――倒れるだけでは足りない。
別の男が何かを答える。
――あれなら事故に見える。
――駄目だ。十年前とは違う。今回は奴を消さなければ交渉は止まらない。
その言葉を聞いた途端、沙羅の身体から血の気が引いていった。
奴が誰を指しているのかは考えるまでもない。さらに、「志紋の娘もいる」という聞き取りにくい声が重なったところで、記憶は唐突に途切れた。
沙羅が花から指を離すと、大広間の灯りも人々のざわめきも一度に戻ってきて、足元が大きく揺れた。
「大丈夫ですか」
傍にいたルゼリアの女性が顔を覗き込んできたが、沙羅は応じるより先に広間の中央へ視線を走らせた。
周はどこにいるのだろう。
ほどなく、使節団長と話している姿を見つける。そのすぐ背後には背の高い装花が置かれ、さらに上には装飾用の燭台が天井から吊り下げられていた。
先ほど記憶の中で見た図と同じ位置だった。
沙羅が花器へ触れていた侍従を探すと、男は柱の陰に身を寄せている。その手が腰のあたりへ下がり、何かを引くように動いた。
大きな花器が傾き始めるのとほとんど同時に、頭上から金属の軋む音が響く。
考えるより先に身体が動いた。
けれど周までは遠く、紙も筆も持っていても書いている時間はない。景に駆け寄ったところで間に合わないと悟り、沙羅は走りながら口を開いた。
途端に、喉の奥が強く閉ざされた。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
小さな沙羅が、暗い馬車の中で膝を抱えている。
父の腕に包まれ、母の身体に覆われ、声を出さないよう唇を噛みながら、外にいる誰かが通り過ぎるのを待っていた。
あの時の自分は、黙っていれば見つからず、声を出さなければ生きられると信じて父の言葉に縋った。けれど今なら、あれは娘の声を奪うための命令ではなく、何としても生き延びさせるために、父があの場で選んだ言葉だったのだと分かる。
視界の先では、まだこちらに気づいていない周が使節団長へ笑いかけ、その頭上では燭台を支えていた金具が外れ始めていた。
今、声を出せば、あの人を助けられるかもしれない。
そう思った瞬間にも、喉は十年前と同じように引き攣れ、吸い込んだ息さえ痛みに変わりそうになった。
それでも沙羅は、黙ることで生き延びた七歳の自分を否定したくはなかった。
あの時とは違う選択をするために、閉じようとする身体に逆らって息を吸う。
父の言葉を破るのではない。
あの日に守られた命を、今度は目の前の人を生かすために使うのだ。
沙羅は喉に力を込め、息を押し出した。
「――─あまねさまッ……!」
高く掠れた声が大広間を抜けていった。
それが自分の喉から出たものだと理解するより早く、周が振り向く。ほとんど同時に景が彼の腕を掴んで強く横へ引き、次の瞬間には大きな花器が床に叩きつけられ、陶器の砕ける音に重なるように、支えを失った燭台がほんの一瞬前まで周のいた場所に斜めに落ちた。
悲鳴とともに楽団の音が途絶えたが、配置されていた軍府の兵たちは崩れず、帝と使節団長を退避させる者、出口を封鎖する者、柱の陰から逃げようとした侍従を追う者へすぐに分かれていく。
その中で沙羅だけは動けず、喉に手を当てた。
十年間、一度も外へ出ることのなかった声が、確かに周へ届いた。
「沙羅!」
呼ばれて顔を上げると、周がこちらへ走ってくる。
顔にも身体にも深い傷がないことを見届けた途端、それまで辛うじて支えていた力が足から抜け、倒れかけた身体を周の腕が支えた。
無事だと言い聞かせるより先に涙が滲んだ。
生きて、目の前にいる。それだけでよかった。
「沙羅、怪我はないか? どこか痛いところは?」
沙羅が首を振ると、周は続けて花に触れたのかと尋ねた。
頷いたあと、何かを伝えようと口を開いたものの、今度は喉が閉ざされて音にならない。その様子を見た周は、何を見たのかと問いかけるより先に言った。
「いい。今は話さなくていい」
けれど、まだ終わってはいない。
榊原は捕まっておらず、花に残っていたものを今知らせなければ逃げられるかもしれない。
沙羅は強く首を振り、紙へ伸ばしかけた手を止めると、代わりに周の袖を掴んだ。
声が出なくても、二人にはもう別の伝え方がある。
周もすぐに分かったらしく、何も言わずに顔を寄せた。
沙羅は一音ずつ読めるように唇を動かす。
――地下。
「地下?」
頷き、続けて「搬入口」と形を作る。
「装花の搬入口?」
もう一度頷くと、周はすぐに景へ目を向けた。
沙羅はさらに唇を動かす。
――榊原。
「榊原が?」
――いる。
榊原本人の姿を見たわけではない。
それでも、花に残っていた記憶と、仕掛けを作っていた手の動きから、取り押さえられた侍従一人だけで準備されたものではないことは分かっていた。
周はそれ以上問い返さず、景へ向き直った。
「景、地下だ。装花の搬入口を見てくれ。榊原がいる可能性が高い」
「分かった」
景は数人の兵を連れ、そのまま広間を出ていった。沙羅も後を追おうとしたが、周に肩を支えられて足を止める。
「約束しただろう。危険があれば一緒に離れるって」
その言葉を聞き、沙羅はようやく景の背中を追うのをやめた。
真実を知るためなら、自分だけ危険に近づいてもよいわけではない。
今度は一人で追わず、周と交わした約束を守ってこの場を離れることもまた、自分で選べることなのだと分かっていた。
別の男が何かを答える。
――あれなら事故に見える。
――駄目だ。十年前とは違う。今回は奴を消さなければ交渉は止まらない。
その言葉を聞いた途端、沙羅の身体から血の気が引いていった。
奴が誰を指しているのかは考えるまでもない。さらに、「志紋の娘もいる」という聞き取りにくい声が重なったところで、記憶は唐突に途切れた。
沙羅が花から指を離すと、大広間の灯りも人々のざわめきも一度に戻ってきて、足元が大きく揺れた。
「大丈夫ですか」
傍にいたルゼリアの女性が顔を覗き込んできたが、沙羅は応じるより先に広間の中央へ視線を走らせた。
周はどこにいるのだろう。
ほどなく、使節団長と話している姿を見つける。そのすぐ背後には背の高い装花が置かれ、さらに上には装飾用の燭台が天井から吊り下げられていた。
先ほど記憶の中で見た図と同じ位置だった。
沙羅が花器へ触れていた侍従を探すと、男は柱の陰に身を寄せている。その手が腰のあたりへ下がり、何かを引くように動いた。
大きな花器が傾き始めるのとほとんど同時に、頭上から金属の軋む音が響く。
考えるより先に身体が動いた。
けれど周までは遠く、紙も筆も持っていても書いている時間はない。景に駆け寄ったところで間に合わないと悟り、沙羅は走りながら口を開いた。
途端に、喉の奥が強く閉ざされた。
――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
小さな沙羅が、暗い馬車の中で膝を抱えている。
父の腕に包まれ、母の身体に覆われ、声を出さないよう唇を噛みながら、外にいる誰かが通り過ぎるのを待っていた。
あの時の自分は、黙っていれば見つからず、声を出さなければ生きられると信じて父の言葉に縋った。けれど今なら、あれは娘の声を奪うための命令ではなく、何としても生き延びさせるために、父があの場で選んだ言葉だったのだと分かる。
視界の先では、まだこちらに気づいていない周が使節団長へ笑いかけ、その頭上では燭台を支えていた金具が外れ始めていた。
今、声を出せば、あの人を助けられるかもしれない。
そう思った瞬間にも、喉は十年前と同じように引き攣れ、吸い込んだ息さえ痛みに変わりそうになった。
それでも沙羅は、黙ることで生き延びた七歳の自分を否定したくはなかった。
あの時とは違う選択をするために、閉じようとする身体に逆らって息を吸う。
父の言葉を破るのではない。
あの日に守られた命を、今度は目の前の人を生かすために使うのだ。
沙羅は喉に力を込め、息を押し出した。
「――─あまねさまッ……!」
高く掠れた声が大広間を抜けていった。
それが自分の喉から出たものだと理解するより早く、周が振り向く。ほとんど同時に景が彼の腕を掴んで強く横へ引き、次の瞬間には大きな花器が床に叩きつけられ、陶器の砕ける音に重なるように、支えを失った燭台がほんの一瞬前まで周のいた場所に斜めに落ちた。
悲鳴とともに楽団の音が途絶えたが、配置されていた軍府の兵たちは崩れず、帝と使節団長を退避させる者、出口を封鎖する者、柱の陰から逃げようとした侍従を追う者へすぐに分かれていく。
その中で沙羅だけは動けず、喉に手を当てた。
十年間、一度も外へ出ることのなかった声が、確かに周へ届いた。
「沙羅!」
呼ばれて顔を上げると、周がこちらへ走ってくる。
顔にも身体にも深い傷がないことを見届けた途端、それまで辛うじて支えていた力が足から抜け、倒れかけた身体を周の腕が支えた。
無事だと言い聞かせるより先に涙が滲んだ。
生きて、目の前にいる。それだけでよかった。
「沙羅、怪我はないか? どこか痛いところは?」
沙羅が首を振ると、周は続けて花に触れたのかと尋ねた。
頷いたあと、何かを伝えようと口を開いたものの、今度は喉が閉ざされて音にならない。その様子を見た周は、何を見たのかと問いかけるより先に言った。
「いい。今は話さなくていい」
けれど、まだ終わってはいない。
榊原は捕まっておらず、花に残っていたものを今知らせなければ逃げられるかもしれない。
沙羅は強く首を振り、紙へ伸ばしかけた手を止めると、代わりに周の袖を掴んだ。
声が出なくても、二人にはもう別の伝え方がある。
周もすぐに分かったらしく、何も言わずに顔を寄せた。
沙羅は一音ずつ読めるように唇を動かす。
――地下。
「地下?」
頷き、続けて「搬入口」と形を作る。
「装花の搬入口?」
もう一度頷くと、周はすぐに景へ目を向けた。
沙羅はさらに唇を動かす。
――榊原。
「榊原が?」
――いる。
榊原本人の姿を見たわけではない。
それでも、花に残っていた記憶と、仕掛けを作っていた手の動きから、取り押さえられた侍従一人だけで準備されたものではないことは分かっていた。
周はそれ以上問い返さず、景へ向き直った。
「景、地下だ。装花の搬入口を見てくれ。榊原がいる可能性が高い」
「分かった」
景は数人の兵を連れ、そのまま広間を出ていった。沙羅も後を追おうとしたが、周に肩を支えられて足を止める。
「約束しただろう。危険があれば一緒に離れるって」
その言葉を聞き、沙羅はようやく景の背中を追うのをやめた。
真実を知るためなら、自分だけ危険に近づいてもよいわけではない。
今度は一人で追わず、周と交わした約束を守ってこの場を離れることもまた、自分で選べることなのだと分かっていた。



