婚礼の日取りが決まったのは、顔合わせから十日ほどが過ぎた頃だった。
志紋家と織部家の間では、沙羅の知らぬところで驚くほど多くの取り決めが交わされていたらしく、叔父のもとには朝廷からの書状が日に幾度も届き、そのたび家令や使用人たちが慌ただしく廊下を行き来している。
もともと志紋家は帝家と縁の深い家であり、そこへ宮宰を務める織部周が婿として入るとなれば、ただ二つの家が結ばれるだけでは済まないのだろう。
婚礼そのものを華美にするつもりはないと聞いていたものの、誰を招き、誰へ知らせ、どこまでを朝廷の儀礼として扱うかというだけでも、決めなければならないことは山ほどあるようだった。
その間、周は三度ほど志紋家を訪れている。
一度目は婚礼に必要な書類へ署名をするため、二度目は沙羅が日頃使っている部屋や私物の扱いを確かめるためで、三度目については本人が「近くまで来たから」と言っていたものの、宮中から志紋邸までは決して近いとは言えず、出迎えた叔父が半ば呆れた顔をしていたことから考えても、理由はほかにあったのだろう。
その三度とも、周は花を持ってこなかった。
顔合わせの日に、沙羅が花を恐れると伝えているのだから、それ自体は当然なのかもしれない。それでも、あれほど花を好む男が一度として持参しないことを、沙羅はいつしか覚えていた。
代わりに三度目の訪問では、小さな箱をひとつ抱えてきた。
中に入っていたのは、帝都で評判だという店の菓子だった。
「花を持っていくなと、父にきつく言われたからね」
応接の座敷へ腰を下ろすなり、周は困ったようにそう言って、包みを沙羅たちの前へ差し出した。
「きつく、ですか」
叔父が聞き返すと、周は何故そんなことを尋ねられるのか分からないとでもいう顔で頷く。
「ああ。『婚礼までは花の話をするな。女性を美しい人と呼ぶな。せめてしばらくは普通にしていろ』とまで言われた」
そこで一度言葉を切り、本人だけは至って真面目な顔で眉を寄せる。
「普通に、というのが一番難しいのだけれど」
叔父は何とも言えない顔をしていた。
沙羅は紙を引き寄せ、しばらく考えてから筆を動かす。
『お父上のお気持ちは分かる気がいたします』
紙を読んだ周は、信じがたいことを聞いたように沙羅へ目を向けた。
「沙羅まで?」
その反応がおかしく、沙羅は筆を置きながら口元を押さえる。
この人と暮らすことになれば、自分は思っていたより退屈しないのかもしれないと、その時初めて考えた。
婚礼の日は、朝からよく晴れていた。
空にはすでに初夏の色が差しはじめ、志紋邸の庭を満たす梔子も濃い葉を重ねながら、枝先にまだ硬い蕾をいくつか覗かせている。花が開くにはもう少し時間が必要らしいが、陽射しの匂いや風の温度には、季節が確実に先へ進んでいることが感じられた。
沙羅は支度部屋の鏡台の前へ座り、侍女たちに髪を整えられながら、自分の姿を鏡越しに眺めていた。
婚礼の衣装は白を基調としており、襟や袖には銀糸で細かな文様が縫い取られている。正面から見れば控えめな仕立てだが、身体を動かすたび、光を拾った刺繍だけが水面のように浮かび上がり、古い衣装とは思えないほど端正な輝きを帯びていた。
志紋家の花嫁が代々身につけてきたものだと叔父から聞いている。
母もかつてこの衣装を纏ったのだと知った時には袖へ手を通すことさえためらったが、実際に身につけてみれば、重みのある布は誰かの記憶を押しつけてくるものではなく、ただ今日の沙羅の身体を包んでいる。
同じ衣装を着たからといって母と同じ道を歩くわけではなく、同じ人生を生きることにもならないのだと、鏡の中の自分を見ながら思った。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
髪を整えていた年嵩の侍女が、鏡越しに微笑みかける。
沙羅は目を合わせて頭を下げると、すでに用意されていた紙へ短く礼を記した。
『ありがとうございます』
「きっと旦那様も驚かれますよ」
「旦那様」という呼び方にはまだ馴染めず、沙羅は筆を置いたまま視線を伏せた。
今日から周は織部の名を離れ、志紋家へ入る。
婚礼の儀を終えれば正式には志紋周となり、この屋敷で暮らす者たちも、やがて違和感なくそう呼ぶようになるのだろう。
顔合わせからまだひと月も経っていない。それでも今日から夫婦になる。
家同士の婚姻として考えれば特別に早いわけではないのかもしれないが、沙羅には比べるものがなく、この速さが普通なのかどうかさえ判断できなかった。
やがて戸口の向こうから足音が近づき、礼装に身を包んだ叔父が姿を見せる。部屋へ入った彼は沙羅を見るなり歩みを止め、しばらく何も言わずに立っていたが、やがて目元を和らげた。
「……よく似合っている」
沙羅は小さく笑い、先ほどと同じ紙へ筆を走らせる。
『叔父様にも、ありがとうございます』
叔父はその文字を見ながら何かを言いかけたものの、結局は口にせず、代わりに手を差し出した。
「行こうか」
昔から、叔父はこういう時に言葉を選びすぎるところがあった。
父と母を失ったあとも、励ますための言葉を重ねるより、何も言わずそばにいる方を選んできた人である。
だから沙羅も、余計なことは書かなかった。
差し出された手を取り、立ち上がる。
志紋家と織部家の間では、沙羅の知らぬところで驚くほど多くの取り決めが交わされていたらしく、叔父のもとには朝廷からの書状が日に幾度も届き、そのたび家令や使用人たちが慌ただしく廊下を行き来している。
もともと志紋家は帝家と縁の深い家であり、そこへ宮宰を務める織部周が婿として入るとなれば、ただ二つの家が結ばれるだけでは済まないのだろう。
婚礼そのものを華美にするつもりはないと聞いていたものの、誰を招き、誰へ知らせ、どこまでを朝廷の儀礼として扱うかというだけでも、決めなければならないことは山ほどあるようだった。
その間、周は三度ほど志紋家を訪れている。
一度目は婚礼に必要な書類へ署名をするため、二度目は沙羅が日頃使っている部屋や私物の扱いを確かめるためで、三度目については本人が「近くまで来たから」と言っていたものの、宮中から志紋邸までは決して近いとは言えず、出迎えた叔父が半ば呆れた顔をしていたことから考えても、理由はほかにあったのだろう。
その三度とも、周は花を持ってこなかった。
顔合わせの日に、沙羅が花を恐れると伝えているのだから、それ自体は当然なのかもしれない。それでも、あれほど花を好む男が一度として持参しないことを、沙羅はいつしか覚えていた。
代わりに三度目の訪問では、小さな箱をひとつ抱えてきた。
中に入っていたのは、帝都で評判だという店の菓子だった。
「花を持っていくなと、父にきつく言われたからね」
応接の座敷へ腰を下ろすなり、周は困ったようにそう言って、包みを沙羅たちの前へ差し出した。
「きつく、ですか」
叔父が聞き返すと、周は何故そんなことを尋ねられるのか分からないとでもいう顔で頷く。
「ああ。『婚礼までは花の話をするな。女性を美しい人と呼ぶな。せめてしばらくは普通にしていろ』とまで言われた」
そこで一度言葉を切り、本人だけは至って真面目な顔で眉を寄せる。
「普通に、というのが一番難しいのだけれど」
叔父は何とも言えない顔をしていた。
沙羅は紙を引き寄せ、しばらく考えてから筆を動かす。
『お父上のお気持ちは分かる気がいたします』
紙を読んだ周は、信じがたいことを聞いたように沙羅へ目を向けた。
「沙羅まで?」
その反応がおかしく、沙羅は筆を置きながら口元を押さえる。
この人と暮らすことになれば、自分は思っていたより退屈しないのかもしれないと、その時初めて考えた。
婚礼の日は、朝からよく晴れていた。
空にはすでに初夏の色が差しはじめ、志紋邸の庭を満たす梔子も濃い葉を重ねながら、枝先にまだ硬い蕾をいくつか覗かせている。花が開くにはもう少し時間が必要らしいが、陽射しの匂いや風の温度には、季節が確実に先へ進んでいることが感じられた。
沙羅は支度部屋の鏡台の前へ座り、侍女たちに髪を整えられながら、自分の姿を鏡越しに眺めていた。
婚礼の衣装は白を基調としており、襟や袖には銀糸で細かな文様が縫い取られている。正面から見れば控えめな仕立てだが、身体を動かすたび、光を拾った刺繍だけが水面のように浮かび上がり、古い衣装とは思えないほど端正な輝きを帯びていた。
志紋家の花嫁が代々身につけてきたものだと叔父から聞いている。
母もかつてこの衣装を纏ったのだと知った時には袖へ手を通すことさえためらったが、実際に身につけてみれば、重みのある布は誰かの記憶を押しつけてくるものではなく、ただ今日の沙羅の身体を包んでいる。
同じ衣装を着たからといって母と同じ道を歩くわけではなく、同じ人生を生きることにもならないのだと、鏡の中の自分を見ながら思った。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
髪を整えていた年嵩の侍女が、鏡越しに微笑みかける。
沙羅は目を合わせて頭を下げると、すでに用意されていた紙へ短く礼を記した。
『ありがとうございます』
「きっと旦那様も驚かれますよ」
「旦那様」という呼び方にはまだ馴染めず、沙羅は筆を置いたまま視線を伏せた。
今日から周は織部の名を離れ、志紋家へ入る。
婚礼の儀を終えれば正式には志紋周となり、この屋敷で暮らす者たちも、やがて違和感なくそう呼ぶようになるのだろう。
顔合わせからまだひと月も経っていない。それでも今日から夫婦になる。
家同士の婚姻として考えれば特別に早いわけではないのかもしれないが、沙羅には比べるものがなく、この速さが普通なのかどうかさえ判断できなかった。
やがて戸口の向こうから足音が近づき、礼装に身を包んだ叔父が姿を見せる。部屋へ入った彼は沙羅を見るなり歩みを止め、しばらく何も言わずに立っていたが、やがて目元を和らげた。
「……よく似合っている」
沙羅は小さく笑い、先ほどと同じ紙へ筆を走らせる。
『叔父様にも、ありがとうございます』
叔父はその文字を見ながら何かを言いかけたものの、結局は口にせず、代わりに手を差し出した。
「行こうか」
昔から、叔父はこういう時に言葉を選びすぎるところがあった。
父と母を失ったあとも、励ますための言葉を重ねるより、何も言わずそばにいる方を選んできた人である。
だから沙羅も、余計なことは書かなかった。
差し出された手を取り、立ち上がる。



