梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

『十年前に父と母を殺した人たちが、同じことを繰り返そうとしているのでしょう。でしたら、私にも関係があります』
「沙羅」
『私は、守られて待っているだけのために真実を知ったのではありません』

 そこまで書いて筆を置くと、周は声の代わりに差し出された文字を最後まで読み、困ったように目を伏せた。

「こういう時だけ、妙に頑固だね」
『旦那様ほどではありません』
「それは否定できない」

 周は椅子の背へ身体を預けたまま考え込み、やがて顔を上げた。

「条件がある」

 沙羅が続きを待つと、周は指を一本ずつ折りながら条件を並べていく。

「僕か景の視界から絶対に外れないこと。知らない花には触れないこと。何か気になるものを見つけても、一人で確かめに行かないこと。それから、少しでも危ないと思ったら、僕が何と言おうと先に逃げること」
『最後だけ納得できません』
「そこが一番大事なんだけど」
『旦那様を置いて逃げろという意味でしたら、嫌です』
「沙羅」

 周は額へ手を当てた。

「政治の交渉より難しいな」

 沙羅は知らないふりをして返事をせずにいる。

「分かった。では、僕を置いて逃げろとは言わない。ただし、危険があれば僕と一緒に離れる。これなら?」

 その条件なら受け入れられると考え、沙羅は頷いた。

「約束だよ」
『約束します』

 周も頷いてから、卓上に置かれた予定表へ目を落とす。
 それまでに榊原が見つかれば、何事もなく終わるかもしれない。けれど周の顔を見る限り、そう簡単に事が運ぶとは考えていないのだろう。


 翌朝、鴻上侯爵が正式に職を辞したという知らせが届いた。

 十年前の使節襲撃について自ら帝に申し出て、関係する資料もすべて提出したという。どのような処分が下されるかはまだ決まっていないものの、少なくとも二度と朝廷に戻ることはないだろうと叔父は言った。

 それを聞いても、沙羅の胸が晴れることはなかった。
 父と母を殺した人間が罪を認めても、鴻上の口にした「国のため」という言葉は簡単には遠ざかってくれない。私欲ではなく帝国の未来を信じていたからこそ、あの男は人の命まで秤に載せることができたのだろう。その思想を若い頃から傍で聞いてきた榊原が、十年の間に何を守り、何を別の形へ歪めたのかは、まだ誰にも分からなかった。

 沙羅は庭へ出た。雨上がりの庭では梔子が咲き始め、濡れた濃い葉のあいだから、白い花が朝の光を受けて浮かび上がっている。

 子どもの頃には好きだった花だった。父と母が暮らしていたこの家の庭に咲き、十年前のあの日から、一度も触れることのできなかった花でもある。

 今でも、手を伸ばすことを考えれば怖い。けれど以前とは違い、その恐怖の向こうに残されているものを、自分から知りたいという思いも生まれていた。

 五日後の晩餐会が無事に終わり、十年前から続いてきた事件に本当の区切りをつけることができたなら、その時には自分の意思で梔子へ触れてみようと、沙羅は咲き始めた花を見つめながら決めた。

 見たいのは、父と母の最後ではない。
 それよりもずっと前、この庭で二人が生きていた頃に残されたものを見てみたかった。

 背後から足音が聞こえたので振り返ると、登朝する前の周が庭へやって来るところだった。

「ここにいたのか」

 沙羅が頷くと、周も梔子を見る。

「咲いたね」

 同じ花へ顔を向けた沙羅に、周が尋ねた。

「触ってみたい?」

 以前なら、その問いを向けられただけで身体が強張っていたかもしれない。今は迷いながらも、頷くことができた。

「今日?」

 沙羅が首を振ると、周は理由を尋ねなかった。

「では、君が触りたくなった日に」

 触れろとも、怖がる必要はないとも言わない。いつか自分で選べる日が来るまで待つという、出会った頃から変わらない周の態度に、沙羅は彼の横顔を見つめた。

 紙を持っていなかったため、唇だけを動かす。

 ――一緒に。

 周は沙羅の口元を見てから笑った。

「もちろん」

 その答えを聞いて、沙羅は梔子へ向けていた目をもう一度周へ戻した。

 十年前、父は真実を知り、それを一人で帝へ届けようとした。けれど今の沙羅は、一人ではない。

 花が見せるものを受け取るのは自分でも、その断片が何を意味するのかを確かめ、証拠へ変え、罪を明らかにするために動いてくれる人が隣にいる。だからこそ、晩餐会で何が起ころうとも、今度は自分の目で最後まで見届けたいと思えた。

 周は梔子の枝には触れず、少し離れたところから咲いた花を眺めている。

「しかし、見事だね。これだけ古い株が一斉に咲く庭は、帝都でもなかなかない」

 そこから始まった花の話を聞きながら、沙羅は周と並んで庭を歩き出した。

 国の行く末に関わるような話をした翌朝でさえ、花を見れば花の話を始める周の変わらなさを、以前なら呆れて眺めていただろう。

 けれど今は、それでいいのだと思う。

 十年前の真実がどれほど重くても、それだけで二人の日々のすべてが塗り替えられるわけではない。庭には花が咲き、朝になれば周は仕事へ出かけ、夜になれば帰ってくる。そして自分はその帰りを待ち、いつか声で「お帰りなさい」と迎える日が来るのかもしれない。

 そこまで考えたところで、沙羅は自分が思い描いていた未来に気づいた。

 周に悟られないよう顔を伏せながらも、唇には笑みが残っていた。