梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 控えの間に移ってから半刻も経たないうちに、榊原孝惟が拘束されたという知らせが届いた。

 地下の搬入口に兵が踏み込んだ時、榊原は装花を運び込んだ木箱の一部に火を放とうとしていたらしく、箱の底からは花器に仕込まれたものと同じ金具の予備が見つかり、さらに今夜の会場図や周の立ち位置を示す紙、下役へ金を渡した記録まで残されていたという。

 逃亡の準備をしていなかった理由も、そこで分かった。
 榊原は晩餐会の混乱に紛れ、自分も被害を受けた側として振る舞うつもりだったらしい。

 宮宰である周がルゼリア使節を迎える晩餐会で死亡し、その後に外国製の金具やレフィア由来の花粉が見つかれば、疑いは自然とルゼリア側へ向く。

 たとえ周を殺せなかったとしても、外国使節まで巻き込む重大事件が起これば交渉を止めるには十分であり、帝国の内側から外国側の仕業に見せかけて交渉を壊すという発想は、十年前と少しも変わっていなかった。

 外国側の仕業に見せかけながら帝国の内側から交渉を壊し、自分たちの望まない条約を成立させないために、人の命まで手段にする。

 ただ一つ、十年前と違っていたのは、今度の帝国がその事実を隠さなかったことだった。
 使節団長にはすぐ事情が伝えられ、宮中の人間が関わった可能性も含め、軍府と朝廷が共同で捜査に入ったことまで明かされたという。

 沙羅は控えの間の椅子に腰掛け、周からそこまでの話を聞いていた。

 周は無事で、落ちた燭台の一部が肩を掠めたらしく衣服には薄く汚れが残っていたが、腕は怪我一つなく普通に動いている。それでも沙羅は、話を聞く間何度も顔を見てしまい、ほんの少し遅ければ、あの一声が出なければという想像が頭を掠めるたび、目の前にいることを確かめてからでなければ次の息をつけなかった。

「沙羅」

 呼ばれて顔を上げると、周は少し言いにくそうに口を開いた。

「さっきのことだけれど」

 何を言われるのか分かり、沙羅は喉へ手を添えた。

 声が出たのは、あの一度だけだった。控えの間に移ってから何度か息を整えてみたものの、喉は再び閉じたように音を作らず、無理をすれば痛みばかりが残った。

 ところが周は、もう一度出してみてほしいとは言わなかった。

「無理に確かめなくていい。出るかどうかを試さなくても、僕は聞いたから」

 沙羅が周を見ると、嬉しくないはずはないことくらい、その顔から十分に伝わってきた。それでも彼は「声が戻った」とも「治った」とも言わず、今夜一度届いた声を、ただその一度のものとして大切に受け取っている。

「ちゃんと届いたよ」

 その言葉を聞いた途端、目の奥がじわじわと熱くなった。

「僕が死ぬと思った?」

 沙羅が頷くと、周は沙羅の口元を見つめたまま、少し眉を下げた。

「ごめん」

 沙羅はすぐに首を振った。謝ってほしいのでも、危険な場所にいたことを責めたいのでもない。ただ失いたくなかったのだと伝えたいのに、その感情を今すぐ紙に記せば。何か大切なものまで整いすぎてしまうような気がして、筆へ手を伸ばすこともできなかった。

 迷っているうちに涙が頬を伝う。周は困ったように顔を覗き込んだ。

「泣かれると、僕は本当に弱いね」

 その顔を見ているうちに、沙羅は少しだけ笑った。
 すると周も安心したように表情を和らげたが、しばらくして何か言いかねていることに気づき、沙羅は卓上の紙へ、『何ですか』と書いた。

 周は紙を読んでから、珍しく躊躇うように目を逸らした。

「……もう一度、聞きたいとは思っている」

 沙羅は首を傾げる。

『何をですか』
「僕の名前」

 紙を持った手が止まった。
 周は慌てたように続ける。

「もちろん、今すぐ声を出してほしいという意味じゃないよ。今夜でなくてもいいし、明日でなくてもいい。来年でも、もっと先でも、君が自分から話したいと思った時に――」

 沙羅は途中まで聞いたところで筆を走らせ、出来上がった紙を周へ向けた。

『しつこいです』

 周は紙を読み終えて口を閉ざし、それから不服そうに言った。

「まだ最後まで言っていないんだけど」
『分かります』
「分かってしまうのか」
『分かります』

 肩を落とした周の顔が、本気で残念そうだった。
 ほんの少し前まで、この人を失うかもしれないと思っていた。
 今は目の前で、名前をもう一度呼んでもらえないだけで落ち込んでいる。
 その落差が可笑しくて、沙羅は笑った。

 初めはいつものように音のない笑いだったものが、肩を揺らした拍子に喉の奥から小さな音となって漏れ、沙羅は自分の耳へ届いたものに驚いて口元に手を当てた。

 向かいの周も目を見開いたまま動きを止め、その顔がまた可笑しくて笑いを止めようとするほど、先ほどまで身体を締めつけていたものがほどけるように、細く掠れた音が息と一緒に続いていく。

 それは思い通りの高さにもならず、ときおり空気だけになりながらも、紛れもなく沙羅自身の笑い声だった。

 周はらしくもなく黙ったまま、その笑いが途切れるまで聞いていた。その姿を見ているうち、沙羅は笑っているはずなのに再び涙が溢れてくるのを止められなかった。

 涙の向こうで、父の「私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ」という声が蘇った。

 十年間、身体のどこかは七歳の夜に置き去りにされ、父が続きを告げてくれる時を待っていたのかもしれないが、父が望んだのは娘の沈黙ではなく、その先まで生きることだった。

 あの時に守られた命を使って今夜は別の人を守れたのなら、声を出したことは父への背反ではなく、むしろあの言葉の先を自分で生きたことなのだと、沙羅は初めて思うことができた。

「……沙羅」

 周が名前を呼んだ。父も母も何度となく呼んでくれた名前を、今はこの人が呼んでいる。

 沙羅は涙で滲んだ目を上げ、まだ笑いの名残が残る息を整えながら口を開いた。

「しつこい……です」

 途中で少し掠れたものの、最後まで音になった。
 周の目が大きく見開かれたため、その反応に沙羅はまた笑ってしまう。

「しつこい、です」

 今度は先ほどより滑らかに言えた。

「聞こえた」

 周の声にも、いつもの調子にはない揺れが混じっていた。

「ちゃんと聞こえたよ」

 沙羅が頷くと、周はそれで十分なはずだった。
 少なくとも、沙羅はそう思った。
 ところがほんの数息も経たないうちに、周が期待を隠しきれない顔で身を乗り出してきた。

「もう一度――」
「……しつこいです」
「な、なにー?! 今の流れでも駄目なのか!?」

 控えの間に響いた声に、沙羅はとうとう堪えきれず、今度ははっきりと音を立てて笑った。

 掠れながらも笑い声は続き、ときおり息だけになって途切れても、また次の音が喉から零れた。

 周はしばらく呆然と聞いていたが、やがて自分も笑い始めた。

 十年前の馬車では声を殺すことで生き残り、今夜はその同じ声で大切な人を呼んだ。父の最後の命令として抱えてきた言葉は消えないまま、それでも意味だけが、沙羅の中で別の形へほどけ始めていた。