花弁から指が離れると、十七年前の夏は薄れていき、沙羅は朝の庭に戻った。
目の前には触れる前と同じ梔子があり、白い花も葉に残る朝露も風の中で変わらず揺れていたが、沙羅の中に残る父の声だけは、もう十年前の一言だけではなくなっていた。
沙羅は頬を伝う涙を拭わず、しばらく花を見つめていた。
隣の周は何も尋ねず、沙羅が自分から言葉を探し始めるまで待っている。その姿を見て、初めて会った日にも「あれほどよく喋るのに、こちらが言葉を探している時だけは黙る人だ」と思ったことを、沙羅は懐かしく思い出した。
沙羅は一度息を整えてから、口を開いた。
「……お父様と、お母様がいました」
周が沙羅に向き直るのを見ながら、途切れないよう息を継いだ。
「私を、抱いていました。まだ……生まれたばかりの、私を」
途中で声が掠れたので、急がずに息を継いだ。
「お父様は、私を落としそうで怖いと仰って……お母様が、それを笑っていました」
そこまで話すと、また涙が溢れた。
悲しくないわけではない。もう二人に会えないことも、父の腕に抱かれることも、母の笑い声を生きた時間の中で聞くこともできないのだと思えば、今でも胸は痛む。
けれど、十年前から沙羅の中に残っていたものは、もう悲しみだけではなかった。
「私の名前を、呼んでいました」
周は黙って聞いている。
「お父様も、お母様も……何度も」
父から最後に受け取ったのは黙れという命令だったが、それよりずっと前には、生まれた娘を喜んで名前で呼ぶ声があった。片方だけが父なのではなく、どちらも同じ人が沙羅の命を慈しみ、生かそうとして向けた声だったのだと思うと、涙のあいだから自然に笑みがこぼれた。
沙羅は涙を拭い、今度は笑った。
「……幸せそうでした」
最後まで聞いた周は、すぐには何も言わなかった。
古い梔子へ目を向け、枝に残っている白い花をしばらく眺めたあと、穏やかな声音で答えた。
「そうか」
それだけを口にしてから、もう一度花を見た。
「では、その花はずっと君の帰りを待っていたんだね」
沙羅は首を傾げた。
「私の?」
「君が触れなくなってからも、毎年ここで咲いていたんだろう。何を思って咲いていたかは花に聞かなければ分からないけれど、十七年前のそんな記憶を残していたのなら、僕にはそう思えるよ」
花が本当に誰かを待つのか、記憶を宿すことと意思を持つことが同じなのかは沙羅にも分からなかったが、今だけは周の言葉を理屈で否定する気になれなかった。
周は梔子へ手を伸ばしかけたところで、途中で動きを止めた。
「……触ってもいい?」
沙羅は思わず笑った。
これほど花が好きな人なのに、志紋家の花に勝手に手を出さないところだけは律儀である。
「どうぞ」
許しを得てから、周は白い花の近くへ手を添え、傷めないよう枝を持ち上げた。
「立派な木だ」
「周様が育てたものではありませんよ」
「分かっているよ。だから素直に褒めているんじゃないか」
「周様の花が一番美しいと仰るのかと思いました」
「僕だって、そこまで分別のない人間ではないよ」
沙羅が疑うように見つめると、周は少し傷ついた顔をした。
「……今の間は何だい」
「何でもありません」
「絶対に何かあっただろう」
沙羅は答えず、もう一度梔子へ手を伸ばした。
今度は記憶を読むためではなく、白い花弁の柔らかさと葉に残る朝露の冷たさを、自分の指先で確かめるために触れた。誰の声も知らない感情も流れ込まず、ただそこに花があるという感触だけが残ったことを、沙羅は静かな喜びとして受け取った。
「周様」
「うん?」
「私、初めてお会いした日に……花が怖いと申し上げましたね」
「覚えているよ」
「今も、怖い花はあります。これからも、触れたくないと思う花はあるのでしょうね」
「それでいいと思うよ」
周は当然のように答えた。
「全部に触れる必要なんてない。君は花の記憶を読むために生きているわけではないんだから」
沙羅はその言葉を聞きながら、指先で花弁の形を確かめた。
力を持って生まれたからといって使い続ける義務があるわけでも、過去を知ることができるからといってすべてを知る必要があるわけでもない。知りたい時には手を伸ばし、怖ければ触れず、傍にいてほしければ誰かへ頼む――その選択だけは、これからも自分のものだった。
「そうですね」
沙羅が答えると、周は笑った。
その時、庭の向こうから庭師の声が飛んできた。
「周様、その枝はそのままにしておいてくださいませ!」
梔子の枝を持ち上げていた周が振り返る。
「触っているだけだよ」
「昨日もそう仰って、そのあと鋏を持ち出されたでしょう」
「あれは必要な手入れだったんだ」
「こちらの庭は、わたくしどもが見ております」
「僕も花については多少――」
「周様」
沙羅が呼ぶと、庭師に向かって何やら説明しようとしていた周が振り返った。
「お任せしましょう」
「……沙羅までそう言うのかい」
「庭師の方のお仕事ですから」
周は納得していないらしく梔子と庭師を交互に見ていたが、やがて諦めて枝から手を離した。
「婿としてこの家に来たのに、庭だけはいつまで経っても僕の自由にならないね」
「ならなくて結構です」
「君は随分強くなったなあ」
「どなたのせいでしょう」
「僕なのかい?」
沙羅が笑うと、周は不服そうにしながらも、その顔には笑みが浮かんでいた。
生まれたばかりの娘を抱いた父は、元気でいてくれればよく、欲を言えばよく笑う子になってほしいと願っていた。十年もの間、自分がそんなふうに望まれていたことさえ忘れていたけれど、その願い通りの娘にならなければならないとは思わない。泣く日も、声の出ない朝も、花へ触れたくない日もあるだろうが、笑いたい時に笑い、その音を聞いてくれる人が今は隣にいる。
目の前には触れる前と同じ梔子があり、白い花も葉に残る朝露も風の中で変わらず揺れていたが、沙羅の中に残る父の声だけは、もう十年前の一言だけではなくなっていた。
沙羅は頬を伝う涙を拭わず、しばらく花を見つめていた。
隣の周は何も尋ねず、沙羅が自分から言葉を探し始めるまで待っている。その姿を見て、初めて会った日にも「あれほどよく喋るのに、こちらが言葉を探している時だけは黙る人だ」と思ったことを、沙羅は懐かしく思い出した。
沙羅は一度息を整えてから、口を開いた。
「……お父様と、お母様がいました」
周が沙羅に向き直るのを見ながら、途切れないよう息を継いだ。
「私を、抱いていました。まだ……生まれたばかりの、私を」
途中で声が掠れたので、急がずに息を継いだ。
「お父様は、私を落としそうで怖いと仰って……お母様が、それを笑っていました」
そこまで話すと、また涙が溢れた。
悲しくないわけではない。もう二人に会えないことも、父の腕に抱かれることも、母の笑い声を生きた時間の中で聞くこともできないのだと思えば、今でも胸は痛む。
けれど、十年前から沙羅の中に残っていたものは、もう悲しみだけではなかった。
「私の名前を、呼んでいました」
周は黙って聞いている。
「お父様も、お母様も……何度も」
父から最後に受け取ったのは黙れという命令だったが、それよりずっと前には、生まれた娘を喜んで名前で呼ぶ声があった。片方だけが父なのではなく、どちらも同じ人が沙羅の命を慈しみ、生かそうとして向けた声だったのだと思うと、涙のあいだから自然に笑みがこぼれた。
沙羅は涙を拭い、今度は笑った。
「……幸せそうでした」
最後まで聞いた周は、すぐには何も言わなかった。
古い梔子へ目を向け、枝に残っている白い花をしばらく眺めたあと、穏やかな声音で答えた。
「そうか」
それだけを口にしてから、もう一度花を見た。
「では、その花はずっと君の帰りを待っていたんだね」
沙羅は首を傾げた。
「私の?」
「君が触れなくなってからも、毎年ここで咲いていたんだろう。何を思って咲いていたかは花に聞かなければ分からないけれど、十七年前のそんな記憶を残していたのなら、僕にはそう思えるよ」
花が本当に誰かを待つのか、記憶を宿すことと意思を持つことが同じなのかは沙羅にも分からなかったが、今だけは周の言葉を理屈で否定する気になれなかった。
周は梔子へ手を伸ばしかけたところで、途中で動きを止めた。
「……触ってもいい?」
沙羅は思わず笑った。
これほど花が好きな人なのに、志紋家の花に勝手に手を出さないところだけは律儀である。
「どうぞ」
許しを得てから、周は白い花の近くへ手を添え、傷めないよう枝を持ち上げた。
「立派な木だ」
「周様が育てたものではありませんよ」
「分かっているよ。だから素直に褒めているんじゃないか」
「周様の花が一番美しいと仰るのかと思いました」
「僕だって、そこまで分別のない人間ではないよ」
沙羅が疑うように見つめると、周は少し傷ついた顔をした。
「……今の間は何だい」
「何でもありません」
「絶対に何かあっただろう」
沙羅は答えず、もう一度梔子へ手を伸ばした。
今度は記憶を読むためではなく、白い花弁の柔らかさと葉に残る朝露の冷たさを、自分の指先で確かめるために触れた。誰の声も知らない感情も流れ込まず、ただそこに花があるという感触だけが残ったことを、沙羅は静かな喜びとして受け取った。
「周様」
「うん?」
「私、初めてお会いした日に……花が怖いと申し上げましたね」
「覚えているよ」
「今も、怖い花はあります。これからも、触れたくないと思う花はあるのでしょうね」
「それでいいと思うよ」
周は当然のように答えた。
「全部に触れる必要なんてない。君は花の記憶を読むために生きているわけではないんだから」
沙羅はその言葉を聞きながら、指先で花弁の形を確かめた。
力を持って生まれたからといって使い続ける義務があるわけでも、過去を知ることができるからといってすべてを知る必要があるわけでもない。知りたい時には手を伸ばし、怖ければ触れず、傍にいてほしければ誰かへ頼む――その選択だけは、これからも自分のものだった。
「そうですね」
沙羅が答えると、周は笑った。
その時、庭の向こうから庭師の声が飛んできた。
「周様、その枝はそのままにしておいてくださいませ!」
梔子の枝を持ち上げていた周が振り返る。
「触っているだけだよ」
「昨日もそう仰って、そのあと鋏を持ち出されたでしょう」
「あれは必要な手入れだったんだ」
「こちらの庭は、わたくしどもが見ております」
「僕も花については多少――」
「周様」
沙羅が呼ぶと、庭師に向かって何やら説明しようとしていた周が振り返った。
「お任せしましょう」
「……沙羅までそう言うのかい」
「庭師の方のお仕事ですから」
周は納得していないらしく梔子と庭師を交互に見ていたが、やがて諦めて枝から手を離した。
「婿としてこの家に来たのに、庭だけはいつまで経っても僕の自由にならないね」
「ならなくて結構です」
「君は随分強くなったなあ」
「どなたのせいでしょう」
「僕なのかい?」
沙羅が笑うと、周は不服そうにしながらも、その顔には笑みが浮かんでいた。
生まれたばかりの娘を抱いた父は、元気でいてくれればよく、欲を言えばよく笑う子になってほしいと願っていた。十年もの間、自分がそんなふうに望まれていたことさえ忘れていたけれど、その願い通りの娘にならなければならないとは思わない。泣く日も、声の出ない朝も、花へ触れたくない日もあるだろうが、笑いたい時に笑い、その音を聞いてくれる人が今は隣にいる。



