているらしく、無理に会話を求めることもなく、それぞれのやり方で挨拶をしてくれる。
景は簡潔に、「よろしく頼む」と告げ、その妻も穏やかな笑みとともに頭を下げた。
宵は沙羅を見たあと、周へ意味ありげな視線を移す。
「よかったね」
「何が?」
「ちゃんと結婚できて」
「どういう意味だい?」
「そのままの意味だよ」
「宵」
周が何か言い返そうとしたところで兄が近づき、笑顔のまま彼の後頭部を押さえた。
「周、そろそろ始まるよ」
「兄上、頭を押さえないでください」
「大丈夫。髪は崩していない」
「そういう問題ではないでしょう」
ここまで来ると、緊張し続けている方が難しかった。
沙羅は目を伏せたものの、口元に浮かびかけた笑みまでは隠しきれなかった。
志紋家の血筋を考えれば宮中で行うこともできたそうだが、沙羅が大勢の前へ出ることを好まないため、周の方から志紋邸で構わないと申し出たらしい。招かれたのも両家の近しい親族と帝の名代を務める者たち、あとは周と長く付き合いのある、ごく限られた人間だけだった。
広間へ足を踏み入れた沙羅は、最初に周の姿を見つける。
濃い色の礼装に身を包み、長い髪も今日はいつも以上に丁寧に整えられている。もともとの容貌が華やかなため、飾りを重ねずとも人目を引くことに変わりはなかったが、立ち姿にも所作にも隙がなく、顔合わせの日に花束を抱えて現れた男と同じ人物だと知らなければ、近づきがたいと感じたかもしれない。
けれど沙羅が広間に入るなり、周はそれまで崩さなかった端正な表情をあっさり失い、目を見開いて何か言いかけたところを、隣にいた年嵩の男性から間を置かず腕を掴まれた。
「周」
低く呼ばれ、周が不満そうにそちらを向く。
「何です、父上」
「今日だけは黙っていなさい」
「まだ何も言っていませんよ」
「言おうとしただろう」
「褒めようとしただけです」
「それが心配なのだ」
どうやら周の父らしい。息子ほど華やかな顔立ちではないものの、眉や目元には似たところがあり、立っているだけで名門の当主らしい落ち着きが伝わってくる。それでも今だけは、息子が何を口にするか気が気ではないらしく、周の腕を離したあともこめかみを押さえていた。
その隣では、もう一人の男性が楽しそうに笑っている。周よりいくらか年上に見え、柔らかな目元をした端正な人物で、紹介される前から兄なのだろうと察しがついた。
「父上、今日はさすがに周も大丈夫でしょう」
「お前は昔から弟に甘い」
「そうでしょうか」
「そうだ」
周の兄らしい男は困ったように笑いながら周を見ると、今度は自分が彼の肩へ手を置いた。
「ただ、今のは父上が正しいと思うよ。せめて儀式が終わるまでは黙っていなさい」
「兄上まで」
不満を隠さない周を見ているうちに、沙羅は先ほどまで身体に残っていた緊張が少し薄れたことに気づく。
その時、広間の奥から呆れたような声が聞こえた。
「相変わらずだな」
振り向けば、軍服を纏った背の高い男が立っている。姿勢も顔立ちも鋭く、周とは異なる種類の近寄りがたさがあったが、沙羅でも名を知っている人物だった。
その軍人こそ、朝霧景だった。帝国軍少将にして朝霧家の当主であり、その傍らには落ち着いた佇まいの女性が立っている。
「景、今日は友人の婚礼なのだから、もう少し祝福しているような顔をしてくれてもいいだろう」
周が言えば、景は眉ひとつ動かさない。
「している」
「どこが?」
「来ただろう」
「それだけ?」
「十分だ」
それ以上取り合うつもりはないらしく、景は隣の女性へ何か言葉をかける。
すると別の場所から笑い声が聞こえ、今度は黒を基調とした装いの男が、面白そうにこちらを見ていた。
「周、朝霧に愛想を求める方が間違っているよ」
白い肌に整った面差しは、周とも景とも似ていない。
もう一人は、南雲宵だった。軍府の陰陽寮を束ねる南雲家の当主だと、沙羅は以前叔父から聞いたことがある。その隣には細身の女性がいて、宵の袖を軽く引いている。
「宵様、今日は織部様をからかいに来たのではありませんよ」
「分かっているよ、透子」
「分かっておられるようには見えません」
宵は楽しそうに笑うばかりで、否定しなかった。
沙羅は彼らのやり取りを眺めながら、不思議な気持ちになる。
朝霧景も南雲宵も、沙羅にとってはこれまで遠い世界の人物だった。帝都で名を知らぬ者のいない軍人や、軍府の異能を束ねる当主として耳にしてきた人々が、周とはごく普通の友人として言葉を交わしている。
その事実を知っただけで、顔合わせから今日までに見てきた周とは別の輪郭が、少しずつ見え始める気がした。
「沙羅」
呼ばれて視線を戻すと、周は先ほどまでとは少し違う顔をしていた。
「紹介してもいいかな」
沙羅が頷くと、彼はまず朝霧景とその妻を紹介し、続いて南雲宵と透子へ話を移した。どちらの夫婦も沙羅が声を出せないことを事前に聞いているらしく、無理に会話を求めることもなく、それぞれのやり方で挨拶をしてくれる。
景は簡潔に、「よろしく頼む」と告げ、その妻も穏やかな笑みとともに頭を下げた。
宵は沙羅を見たあと、周へ意味ありげな視線を移す。
「よかったね」
「何が?」
「ちゃんと結婚できて」
「どういう意味だい?」
「そのままの意味だよ」
「宵」
周が何か言い返そうとしたところで兄が近づき、笑顔のまま彼の後頭部を押さえた。
「周、そろそろ始まるよ」
「兄上、頭を押さえないでください」
「大丈夫。髪は崩していない」
「そういう問題ではないでしょう」
ここまで来ると、緊張し続けている方が難しかった。
沙羅は目を伏せたものの、口元に浮かびかけた笑みまでは隠しきれなかった。



