梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その夜、周が戻ったのは深夜を過ぎてからだった。

 沙羅は寝室に入らず、居間で帰りを待ち続けていた。叔父から何度か休むよう勧められたものの、眠れるはずもない。鴻上侯爵は軍府の人間に伴われて自邸へ戻り、そのまま朝廷からの呼び出しを待つことになったというが、榊原孝惟については、まだ何の知らせも届いていなかった。

 時計の針が夜半を越えてしばらくした頃、玄関の方からようやく人の動く気配が聞こえてきた。

 沙羅はすぐに立ち上がったが、廊下へ出るより先に襖が開き、周が居間に入ってくる。朝から身につけたままの宮中服は少し乱れ、髪もほどけかけていたが、見たところ怪我はない。

 その姿を確かめた途端、身体の内側で張りつめていたものが、一気にほどけていった。

「ただいま」

 沙羅は答える代わりに彼の袖を掴んだ。

「心配した?」

 頷くと、周は眉を下げて「ごめん」と言ったが、謝ってほしいわけではなかった。怪我もなく帰ってきた姿をこうして自分の目で確かめられたことだけで、今は十分だった。

 周は沙羅が袖を離すまで何も言わずに待ち、それから二人で居間に戻った。

 卓に着いた周は茶器へ手を伸ばしたものの、指先が縁に触れたところで手を止め、結局、茶を注ぐことなく膝へ戻した。沙羅が見ていることには気づいているはずなのに、いつものように冗談で取り繕うこともしない。

 鴻上の前では見せなかった疲れを、屋敷に帰って初めて隠すのをやめたのだろう。
 沙羅は何も書かず、ただ向かいの席に腰を下ろした。

「榊原は見つからなかった」

 席へ着くなり告げられ、沙羅は顔を上げる。

「朝廷を出た記録は残っている。ただ、そのあと自邸へ戻っていないし、使節団の宿舎にも姿を見せていない」
『逃げたのですか』
「その可能性はある」

 周は疲れた目元を指で押さえた。

「ただ、妙なんだ。彼の執務室を調べたところ、荷物はほとんど残っていたし、逃亡の準備をした形跡もない。金も、身分証も、私物も置いたままだった」
『では、どこへ』
「分からない」

 その答えが、沙羅には何より不穏だった。逃亡しただけなら行方を追えばよいが、何かを仕掛けるために姿を消したのであれば、次にどこへ現れるのかさえ分からない。

「一つ、気になるものが見つかった」

 周が懐から取り出したのは、折り畳まれた一枚の紙だった。

 榊原の机に残されていた予定表の写しで、数日先の日付には、帝主催の外交晩餐会と記されている。条約の大筋がまとまったことを受け、正式調印を前に両国の主要関係者を集めて開かれる席だった。

「榊原は、晩餐会の会場設営にも関わっていた」

 沙羅が予定表へ目を落とすと、周は該当する箇所を指で示した。

「もともと外務側の担当者だから、不自然ではない。ただ、会場に入る業者の選定と、装花の発注まで彼の決裁が通っている」

 装花という言葉に目が止まり、沙羅は予定表から周へ視線を上げた。

「僕も同じことを考えた」
『花を使うつもりでしょうか』
「まだ分からない。でも、十年前にレフィアを偽装に使った人間なら、花をただの飾りとして見ていない可能性はある」

 周は予定表を畳んで卓に置いた。

「晩餐会は中止にした方がいいと進言するつもりだったけれど、陛下はおそらく受け入れない」
『危険なのに?』
「中止すれば、ルゼリア側に事情を説明しなければならない。条約交渉の最終段階で、帝国内部の人間が使節を狙っている可能性があると明かせば、それこそ十年前の繰り返しになりかねない」

 沙羅は紙へ目を落としたまま考えた。

 もし榊原がそれを狙っているのなら、交渉を止めるために実際に誰かを殺す必要さえないのかもしれない。帝国には使節の安全を保証する力がないとルゼリア側へ思わせるだけでも、交渉を壊すには十分だった。

「警備を増やし、関係者を絞った上で予定通り行うことになると思う」
『周様も出るのですね』
「僕がいない方がおかしいだろう?」

 宮宰である周が外交晩餐会に出席しないなどあり得ないことは、沙羅にも分かっている。それでもすぐには頷けず、紙へ視線を落とした。

「沙羅」

 名前を呼ばれて顔を上げる。

「僕は君に、絶対に大丈夫だとは言わない。でも、危険があると分かった今なら、十年前よりずっと多くの手を打てる。景もいるし、軍府も動いている。陛下にも明日すべて報告する」

 以前にも聞いた言葉だった。
 できない約束で安心させるのではなく、自分にできることを一つずつ示す。それが周のやり方なのだと、今の沙羅はもう知っている。

 沙羅は頷いてから、紙へ筆を走らせた。

『私も、その晩餐会へ出席できますか』

 周の眉が寄る。

「何故?」
『榊原という方が花を使うのでしたら、私にしか分からないことがあるかもしれません』
「だからこそ、連れて行きたくない」

 予想していた答えだった。

『私の力を使えと言っているのではありません。見るだけです』
「見るだけでも危険はある」
『旦那様も危険です』
「僕は仕事だからね」
『私には関係がないと仰るのですか』

 周が口を閉ざしたため、沙羅はそのまま続きを書いた。