梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 ルゼリア王国との新たな条約が正式に調印されてから、十日あまりが過ぎた。

 帝都では連日のように条約について新聞が報じ、長く帝国を縛ってきた不平等な取り決めが改められたことを歓迎する声がある一方で、なお残された課題を挙げて譲歩が足りないと論じる者もいるらしい。

 周はそうした記事にひと通り目を通しているようだったが、珍しく公務のない朝にまで仕事の話をするつもりはないらしく、朝餉の席で沙羅が新聞を広げると、「僕は今日、休みなんだよ」と言って紙面を裏返してしまった。

「読みたかったのですが」
「昨日も読んでいただろう?」
「昨日と今日は、違う新聞です」
「書いてあることは大して変わらないよ。条約を褒める者がいて、足りないと怒る者がいて、そのどちらにも宮宰は何をしていると書いてある」

 随分と乱暴な要約である。
 沙羅が裏返された新聞へ手を伸ばすと、周は茶を飲みながら、今度はそれを自分の方へ引き寄せた。

「せっかくの休みに、妻が僕の仕事の記事ばかり読んでいるのは面白くない」
「周様の記事を読んでいるわけではありません」
「それはそれで寂しいな」

 どちらなのだと沙羅は思ったが、言えば話が長くなることは分かっていたので、新聞は諦めて茶へ手を伸ばした。

 梔子の季節は、そろそろ終わろうとしていた。
 盛りの頃には庭を埋めるほど咲いていた白い花も数を減らし、枝によっては花弁の端が淡く黄ばんでいる。それでも志紋邸には古い株が多いため、葉陰には遅れて開いた花がまだ残っており、窓を開け放した食堂まで、朝の風に乗って甘い香りが届いていた。

 沙羅はその香りを吸い込みながら、庭の一角へ目を向けた。

 視線の先にあるのは、ここ十日ほど毎朝のように眺めてきた梔子だ。触れると決めたはずが、翌朝になれば指を伸ばせず、その次の日も同じで、それでも周は一度も「いつ触れるのか」と尋ねなかった。

「……周様」
「うん?」
「今日、お庭へ行きませんか」

 茶器を置いた周が沙羅を見る。

「もちろん。僕もちょうど――」
「剪定はなさいませんよ」
「まだ何も言っていないよ」
「お顔に書いてあります」
「君は近頃、僕に対して随分と容赦がなくなったね」

 そう言いながらも、周は少し嬉しそうだった。沙羅も笑い、残っていた茶を飲み終えた。

 声が出るようになってから十日が経つが、今でも自由に話せるわけではない。朝は喉が強張って音にならないことがあり、長く話せば途中で掠れるため、筆談に戻る日も少なくなかった。

 それでも、出なければ書き、筆を取りたくなければ唇や手で伝えればよいと分かった今、声は「戻ったかどうか」を試すものではなく、幾つもある伝え方の一つになっていた。周もどの方法を選ぶかで態度を変えることはなく、ただ沙羅が不意に名前を呼んだ時だけは、隠しきれない喜びを顔に出している。
     

 朝餉を終えると、二人は庭へ降りた。
 初夏の陽射しは朝から明るかったが、庭の奥には古木が多く、枝葉の下へ入れば涼しい。夜露の名残を留めた草から青い匂いが立ち、そこへ梔子の甘い香りが重なって、幼い頃から知っている志紋家の夏の匂いになっていた。

 沙羅が庭の奥へ向かうと、周は行き先を尋ねず隣を歩き、やがて志紋邸でもとりわけ古い梔子の前で二人は足を止めた。幹は長い年月のうちに幾つにも分かれ、根元には苔までついているが、今年も枝のあちこちへ白い花を残している。

 沙羅が生まれるより前からここにあり、父と母が生きていた頃にも同じ庭で咲いていたのに、十年前から一度も触れられずにいた木だった。

 沙羅は白い花を見つめた。
 この木に何が残っているのかは分からず、あの日の朝に屋敷を出ていく父母かもしれなければ、二人が戻らないと知った使用人の悲しみや、もっと昔に誰かが流した涙かもしれない。

 美しい花へ手を伸ばしただけで、自分では選べない他人の憎しみや悲しみまで受け取ってしまうことがあるからこそ、沙羅は十年間、触れないことで自分を守ってきたのであり、その選択まで否定するつもりはなかった。

 沙羅は梔子を見たまま、隣にいる人を呼んだ。

「周様」
「うん」
「……傍にいてください」

 周は花を見ようともせず、沙羅の方だけを見て頷いた。

「いるよ」

 出会った日から変わらないその在り方に背を押されるように、沙羅は梔子と向き直った。

 沙羅は梔子へ手を伸ばし、途中で止まりかけた指を今度は引かず、そのまま朝露をまとった白い花弁に触れた。

 柔らかな感触が皮膚に伝わったあと、目の前を満たしていた朝の光が、ゆるやかに形を変えた。
     

 最初に感じたのは、梔子の香りだった。
 今よりも濃く、夏の陽射しに温められた甘い匂いが庭いっぱいに満ちている。

 流れ込んできたのは十年前よりもさらに古い、輪郭の淡い記憶だった。長い年月を根と枝の中で過ごしたためか、人の顔も景色も水の向こうにあるように霞んでいるのに、そこに残った感情だけは驚くほど明瞭で、誰かに勝った喜びでも何かを手に入れた満足でもなく、ただそこにいる命そのものを慈しむような温かさが、古い梔子の奥に深く染み込んでいた。

 やがて霞んでいた景色の中で、人影が浮かび上がった。
 浮かび上がったのは、沙羅の記憶にある姿より幾分若い父で、普段は整えていた髪を少し乱しながら、白い布に包まれた赤子を壊れ物のように抱いている。母とのやり取りに困り果てながらも腕の中から目を離せないその姿を見て、沙羅は十七年前、生まれたばかりの自分を父が抱いているのだと気づいた。

『あなた、もう少し笑ってくださいな。そんなに怖い顔をしていたら、この子まで泣いてしまいますよ』
『無茶を言うな。こんなに小さいんだぞ。少し腕を動かしただけで壊してしまいそうじゃないか』
『先ほどまでは、早く抱かせてくれと仰っていたでしょう』
『それとこれとは話が違う』

 母が声を立てて笑い、父も困ったように眉を下げながら腕の中の赤子から目を離そうとしない。その表情には見覚えがあり、古い藤の記憶で幼い沙羅を肩へ乗せていた父と同じ人なのだと分かった。

 けれど今の父は、それよりもずっと不慣れで、どう触れればよいのか分からないほど大切なものを腕に抱いている。

 母が赤子の頬へ指を添えて「沙羅」と名前を呼ぶと、父も腕の中を覗き込み、その響きを確かめるように同じ名を口にした。

『沙羅』

 父が「沙羅」と呼ぶ声を聞いた瞬間、十年間ほどけなかったものが胸の中で軋んだ。馬車の中で抱き寄せられ、「何も喋ってはいけない」と告げられた最後の声を何度も思い返すうち、いつしか父の声そのものとあの命令を切り離せなくなっていたが、父はあの日よりずっと前から娘の名を呼んでいた。

 生まれたばかりの身体を壊してしまいそうだと怖がりながら、それでも誰にも渡したくないような顔で腕に抱き、喜びの中で何度も「沙羅」と呼んでいた。

『綺麗な名前でしょう』

 父は「ああ」と頷き、この子がどんな子になるのかと尋ねられてから、しばらく赤子を見つめた末に「元気なら、それでいいよ」と答えた。

 欲を言えばよく笑う子がいいという父に、母が「あなたに似たら、きっとよく笑いますよ」とからかい、父もその意味を問い返しながら、結局は一緒になって笑った。

 沙羅は、二人の笑い声を聞きながら泣いた。
 花の記憶が滲んでいるのか、自分の涙で見えなくなっているのか、もう分からなかった。

 涙で景色が滲んでも、父と母が自分の誕生を喜び、ただ幸せそうに笑っていることだけは分かった。十年前の事件にも、誰かを裁く証拠にも繋がらない、生まれたばかりの娘を二人で抱いた時間だけを、古い梔子は十七年ものあいだ静かに抱いていた。