屋敷へ戻ろうとして、沙羅はふと振り返った。
梔子の白い花が、朝の光の中で揺れている。
以前なら梔子を見るたび、父と母が帰らなかった日と、暗い馬車の中で声を出すなと言われた日のことばかりを思い出していた。その記憶はこれから先も消えないだろうが、今はその向こうに十七年前の庭もあり、生まれたばかりの自分を抱いて途方に暮れる父と、その隣で笑う母の姿もある。
喜びの中で何度も呼ばれた「志紋沙羅」という名は、父と母から最初にもらったものの一つだった。
「沙羅?」
少し先まで歩いていた周が、足を止めて振り返っている。
沙羅は梔子から目を離した。
父の声で呼ばれていた名前を、今は夫が呼んでいる。
「今、行きます」
そう答えて歩み寄ると、周が手を差し出した。沙羅もその手を取り、指を重ねたまま屋敷へ向かいかけたところで、思い出したことがあって足を止める。
「周様」
「どうしたんだい?」
「初めてお会いした日、私のことを美しい人と仰いましたね」
「言ったね。今でもそう思っているよ」
「周様は、花にも同じことを仰います」
「美しいものを美しいと言って何が悪いんだい」
まったく悪びれないので、沙羅は呆れながら庭の梔子へ目を向けた。
「では、周様」
「うん?」
「私を花に喩えるなら、何の花ですか」
花のことなら、すぐに答えが返ってくると思っていた。
ところが周は何も言わず、沙羅の顔を見ている。
「……ないのですか」
「いや。君と出会った頃なら、何かの花に喩えたかもしれないね。白い花だとか、綺麗だけれど近寄りがたい花だとか、そんなことを得意げに言ったと思う」
「今は?」
「今は、喩えたくないな」
花を愛してやまない人の口から出たとは思えない答えに、沙羅は目を瞬いた。
「何故ですか」
「君は君だから」
周は繋いだ手を握り直した。
「花は好きだよ。どんな花にも、その花にしかない美しさがあると思っている。でも、君を見て何かの花を思い浮かべることは、もうないんだ」
沙羅が黙っていると、周は今度こそ何の花も持ち出さず、ただ彼女の名前を呼んだ。
「……君が好きだ、沙羅」
美しい花を見つければ幾らでも言葉を重ねる人が、それだけしか言わなかったことに、沙羅はすぐには返事ができなかった。
胸に満ちたものをどう伝えようかと考えた時、紙を探す癖で指が動きかける。
けれど今日は、必要なかった。
「……私も、周様が好きです」
周が足を止めたため、手を繋いでいた沙羅もつられて立ち止まった。
何かおかしなことを言っただろうかと見上げると、周は沙羅の顔を凝視している。
「……今、何と?」
「聞こえていらしたでしょう」
「聞こえたけれど、もう一度確認しても?」
「嫌です」
「何故?」
「一度で十分です」
「僕にとっては全然十分じゃないんだけれど」
沙羅は笑った。
以前なら、こうして笑っていることを伝える音はなかった。けれど声がなかったからといって、気持ちまで伝えられなかったわけではない。
紙でも、唇でも、手でもよかった。周が出会った頃からそうしてくれたように、声があるかどうかではなく、相手に届けようとすることの方が大切なのだと、今の沙羅は知っている。
「もう一度言ってくれないかい」
「嫌です」
「では、紙に書いてくれてもいい。君よりも大きな紙を用意させよう。それを寝室の壁に──」
「絶対に嫌です」
「沙羅」
「帰りますよ、周様」
沙羅が先に歩き出すと、手を繋いでいる周もついてくる。
「せめて今夜もう一度」
「考えておきます」
「それは期待していいという意味かな?」
「どうでしょう」
困った周の声を聞きながら、沙羅はまた笑った。
風が吹き、背後で梔子の枝が揺れる。
父と母がこの庭でどんな未来を思い描いていたのか、沙羅には分からない。十七年前、腕の中にいた赤子が十年ものあいだ声を失い、十七歳になって随分と変わった男を夫に迎えることなど、二人にも想像できなかっただろう。
それでも、父と母が守ってくれた命は、もうあの日の馬車の中に留まり続けてはいない。二人からもらった名前も、花に残された記憶も、失った十年も抱えたまま、これから先をどう生きるのかは沙羅自身が選んでいく。
隣を歩く周の手を握り直した。
梔子はもう、沈黙だけを思わせる花ではなかった。
生まれた日に何度も名を呼ばれ、その存在を父と母に喜ばれた記憶も、この花は抱いている。そしてこれからは、この庭で周と過ごす日々も重なっていくのだろう。
いつか別の花に触れた時、今日の自分たちが残したものを見ることがあるのかもしれない。そう考えても、その未来を以前のように怖いとは思わなかった。
「沙羅」
隣から名前を呼ばれ、沙羅は顔を上げた。
「何ですか」
「いや。呼びたくなっただけだよ」
何の用もないのに呼び止められたことがおかしくて、沙羅は笑った。
「変な方」
「今さらだね」
「ええ。今さらです」
繋いだ手を離さないまま、二人は屋敷へ向かって歩いていく。
沙羅はもう振り返らなかった。
それでも、朝の庭に咲いた梔子の香りは、二人のところまで届いていた。
梔子の白い花が、朝の光の中で揺れている。
以前なら梔子を見るたび、父と母が帰らなかった日と、暗い馬車の中で声を出すなと言われた日のことばかりを思い出していた。その記憶はこれから先も消えないだろうが、今はその向こうに十七年前の庭もあり、生まれたばかりの自分を抱いて途方に暮れる父と、その隣で笑う母の姿もある。
喜びの中で何度も呼ばれた「志紋沙羅」という名は、父と母から最初にもらったものの一つだった。
「沙羅?」
少し先まで歩いていた周が、足を止めて振り返っている。
沙羅は梔子から目を離した。
父の声で呼ばれていた名前を、今は夫が呼んでいる。
「今、行きます」
そう答えて歩み寄ると、周が手を差し出した。沙羅もその手を取り、指を重ねたまま屋敷へ向かいかけたところで、思い出したことがあって足を止める。
「周様」
「どうしたんだい?」
「初めてお会いした日、私のことを美しい人と仰いましたね」
「言ったね。今でもそう思っているよ」
「周様は、花にも同じことを仰います」
「美しいものを美しいと言って何が悪いんだい」
まったく悪びれないので、沙羅は呆れながら庭の梔子へ目を向けた。
「では、周様」
「うん?」
「私を花に喩えるなら、何の花ですか」
花のことなら、すぐに答えが返ってくると思っていた。
ところが周は何も言わず、沙羅の顔を見ている。
「……ないのですか」
「いや。君と出会った頃なら、何かの花に喩えたかもしれないね。白い花だとか、綺麗だけれど近寄りがたい花だとか、そんなことを得意げに言ったと思う」
「今は?」
「今は、喩えたくないな」
花を愛してやまない人の口から出たとは思えない答えに、沙羅は目を瞬いた。
「何故ですか」
「君は君だから」
周は繋いだ手を握り直した。
「花は好きだよ。どんな花にも、その花にしかない美しさがあると思っている。でも、君を見て何かの花を思い浮かべることは、もうないんだ」
沙羅が黙っていると、周は今度こそ何の花も持ち出さず、ただ彼女の名前を呼んだ。
「……君が好きだ、沙羅」
美しい花を見つければ幾らでも言葉を重ねる人が、それだけしか言わなかったことに、沙羅はすぐには返事ができなかった。
胸に満ちたものをどう伝えようかと考えた時、紙を探す癖で指が動きかける。
けれど今日は、必要なかった。
「……私も、周様が好きです」
周が足を止めたため、手を繋いでいた沙羅もつられて立ち止まった。
何かおかしなことを言っただろうかと見上げると、周は沙羅の顔を凝視している。
「……今、何と?」
「聞こえていらしたでしょう」
「聞こえたけれど、もう一度確認しても?」
「嫌です」
「何故?」
「一度で十分です」
「僕にとっては全然十分じゃないんだけれど」
沙羅は笑った。
以前なら、こうして笑っていることを伝える音はなかった。けれど声がなかったからといって、気持ちまで伝えられなかったわけではない。
紙でも、唇でも、手でもよかった。周が出会った頃からそうしてくれたように、声があるかどうかではなく、相手に届けようとすることの方が大切なのだと、今の沙羅は知っている。
「もう一度言ってくれないかい」
「嫌です」
「では、紙に書いてくれてもいい。君よりも大きな紙を用意させよう。それを寝室の壁に──」
「絶対に嫌です」
「沙羅」
「帰りますよ、周様」
沙羅が先に歩き出すと、手を繋いでいる周もついてくる。
「せめて今夜もう一度」
「考えておきます」
「それは期待していいという意味かな?」
「どうでしょう」
困った周の声を聞きながら、沙羅はまた笑った。
風が吹き、背後で梔子の枝が揺れる。
父と母がこの庭でどんな未来を思い描いていたのか、沙羅には分からない。十七年前、腕の中にいた赤子が十年ものあいだ声を失い、十七歳になって随分と変わった男を夫に迎えることなど、二人にも想像できなかっただろう。
それでも、父と母が守ってくれた命は、もうあの日の馬車の中に留まり続けてはいない。二人からもらった名前も、花に残された記憶も、失った十年も抱えたまま、これから先をどう生きるのかは沙羅自身が選んでいく。
隣を歩く周の手を握り直した。
梔子はもう、沈黙だけを思わせる花ではなかった。
生まれた日に何度も名を呼ばれ、その存在を父と母に喜ばれた記憶も、この花は抱いている。そしてこれからは、この庭で周と過ごす日々も重なっていくのだろう。
いつか別の花に触れた時、今日の自分たちが残したものを見ることがあるのかもしれない。そう考えても、その未来を以前のように怖いとは思わなかった。
「沙羅」
隣から名前を呼ばれ、沙羅は顔を上げた。
「何ですか」
「いや。呼びたくなっただけだよ」
何の用もないのに呼び止められたことがおかしくて、沙羅は笑った。
「変な方」
「今さらだね」
「ええ。今さらです」
繋いだ手を離さないまま、二人は屋敷へ向かって歩いていく。
沙羅はもう振り返らなかった。
それでも、朝の庭に咲いた梔子の香りは、二人のところまで届いていた。



