晩餐会の当日、帝都は朝からよく晴れていた。
前日まで空を覆っていた雲は夜のうちに流れ去り、宮城に続く大通りには初夏とは思えないほど強い陽射しが落ちている。志紋邸の庭でも梔子が盛りを迎え、濃い緑の葉の間から白い花が次々と咲きそろっており、開け放した窓からは、風向きが変わるたびに青さを残した甘い香りが室内まで入り込んできた。
沙羅は侍女に髪を結われながら、鏡越しに庭を眺めていた。
今夜の晩餐会が何事もなく終われば、十年前から続いてきたものにも、ひとまず一つの区切りがつくのだろう。
鴻上宗成が自ら帝に十年前の件を申し出たことで、ルゼリア使節襲撃と志紋夫妻の死については正式な再調査が始まり、実行犯へ渡った金や偽造された警備命令、事故現場へ軍府より先に入り込んでいた者たちについても、すでに複数の記録と証言が揃いつつある。
父と母の死が馬車の事故として処理されたまま終わることは、もうないのだと周は昨夜そう話してくれたが、その一方で、榊原孝惟だけはいまだに見つかっていなかった。
榊原が朝廷から姿を消してから数日が経つが、自邸に戻った形跡も、親族や旧知の家を訪れた記録もなく、軍府が城門や駅舎にまで人を回してなお帝都を出た痕跡が見つからない以上、今もどこかに潜んでいると考えるほかなかった。
しかも榊原は、今夜の晩餐会に用いられる装花や会場設営の決裁にも関わっていたという。
すでに警備の担当者は入れ替えられ、飲食物は検められ、花器や燭台に至るまで一つずつ確認し直したと聞いている。
それでも沙羅の不安が消えないのは、十年前に使われたレフィアが、武器としてではなく、人の思い込みを誘うための道具として利用されていたことを知ってしまったからだった。
十年前の偽装を考えれば、警戒すべきなのは目に見える刃物だけではなく、誰が何を見て、何を信じ、どこへ疑いを向けるのかというところまで計算に入れて動く相手である以上、会場をすべて検め終えたと聞いても、それだけで安心することはできなかった。
「奥様、お支度が整いました」
侍女に声をかけられ、沙羅は鏡の中へ視線を戻した。
今夜選んだのは、深い藍色の衣装だった。華美な意匠は避けているが、袖と裾には銀糸で細かな草花の文様が刺され、灯りの下に出れば動きに合わせて淡い光が走る。
婚礼の日に纏った白とはまるで違う色でありながら、鏡に映る自分を見ても、あの時のように誰かのために仕立てられた役目を借りているような気はしなかった。
この衣装を選んだのも、今夜宮中へ行くと決めたのも自分なのだと鏡の中の姿を確かめてから部屋を出ると、廊下の向こうには、すでに支度を終えた周が待っていた。
宮宰として正式な外交晩餐会へ臨むため、いつも以上に隙のない装いを整えており、長い髪は高い位置でまとめられ、胸元には帝の名代として公務へ立つ者だけが許される章が留められている。普段から十分に人目を引く顔立ちなのに、こうした場へ出るため整えられると、本人が日頃口にする「美しいものを愛して何が悪い」という主張に、妙な説得力まで生まれてしまう。
ところが沙羅を見るなり、その宮宰は足を止めた。
婚礼の日にも同じような反応をしていたことを思い出し、何を言われるのか察した沙羅は、周が口を開くより早く紙を差し出した。
『何も仰らないでください』
まだ一言も発していなかったためか、周は見るからに不服そうな顔をした。
「僕はまだ何も言っていないよ」
『今から仰るところでしたでしょう』
「せめて一言くらい許してくれてもいいと思うのだけれど」
『駄目です』
「どうして?」
沙羅が紙を伏せると、周は今度は遠慮なく頭から足元まで眺め始めた。
沙羅は再び筆を取った。
『それもおやめください』
「見ることまで禁止されるのかい?」
『お顔に全部出ています』
「それは仕方がない。政治なら隠す必要もあるけれど、妻を見て綺麗だと思ったことまで隠して暮らすのは、僕には少し窮屈だ」
こういうことを何の気負いもなく言うから困るのだと、沙羅は紙へ書きかけ、結局やめた。
以前なら呆れて終わっていたはずなのに、今では言われるたびに視線の置き場所に困るようになったことを、本人だけが少しも気づいていない。
沙羅が顔を逸らすと、周もそれ以上からかうことはせず、差し出していた手のひらを少し上へ向けた。
「昨夜話したことを覚えている?」
その声音から先ほどまでの軽さが抜けたため、沙羅も表情を改めて頷いた。
「僕か景の見える場所から離れないこと、知らない花には触れないこと、気になるものを見つけても一人で確かめに行かないこと。それから危険が起きた時には、僕と一緒にその場を離れること」
最後の条件については、ずいぶん揉めた。
周を置いて自分だけ逃げるつもりはないと沙羅が譲らず、周もそれでは困ると認めなかったため、結局は互いを置いて行かないという形に落ち着いたのである。
『覚えております』
「なら、僕から言うことはもうないよ」
差し出された手に自分の手を重ね、二人で玄関へ向かいかけたところで、沙羅は足を止めた。
周が振り返り、繋いだ手を緩める。
「どうしたんだい?」
紙へ書こうとしてから、沙羅は持ち上げた筆を戻した。
唇だけで伝えることにも、以前ほどの恐れはなくなっている。
――帰りましょう。
周は一度で読み取り、確認するように目を細めた。
「一緒に?」
沙羅が頷くと、握られていた手に少し力が加わる。
「もちろん」
それ以上の言葉はなかったが、沙羅にはその一言で十分だった。
前日まで空を覆っていた雲は夜のうちに流れ去り、宮城に続く大通りには初夏とは思えないほど強い陽射しが落ちている。志紋邸の庭でも梔子が盛りを迎え、濃い緑の葉の間から白い花が次々と咲きそろっており、開け放した窓からは、風向きが変わるたびに青さを残した甘い香りが室内まで入り込んできた。
沙羅は侍女に髪を結われながら、鏡越しに庭を眺めていた。
今夜の晩餐会が何事もなく終われば、十年前から続いてきたものにも、ひとまず一つの区切りがつくのだろう。
鴻上宗成が自ら帝に十年前の件を申し出たことで、ルゼリア使節襲撃と志紋夫妻の死については正式な再調査が始まり、実行犯へ渡った金や偽造された警備命令、事故現場へ軍府より先に入り込んでいた者たちについても、すでに複数の記録と証言が揃いつつある。
父と母の死が馬車の事故として処理されたまま終わることは、もうないのだと周は昨夜そう話してくれたが、その一方で、榊原孝惟だけはいまだに見つかっていなかった。
榊原が朝廷から姿を消してから数日が経つが、自邸に戻った形跡も、親族や旧知の家を訪れた記録もなく、軍府が城門や駅舎にまで人を回してなお帝都を出た痕跡が見つからない以上、今もどこかに潜んでいると考えるほかなかった。
しかも榊原は、今夜の晩餐会に用いられる装花や会場設営の決裁にも関わっていたという。
すでに警備の担当者は入れ替えられ、飲食物は検められ、花器や燭台に至るまで一つずつ確認し直したと聞いている。
それでも沙羅の不安が消えないのは、十年前に使われたレフィアが、武器としてではなく、人の思い込みを誘うための道具として利用されていたことを知ってしまったからだった。
十年前の偽装を考えれば、警戒すべきなのは目に見える刃物だけではなく、誰が何を見て、何を信じ、どこへ疑いを向けるのかというところまで計算に入れて動く相手である以上、会場をすべて検め終えたと聞いても、それだけで安心することはできなかった。
「奥様、お支度が整いました」
侍女に声をかけられ、沙羅は鏡の中へ視線を戻した。
今夜選んだのは、深い藍色の衣装だった。華美な意匠は避けているが、袖と裾には銀糸で細かな草花の文様が刺され、灯りの下に出れば動きに合わせて淡い光が走る。
婚礼の日に纏った白とはまるで違う色でありながら、鏡に映る自分を見ても、あの時のように誰かのために仕立てられた役目を借りているような気はしなかった。
この衣装を選んだのも、今夜宮中へ行くと決めたのも自分なのだと鏡の中の姿を確かめてから部屋を出ると、廊下の向こうには、すでに支度を終えた周が待っていた。
宮宰として正式な外交晩餐会へ臨むため、いつも以上に隙のない装いを整えており、長い髪は高い位置でまとめられ、胸元には帝の名代として公務へ立つ者だけが許される章が留められている。普段から十分に人目を引く顔立ちなのに、こうした場へ出るため整えられると、本人が日頃口にする「美しいものを愛して何が悪い」という主張に、妙な説得力まで生まれてしまう。
ところが沙羅を見るなり、その宮宰は足を止めた。
婚礼の日にも同じような反応をしていたことを思い出し、何を言われるのか察した沙羅は、周が口を開くより早く紙を差し出した。
『何も仰らないでください』
まだ一言も発していなかったためか、周は見るからに不服そうな顔をした。
「僕はまだ何も言っていないよ」
『今から仰るところでしたでしょう』
「せめて一言くらい許してくれてもいいと思うのだけれど」
『駄目です』
「どうして?」
沙羅が紙を伏せると、周は今度は遠慮なく頭から足元まで眺め始めた。
沙羅は再び筆を取った。
『それもおやめください』
「見ることまで禁止されるのかい?」
『お顔に全部出ています』
「それは仕方がない。政治なら隠す必要もあるけれど、妻を見て綺麗だと思ったことまで隠して暮らすのは、僕には少し窮屈だ」
こういうことを何の気負いもなく言うから困るのだと、沙羅は紙へ書きかけ、結局やめた。
以前なら呆れて終わっていたはずなのに、今では言われるたびに視線の置き場所に困るようになったことを、本人だけが少しも気づいていない。
沙羅が顔を逸らすと、周もそれ以上からかうことはせず、差し出していた手のひらを少し上へ向けた。
「昨夜話したことを覚えている?」
その声音から先ほどまでの軽さが抜けたため、沙羅も表情を改めて頷いた。
「僕か景の見える場所から離れないこと、知らない花には触れないこと、気になるものを見つけても一人で確かめに行かないこと。それから危険が起きた時には、僕と一緒にその場を離れること」
最後の条件については、ずいぶん揉めた。
周を置いて自分だけ逃げるつもりはないと沙羅が譲らず、周もそれでは困ると認めなかったため、結局は互いを置いて行かないという形に落ち着いたのである。
『覚えております』
「なら、僕から言うことはもうないよ」
差し出された手に自分の手を重ね、二人で玄関へ向かいかけたところで、沙羅は足を止めた。
周が振り返り、繋いだ手を緩める。
「どうしたんだい?」
紙へ書こうとしてから、沙羅は持ち上げた筆を戻した。
唇だけで伝えることにも、以前ほどの恐れはなくなっている。
――帰りましょう。
周は一度で読み取り、確認するように目を細めた。
「一緒に?」
沙羅が頷くと、握られていた手に少し力が加わる。
「もちろん」
それ以上の言葉はなかったが、沙羅にはその一言で十分だった。



