梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

『すぐには難しいかもしれません』

 書き上げた文字を見せると、周は一度頷いた。

「構わない。僕も、君が書き終わるまで待つことを覚える」

 沙羅は少し考え、続けて筆を動かす。

『織部様は、特に必要だと思います』
「何故?」
『よくお話しになるので』

 周は紙へ目を落としたまま、しばらく動かなかった。

「僕が?」

 沙羅が頷くのを見て、周はますます納得がいかないらしく眉を寄せた。

「話しすぎると?」

 もう一度頷くと、隣にいた叔父が顔を背け、口元に手を当てた。

「昨日は初対面だったから、場を和ませようとしただけなのだが」
『花のお話を随分なさいました』
「花は大切だろう」
『ご自分で育てた花についても』
「愛をこめて育てたものだからね」
『宮中の庭師の方と喧嘩をしたお話も』
「あれは喧嘩ではなく議論だよ」

 沙羅はそこで筆を止めた。まだ続きがあると思ったのか、周も口を閉ざし、彼女の手元を覗き込むことなく待っている。

 昨日から同じだった。自分が喋っている時には、いくらでも言葉が出てくるらしい。それなのに沙羅が筆を取れば、書き終えるまで待つことを、誰から教えられるでもなく繰り返している。

 昨日会ったばかりの男にとっては、取るに足りない振る舞いなのかもしれない。
 だが沙羅にとっては違った。

『待ってくださるなら、私も伝えるようにいたします』

 周は文字を最後まで読み、顔を上げた。

「約束しよう。僕は待つ。だから君は、僕に伝えることを諦めない」

 沙羅が頷くと、それまで黙って二人を見ていた叔父が、長く息を吐いてから口を開く。

「では、この婚姻を進めてもよいのだな」

 今度は叔父に答えを委ねる気になれなかった。
 沙羅は新しい紙へ一文字を書き、それを二人の前へ置く。

『はい』
「もちろんです」

 周の声がほとんど同時に重なった。
 叔父は二人を見比べ、何か言おうとして口を閉ざすと、朝廷と織部家へ正式な返書を送るため席を立った。

 襖が閉じられ、座敷に残ったのは沙羅と周だけになる。
 昨日も二人きりになる時間はあった。それなのに今はもう、同じ相手を前にしているとは思えない。このまま話が進めば、目の前の男は自分の夫となり、織部の家を出て、この屋敷で暮らすことになる。
 意識した途端に落ち着かなくなり、沙羅は庭へ目を向けた。

「梔子が多いね」

 周も同じ方を見ている。

「昨日から気になっていたのだが、あれだけ古い株がまとまって残っている庭は珍しい。随分と大切に育てられてきたのだろう」

 花の話になったことへ呆れるより先に、沙羅は梔子を見つめた。
 今はまだ濃い葉ばかりだが、初夏が深まれば枝いっぱいに白い花が咲き、開け放した座敷まで甘い香りが流れ込んでくる。子どもの頃には好きだった季節を、いつから待たなくなったのかは思い出せない。

「君は、あの花も眺めるのは好き?」
『好きです』
「そうか」

 周はそれ以上尋ねなかった。
 誰が植えたのかとも、触れたことはあるのかとも聞かず、庭に出て近くで見たいとも言わない。花をあれほど好む人なら興味を持って当然だろうに、沙羅が自分から差し出さなかったものへは手を伸ばそうとしなかった。

 昨日から、何度も同じことを思う。
 よく喋る人なのに、沙羅が言葉にしたくないことについては、何ひとつ尋ねない。

「花が咲く頃には、僕もここにいるのかな」

 周が庭を見ながら呟いた。
 婚礼の日取りはまだ決まっていないが、両家とも話を急ぐ意向だと叔父から聞いている。早ければ梔子が盛りを迎える頃には、彼は織部家を離れて志紋家へ移っているのかもしれない。

「志紋周、か」

 自分のものになるはずの名を試すように、周は口の中で繰り返した。

「悪くないな」

 そう言って沙羅へ顔を向け、口元を緩める。

「これからよろしく、美しい人」

 沙羅は紙を引き寄せた。

『沙羅です』

 周が目を瞬く。
 その下へ、もう一行を加える。

『美しい人、ではありません』

 文字を読み終えた周は、しばらく紙を眺めていた。
 気を悪くしたようには見えない。むしろ思いがけないところから一本取られたような顔をして、それから沙羅へ視線を戻す。

「分かった。では、沙羅」

 呼ばれた名前が、雨上がりの座敷へ穏やかに落ちた。
 叔父にも使用人にも、これまで幾度となく呼ばれてきた名前である。それでも昨日まで自分とは何の関係もなかった男が、これから夫になる人として呼ぶ声には、聞き慣れたはずの二文字を少しだけ違うものにする響きがあった。

 返事を書く必要はないと思い、沙羅は小さく頷く。周もそれだけで受け取ったらしく、同じ名前を重ねて呼ぶことはせず、再び庭へ目を向けた。

 白い花の咲く季節は、もう遠くない。
 その頃、自分がどんな顔でこの庭を眺め、隣にいる人とどのように暮らしているのか、沙羅にはまだ想像できなかった。ただ、昨日まで思い描いていた婚姻とは違うものになりそうだという予感だけが、雨の名残を含んだ庭の匂いとともに胸へ残っている。

 夫になる男は、沙羅に声を求めなかった。
 その代わり、伝えることを諦めないでほしいと言った。
 十年前から閉ざされたままの声ではなく、今も自分の内に残っている言葉を見ようとする人に、沙羅は初めて出会ったのかもしれなかった。