宮中に着いた頃には、陽が西に傾き始めていた。
晩餐会のために開かれた大広間は、以前ルゼリア使節団を迎えた茶会の会場よりさらに奥にあり、帝が正式な国賓を迎える時にだけ使われる場所だという。高い天井から下がる灯火には夕刻を迎えるより早く明かりが入り、長卓には白い布と銀器が整然と並べられ、壁際や柱の間置かれた花々が、夏の始まりを思わせる淡い香りを広げていた。
華やかな場ではあるものの、今夜ばかりは軍服姿もよく目につく。
警備が強化されたことを客人に意識させないよう、礼装を整えた兵が侍従や宮中の官吏に混じる形で配置されているらしく、朝霧景も正面入口から少し離れた位置に立ち、人の顔より会場全体の動きへ注意を向けていた。
周は沙羅を連れて景のもとへ向かった。
「何かあった?」
「今のところ異常はない。搬入口も厨房も、始まる前にもう一度見直させてある」
景はそう答えてから沙羅へ顔を向けた。
「志紋夫人も、何かおかしいと思うことがあれば遠慮なく知らせてくれ。周より先に俺に伝えても構わない」
「何故僕より先なんだい」
「お前は聞いた瞬間、自分で確かめに行くだろう」
「それは随分な偏見だね」
「二十年以上お前を見てきた結果だ」
周が何か言い返そうとしたものの、ちょうどその時、朝廷の官吏が彼を呼びに来た。
今夜は条約の正式調印を目前に、双方が最終的な意思を確認するための席でもある。帝国側からは朝廷の重臣と外務担当者、軍府の代表が出席し、ルゼリア側からは使節団長を筆頭に、実際の交渉に携わってきた者たちが顔を揃えていた。
周が仕事へ戻らなければならないことは分かっていたので、沙羅は離れる前に紙を差し出した。
『私は朝霧様の近くにおります』
「それなら安心だ」
『旦那様も、お一人で勝手なことをなさらないでください』
「僕は君からどういう人間だと思われているんだろう」
「だいたい合っている」
景が横から口を挟むと、周は露骨に嫌そうな顔をしながらも、それ以上言い争う時間はないと判断したらしく、呼びに来た官吏とともに使節団の方へ向かった。
その背を見送りながら、沙羅は周囲へ目を向けた。
以前ここへ来た時には、人の多さや宮中そのものへ意識を奪われていたが、今日は卓上や柱の陰へ置かれたものの方が気になった。
装花はすべて改めて確認されたと聞いている。
中央の長卓には淡い色の薔薇に似た花と緑の枝物が低く飾られ、柱の間には背の高い花器が置かれている。どれも帝国内で祝いの席に使われることの多い花ばかりで、レフィアの姿は見当たらない。
もっとも、花に触れなければ記憶は読めず、触れたからといって必ず何かが分かるわけでもない。花に残るのは強い感情だけであり、しかも受け取れるものは断片にすぎないのだから、今夜この力を使えば犯人を見つけられるなどと考える方が危険だった。
周もそのことはよく分かっている。今夜は見るだけでよいのだと、沙羅も自分に言い聞かせていた。
やがて帝が入場し、晩餐会が始まった。
周は帝と使節団長の間を取り持ちながら、一つの席に長く留まることなく動いている。料理が運ばれ、楽団が穏やかな曲を奏で始めると、榊原一人を探して帝都中が動いていたことなど嘘のように、表面上は何事もない夜が流れ始めた。
このまま終わればよい。そう願える程度には、異変らしい異変はなかった。
だからこそ、柱の傍らに置かれた花器を直している一人の侍従が気になった時も、沙羅はすぐに危険と結びつけなかった。
それは若い侍従で、宮中の者たちが似た仕立ての衣装を身につけているせいもあり、顔に覚えがなければ見分けるのは難しい。会場の整備を担当する者が花器を直すこと自体は不自然ではなかったが、男は一度離れたあとで再び戻り、向きを確かめるように手を触れたのち、広間の中央にいる周へ視線を送ってから、人垣の向こうへ姿を消した。
景に知らせるべきか迷ったものの、まだ何も起きていない以上、顔を見失わないようにしておこうと考えた、その直後だった。
先ほどの花器の傍らに、一人のルゼリア人女性が立った。
使節団に同行している貴婦人らしく、隣の人物と談笑しながら身振りを交えた際、袖が花器の上部へ触れる。
細長い器が傾いた。女性が驚いて手を伸ばしたため、沙羅も咄嗟にそちらへ歩み寄り、反対側から支えようと手を出した。
触れたのは陶器の縁だけのつもりだった。
ところが指先に柔らかな花弁が触れた瞬間、灯りに満ちた大広間が視界から消え、代わりに薄暗い室内と、花を束ねる男の手が脳裏に入り込んできた。
記憶の中にいる男の顔までは見えないのに、花に沁みついた焦りと苛立ち、その奥にある恐怖に近い執念だけは息苦しいほど鮮明で、自分の思い通りにならなければ何もかも失われると信じ込んだ切迫感が沙羅の身体へ流れ込んでくる。
──今度こそ、止めなければならない。その声とともに視界の下に現れた紙には、今夜の大広間によく似た見取り図が描かれ、帝でも使節団長でもなく、広間の中央近くで宮宰が立つ位置に黒い墨の印がつけられていた。
次の瞬間には別の場面へ移り、手渡された細い金具が花器の支柱に仕込まれていくのが見えた。
晩餐会のために開かれた大広間は、以前ルゼリア使節団を迎えた茶会の会場よりさらに奥にあり、帝が正式な国賓を迎える時にだけ使われる場所だという。高い天井から下がる灯火には夕刻を迎えるより早く明かりが入り、長卓には白い布と銀器が整然と並べられ、壁際や柱の間置かれた花々が、夏の始まりを思わせる淡い香りを広げていた。
華やかな場ではあるものの、今夜ばかりは軍服姿もよく目につく。
警備が強化されたことを客人に意識させないよう、礼装を整えた兵が侍従や宮中の官吏に混じる形で配置されているらしく、朝霧景も正面入口から少し離れた位置に立ち、人の顔より会場全体の動きへ注意を向けていた。
周は沙羅を連れて景のもとへ向かった。
「何かあった?」
「今のところ異常はない。搬入口も厨房も、始まる前にもう一度見直させてある」
景はそう答えてから沙羅へ顔を向けた。
「志紋夫人も、何かおかしいと思うことがあれば遠慮なく知らせてくれ。周より先に俺に伝えても構わない」
「何故僕より先なんだい」
「お前は聞いた瞬間、自分で確かめに行くだろう」
「それは随分な偏見だね」
「二十年以上お前を見てきた結果だ」
周が何か言い返そうとしたものの、ちょうどその時、朝廷の官吏が彼を呼びに来た。
今夜は条約の正式調印を目前に、双方が最終的な意思を確認するための席でもある。帝国側からは朝廷の重臣と外務担当者、軍府の代表が出席し、ルゼリア側からは使節団長を筆頭に、実際の交渉に携わってきた者たちが顔を揃えていた。
周が仕事へ戻らなければならないことは分かっていたので、沙羅は離れる前に紙を差し出した。
『私は朝霧様の近くにおります』
「それなら安心だ」
『旦那様も、お一人で勝手なことをなさらないでください』
「僕は君からどういう人間だと思われているんだろう」
「だいたい合っている」
景が横から口を挟むと、周は露骨に嫌そうな顔をしながらも、それ以上言い争う時間はないと判断したらしく、呼びに来た官吏とともに使節団の方へ向かった。
その背を見送りながら、沙羅は周囲へ目を向けた。
以前ここへ来た時には、人の多さや宮中そのものへ意識を奪われていたが、今日は卓上や柱の陰へ置かれたものの方が気になった。
装花はすべて改めて確認されたと聞いている。
中央の長卓には淡い色の薔薇に似た花と緑の枝物が低く飾られ、柱の間には背の高い花器が置かれている。どれも帝国内で祝いの席に使われることの多い花ばかりで、レフィアの姿は見当たらない。
もっとも、花に触れなければ記憶は読めず、触れたからといって必ず何かが分かるわけでもない。花に残るのは強い感情だけであり、しかも受け取れるものは断片にすぎないのだから、今夜この力を使えば犯人を見つけられるなどと考える方が危険だった。
周もそのことはよく分かっている。今夜は見るだけでよいのだと、沙羅も自分に言い聞かせていた。
やがて帝が入場し、晩餐会が始まった。
周は帝と使節団長の間を取り持ちながら、一つの席に長く留まることなく動いている。料理が運ばれ、楽団が穏やかな曲を奏で始めると、榊原一人を探して帝都中が動いていたことなど嘘のように、表面上は何事もない夜が流れ始めた。
このまま終わればよい。そう願える程度には、異変らしい異変はなかった。
だからこそ、柱の傍らに置かれた花器を直している一人の侍従が気になった時も、沙羅はすぐに危険と結びつけなかった。
それは若い侍従で、宮中の者たちが似た仕立ての衣装を身につけているせいもあり、顔に覚えがなければ見分けるのは難しい。会場の整備を担当する者が花器を直すこと自体は不自然ではなかったが、男は一度離れたあとで再び戻り、向きを確かめるように手を触れたのち、広間の中央にいる周へ視線を送ってから、人垣の向こうへ姿を消した。
景に知らせるべきか迷ったものの、まだ何も起きていない以上、顔を見失わないようにしておこうと考えた、その直後だった。
先ほどの花器の傍らに、一人のルゼリア人女性が立った。
使節団に同行している貴婦人らしく、隣の人物と談笑しながら身振りを交えた際、袖が花器の上部へ触れる。
細長い器が傾いた。女性が驚いて手を伸ばしたため、沙羅も咄嗟にそちらへ歩み寄り、反対側から支えようと手を出した。
触れたのは陶器の縁だけのつもりだった。
ところが指先に柔らかな花弁が触れた瞬間、灯りに満ちた大広間が視界から消え、代わりに薄暗い室内と、花を束ねる男の手が脳裏に入り込んできた。
記憶の中にいる男の顔までは見えないのに、花に沁みついた焦りと苛立ち、その奥にある恐怖に近い執念だけは息苦しいほど鮮明で、自分の思い通りにならなければ何もかも失われると信じ込んだ切迫感が沙羅の身体へ流れ込んでくる。
──今度こそ、止めなければならない。その声とともに視界の下に現れた紙には、今夜の大広間によく似た見取り図が描かれ、帝でも使節団長でもなく、広間の中央近くで宮宰が立つ位置に黒い墨の印がつけられていた。
次の瞬間には別の場面へ移り、手渡された細い金具が花器の支柱に仕込まれていくのが見えた。



