晩餐会は途中で打ち切られたが、条約交渉そのものが止まることはなかった。
翌朝、帝国側はルゼリア使節団へ正式に謝罪し、榊原孝惟と関係者を帝国の法に基づいて裁くこと、十年前の使節襲撃についても再調査の結果をすべて共有することを約束した。
二度にわたって同じ国で交渉妨害に巻き込まれた以上、使節団長がその場ですぐ再開を承諾しなかったのは当然だったが、帝国側が内情を伏せず、十年前の再調査まで含めて共有すると約束したこともあって、数日後には協議が再び始まった。
その理由について周は、「十年前と違い、今回は自分たちの中にいた犯人を隠さなかったことが大きかったのだろう」と話した。
正式調印の日、沙羅は宮中に行かなかった。
今度は周の仕事を見たいとも書かなかったし、周も誘わなかった。
ただ朝、出かける前に彼はいつものように沙羅の部屋を訪れ、すっかり日常になった言葉を口にした。
「行ってくる」
沙羅は紙を持っていなかった。
喉に手を添え、力を入れすぎないよう呼吸を整える。
声はまだ自由には出なかった。朝起きた時には何をしても音にならず、昼を過ぎた頃になって一言だけ出る日もあり、前日にできたことが翌日にはできないこともある。
それでも、声が出ない朝を失敗だと思うことはなくなっていたし、周も一度として無理に試そうとはしなかった。
沙羅は喉の緊張がほどけるのを待ち、ゆっくり口を開いた。
「……いって、らっしゃい」
途中で声は掠れたものの、周にはきちんと届いたらしく、扉に向かいかけていた足が止まった。
「沙羅」と振り返る彼に、遅れると告げてもなお「今のをもう一度」と頼もうとするので、沙羅が黙って扉を指すと、宮宰は心底名残惜しそうな顔をしながらも素直に頷いた。
「はい。行ってきます」
扉が閉じたあと、沙羅は一人になった部屋で小さく笑った。
その日の夕刻、新しい条約が正式に調印された。
十年前には結ぶことのできなかった条約であり、帝国側が望んだ条件のすべてを一度に得られたわけではないが、外国人への裁判権をめぐる条項は大幅に改められ、関税についても以前より広い裁量が認められたうえ、数年後に再協議することまで文書に盛り込まれたという。
周が「完全でなくても、目の前にある一歩まで捨てる必要はない」と話すのを聞きながら、沙羅は完全ではないものを受け取ることを屈辱と考え、より良い未来を望むあまり、その一歩を自ら壊した十年前の鴻上を思った。
一度ですべてを得られなかったからといって、目の前の一歩まで捨てる必要はないという周の言葉を聞きながら、沙羅は自分の声についても、彼が同じように向き合っていることを思った。
あの夜に一度声が出たからといって翌日から話せるはずだとは言わず、以前の自分に戻ることも求めない。書きたい時には書けばよく、唇で伝えたい時にはそうすればよいと、できたことだけをその日のものとして受け取っている。
沙羅は紙へ『おめでとうございます』と記してから、少し考えて筆を置き、喉へ指を添えた。
「……お疲れ、さまでした」
掠れながらも届いた言葉に、周の顔に笑みが広がった。
「今日は贅沢だな。朝も聞けて、帰ってからも聞けた」
沙羅は眉を寄せ、もう一度筆を取った。
『でしたら、明日はお休みにいたします』と差し出すと、周は明らかに不服そうな顔をしたが、声を出してほしいとは言わず、「それは随分厳しいな」と肩を落とした。その反応がおかしくて、沙羅は紙を伏せながら笑う。
父と母が戻らないことも、声を失った十年が消えないことも変わらないけれど、失われた時間の続きを、同じ形に戻さなければならない理由もまたなかった。
終わったものだけではなく、これから続いていくものまで自分の中で増え始めていることを、沙羅は以前ほど怖がらずに受け入れられるようになっていた。
夕餉を終えたあと、二人は庭へ出た。
庭の梔子は満開で、夜の闇の中で白い花が浮かび、昼間より濃くなった香りが一面に満ちていた。
幼い頃から何度も見てきた、父と母が暮らした家を自分が生まれるより前から見守ってきた花なのに、十年前からは自分だけが触れられないまま、その前に長く立つことさえ避けてきた。
指を伸ばした先に残っているのが事故の日なのか、母が泣いた日なのか、それとも父が誰かと争った記憶なのかは分からず、そう考えれば今でも怖さは残っていた。
沙羅は手を上げかけたものの、花弁へ届くより前に動きを止め、隣にいる周を見た。
「……明日」
喉から出た声は小さかったが、今夜はきちんと音になった。
周は一度梔子を見てから何の未練も見せずに頷き、「では、明日にしよう」とだけ答えた。今日できなかったのなら明日はできるだろうと励ますことも、触れなかったことを惜しむこともなく、沙羅が「今日ではない」と決めたことをそのまま受け取ってくれたことが嬉しかった。
二人で屋敷へ戻ろうと歩き始めた途中、沙羅は周の袖へ手を伸ばしかけ、そこで少し迷った。
これまでは袖の端を掴むことの方が多かったが、今夜は少し迷った末にその手へ指を重ね、振り向いた周に理由を問われても首を振った。説明したいのではなく、ただ手を繋いで歩きたかった。
周も聞き直さず、沙羅の指へ自分の指を絡めるように握り返した。
夜の庭には梔子の香りが漂い、その向こうでは夏の虫が鳴いている。
明日、花に触れた時に何を見るのかは分からない。
恐怖そのものが消えたわけではない。それでも、怖いことと進めないことは同じではなく、父の言いつけを守って生き残った命をこれからどう使うのかは、自分で選べるのだと今は分かっている。
その命から初めて放った声で守れた人が隣を歩いていることを、沙羅は繋いだ手の温度とともに確かめた。
沙羅はその手に力を込める。
周が気づいてこちらを向いたので、今度は視線を逸らさず、そのまま名前を呼んだ。
「……周様」
「うん」
名前を呼ぶだけでも、まだ喉には力がいる。
それでも晩餐会で叫んだ時とは違い、恐怖に追われたからではなく、自分から呼びたいと思って、この人の名前を口にできた。そのことの方が、沙羅には大切だった。
「おやすみ……なさい」
周は一瞬だけ目を見開き、それから笑った。
「おやすみ、沙羅」
その声を聞きながら、沙羅も笑う。
今夜は、まだ梔子に触れなくていい。
父と母が残した記憶へ手を伸ばすのは明日の朝にして、それまでは隣にいる人と過ごすこの夜を、自分の記憶として残しておきたかった。
翌朝、帝国側はルゼリア使節団へ正式に謝罪し、榊原孝惟と関係者を帝国の法に基づいて裁くこと、十年前の使節襲撃についても再調査の結果をすべて共有することを約束した。
二度にわたって同じ国で交渉妨害に巻き込まれた以上、使節団長がその場ですぐ再開を承諾しなかったのは当然だったが、帝国側が内情を伏せず、十年前の再調査まで含めて共有すると約束したこともあって、数日後には協議が再び始まった。
その理由について周は、「十年前と違い、今回は自分たちの中にいた犯人を隠さなかったことが大きかったのだろう」と話した。
正式調印の日、沙羅は宮中に行かなかった。
今度は周の仕事を見たいとも書かなかったし、周も誘わなかった。
ただ朝、出かける前に彼はいつものように沙羅の部屋を訪れ、すっかり日常になった言葉を口にした。
「行ってくる」
沙羅は紙を持っていなかった。
喉に手を添え、力を入れすぎないよう呼吸を整える。
声はまだ自由には出なかった。朝起きた時には何をしても音にならず、昼を過ぎた頃になって一言だけ出る日もあり、前日にできたことが翌日にはできないこともある。
それでも、声が出ない朝を失敗だと思うことはなくなっていたし、周も一度として無理に試そうとはしなかった。
沙羅は喉の緊張がほどけるのを待ち、ゆっくり口を開いた。
「……いって、らっしゃい」
途中で声は掠れたものの、周にはきちんと届いたらしく、扉に向かいかけていた足が止まった。
「沙羅」と振り返る彼に、遅れると告げてもなお「今のをもう一度」と頼もうとするので、沙羅が黙って扉を指すと、宮宰は心底名残惜しそうな顔をしながらも素直に頷いた。
「はい。行ってきます」
扉が閉じたあと、沙羅は一人になった部屋で小さく笑った。
その日の夕刻、新しい条約が正式に調印された。
十年前には結ぶことのできなかった条約であり、帝国側が望んだ条件のすべてを一度に得られたわけではないが、外国人への裁判権をめぐる条項は大幅に改められ、関税についても以前より広い裁量が認められたうえ、数年後に再協議することまで文書に盛り込まれたという。
周が「完全でなくても、目の前にある一歩まで捨てる必要はない」と話すのを聞きながら、沙羅は完全ではないものを受け取ることを屈辱と考え、より良い未来を望むあまり、その一歩を自ら壊した十年前の鴻上を思った。
一度ですべてを得られなかったからといって、目の前の一歩まで捨てる必要はないという周の言葉を聞きながら、沙羅は自分の声についても、彼が同じように向き合っていることを思った。
あの夜に一度声が出たからといって翌日から話せるはずだとは言わず、以前の自分に戻ることも求めない。書きたい時には書けばよく、唇で伝えたい時にはそうすればよいと、できたことだけをその日のものとして受け取っている。
沙羅は紙へ『おめでとうございます』と記してから、少し考えて筆を置き、喉へ指を添えた。
「……お疲れ、さまでした」
掠れながらも届いた言葉に、周の顔に笑みが広がった。
「今日は贅沢だな。朝も聞けて、帰ってからも聞けた」
沙羅は眉を寄せ、もう一度筆を取った。
『でしたら、明日はお休みにいたします』と差し出すと、周は明らかに不服そうな顔をしたが、声を出してほしいとは言わず、「それは随分厳しいな」と肩を落とした。その反応がおかしくて、沙羅は紙を伏せながら笑う。
父と母が戻らないことも、声を失った十年が消えないことも変わらないけれど、失われた時間の続きを、同じ形に戻さなければならない理由もまたなかった。
終わったものだけではなく、これから続いていくものまで自分の中で増え始めていることを、沙羅は以前ほど怖がらずに受け入れられるようになっていた。
夕餉を終えたあと、二人は庭へ出た。
庭の梔子は満開で、夜の闇の中で白い花が浮かび、昼間より濃くなった香りが一面に満ちていた。
幼い頃から何度も見てきた、父と母が暮らした家を自分が生まれるより前から見守ってきた花なのに、十年前からは自分だけが触れられないまま、その前に長く立つことさえ避けてきた。
指を伸ばした先に残っているのが事故の日なのか、母が泣いた日なのか、それとも父が誰かと争った記憶なのかは分からず、そう考えれば今でも怖さは残っていた。
沙羅は手を上げかけたものの、花弁へ届くより前に動きを止め、隣にいる周を見た。
「……明日」
喉から出た声は小さかったが、今夜はきちんと音になった。
周は一度梔子を見てから何の未練も見せずに頷き、「では、明日にしよう」とだけ答えた。今日できなかったのなら明日はできるだろうと励ますことも、触れなかったことを惜しむこともなく、沙羅が「今日ではない」と決めたことをそのまま受け取ってくれたことが嬉しかった。
二人で屋敷へ戻ろうと歩き始めた途中、沙羅は周の袖へ手を伸ばしかけ、そこで少し迷った。
これまでは袖の端を掴むことの方が多かったが、今夜は少し迷った末にその手へ指を重ね、振り向いた周に理由を問われても首を振った。説明したいのではなく、ただ手を繋いで歩きたかった。
周も聞き直さず、沙羅の指へ自分の指を絡めるように握り返した。
夜の庭には梔子の香りが漂い、その向こうでは夏の虫が鳴いている。
明日、花に触れた時に何を見るのかは分からない。
恐怖そのものが消えたわけではない。それでも、怖いことと進めないことは同じではなく、父の言いつけを守って生き残った命をこれからどう使うのかは、自分で選べるのだと今は分かっている。
その命から初めて放った声で守れた人が隣を歩いていることを、沙羅は繋いだ手の温度とともに確かめた。
沙羅はその手に力を込める。
周が気づいてこちらを向いたので、今度は視線を逸らさず、そのまま名前を呼んだ。
「……周様」
「うん」
名前を呼ぶだけでも、まだ喉には力がいる。
それでも晩餐会で叫んだ時とは違い、恐怖に追われたからではなく、自分から呼びたいと思って、この人の名前を口にできた。そのことの方が、沙羅には大切だった。
「おやすみ……なさい」
周は一瞬だけ目を見開き、それから笑った。
「おやすみ、沙羅」
その声を聞きながら、沙羅も笑う。
今夜は、まだ梔子に触れなくていい。
父と母が残した記憶へ手を伸ばすのは明日の朝にして、それまでは隣にいる人と過ごすこの夜を、自分の記憶として残しておきたかった。



