梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

「使節を殺す必要はなかった」

 周は鴻上を見たまま言った。

「殺すつもりではなかった。負傷させ、交渉を止めるだけでよかった」
「護衛が一人死んでいます」
「想定外だった」
「実行犯も死んだ」
「口を割られれば困る」

 鴻上は少しも目を逸らさなかった。
 その口から語られる死は、とても軽かった。誰かの命が失われたことさえ、計画を遂行するために必要だった処理の一つとして数えているように聞こえ、沙羅の指先から次第に熱が失われていく。

 では、父と母も同じだったのだろうか。
 そう尋ねようと紙に筆を下ろしたものの、思うように手が動かない。異変に気づいた周がこちらを見て、その視線を追った鴻上も沙羅へ顔を向けた。

「あなたのご両親については、惜しいことをしたと思っている」

 その一言を聞いた瞬間、それまで沙羅の中で張りつめていたものが切れた。

 筆を握り直すと、不思議なほど震えは止まっていた。

『惜しいこと?』

 書いた紙を鴻上へ向け、彼が文字を読んだことを確かめてから、さらに筆を走らせる。

『父と母を殺したことが、惜しいことなのですか』
「沙羅」

 周に名前を呼ばれても、止められたとは感じなかった。むしろ、すぐ傍にいることを知らせてくれるような声に支えられ、沙羅は胸の中に溜めていたものをそのまま紙へ書いていく。

『父は、あなたを信じていたのではありませんか』

 鴻上の目が、その時だけ動いた。

『だから花から見たことを話しに行ったのではありませんか』
「そうだ」
『それなのに、殺したのですか』

 今度は、鴻上が答えるまでに時間がかかった。

「志紋殿が黙ってくれるなら、その必要はなかった」

 紙を握り潰しそうになり、沙羅は指に入った力を意識して抜いた。

「彼は真面目すぎた。帝に直接申し上げると言い出したのでね。あの時点で計画が露見すれば、交渉は別の形で再開され、帝国内部の混乱まで外国に知られることになる。だから私は止めるしかなかった」

 鴻上が口にした「止める」という言葉の中には、父と母の命まで当然のように含まれている。そのことを理解した途端、沙羅は目を閉じてしまいたくなるほどの眩暈を覚えた。

 その時、卓の下で手に何かが触れた。

 周だった。握るのではなく、ただ自分がここにいることを知らせるように触れてきた手に、沙羅も自分の指を重ねる。

 鴻上は、二人の手を見ていた。

「お父上が娘を連れているとは知らなかった」

 沙羅が顔を上げると、鴻上は目を逸らさないまま続けた。

「馬車を止め、事故に見せかける手筈だった。夫人が同行していることは把握していたが、あなたまで乗っているという報告は受けていなかった」

 古い記憶が不意に揺さぶられた。
 父に抱き寄せられた腕の強さも、自分を覆った母の身体も、馬車の外に確かに誰かの気配があったことも、十年前の暗がりから一度に蘇ってくる。

「あなたが生き残ったと聞いた時には驚いた。けれど七歳の子どもで、しかもその後、声まで失ったと聞いたのでね。何を見たとしても、いずれ記憶は薄れると思った」

 十年間、沙羅が何も言わずに生きてきたことを、この男は自分にとって都合のよいものとして受け取っていたのだ。

 父の命令を守り続けた結果が、父と母を殺した者にとっての安心材料になっていた。その事実を知っても、今はもう、父の言いつけを守ってきた自分まで責めようとは思わなかった。

『では、何故今になって脅したのですか』
「脅す?」

 鴻上が眉を寄せたところで、周は一通の封書を卓へ出した。

「今朝、沙羅宛に届きました」

 文面へ目を落とした鴻上の顔に、初めてはっきりと困惑が浮かぶ。

「これは私ではない」

 その言葉を待っていたのか、景が椅子の背から身体を起こした。

「そう言うと思っていた」

 周もまた、鴻上を見ている。

「だから今日、先生にこちらへ来ていただきました」

 沙羅は二人を見比べた。
 鴻上を問い詰めるためだけに、今日ここに呼んだのではなかったらしい。

「先生が今回の警告を出したのであれば、僕たちが何を掴んだのか確認する前に、こうして志紋邸に来る理由がありません。しかも、この紙が使われた場所は今朝のうちに分かりました」

 周が新たな紙を取り出して卓へ置く。

「宮中の外務書記局で使われているものと同じです」

 それを見た鴻上の表情が険しくなった。

「誰が持ち出した」
「そこを調べています。ただ、一つ分かったことがある。十年前の件は、先生一人ではできなかった」
「当然だ」
「そして、その中の誰かが今も動いている」

 居間に落ちた沈黙の中で、沙羅にもようやく事態の形が見えてきた。

 首謀者である鴻上へ辿り着いたからといって、それだけで十年前の事件が終わるわけではない。偽造した命令を運び、実行犯に金を渡し、事故現場に先回りして記録を書き換えた者たちがいる。そのうちの少なくとも一人が今も朝廷の中で動き、再び条約交渉を壊そうとしているのだ。

「先生」

 周の声が低くなる。

「十年前に関わった人間を、全員話してください」

 鴻上は口を閉ざし、しばらくしてから答えた。

「それはできない」
「何故です」
「私が命じた。責任は私にある」
「責任を取るというのは、部下を庇って次の事件を起こさせることではありません」
「彼らは皆、国のために動いた」
「十年前は、でしょう」

 それまで抑えられていた周の声に、初めて鋭さが混じった。

「今も同じ目的で動いている保証はない。十年のあいだに立場も考えも変わっている。何より、今朝沙羅を脅した人間が、この先も脅すだけで済ませるとは限らない」

 鴻上は黙ったまま、周を見ていた。

「先生が守ろうとした国のために、今度は先生の知っていることを話してください」

 誰も口を開かないまま時間だけが過ぎ、窓の外から聞こえる雨音が、いつの間にか居間を満たしていた。

 やがて鴻上は一度俯き、長く息を吐いた。

「……三人いる」

 周の手へ重ねていた沙羅の指に力が入る。

「当時の外務書記官、宮中警備を担当していた典衛官、それから、私の私設秘書だ」

 景はすぐに三人の名を聞き取っていった。そのうち二人がすでに亡くなっていると分かり、最後に残った一人の名が告げられた時、それまで崩れなかった周の表情が変わる。

「榊原孝惟……」

 沙羅には、その名前がすぐには結びつかなかった。

 けれど少し遅れて、茶会の日、宮中に入った周へ予定表を渡していた外務官の顔が浮かぶ。古い簿冊の閲覧を手配したのも同じ男であり、十年前の事件を調べていた自分たちのすぐ傍に、彼は初めからいたのだ。

「今の外務次官補だ」

 景が沙羅へ説明する。

「今回のルゼリアとの交渉にも入っている」

 背筋が冷えていく。
 十年前に交渉を潰した人間が、今度の交渉でも、その中心近くにいるなんて。

「榊原は当時、私の秘書だった。若かったが、よく働いた。私の考えにも強く賛同していた」
「今朝の封書が書記局の紙なら、彼なら自由に手に入れられる」
「だが、今回の交渉案は十年前とは違う。彼もそれは理解しているはずだ」
「先生と同じように考えているとは限りません」

 周はそこで立ち上がった。

「景、すぐ軍府へ戻ってくれ。榊原の動きを確認したい。拘束するにはまだ足りないが、少なくとも使節団と陛下に近づけないようにする必要がある」
「分かった」

 景も間を置かずに立ち上がったため、これから二人が朝廷へ向かうのだと悟った沙羅は、考えるより先に周の袖を掴んでいた。

 その仕草だけで、今から行くのかという問いまで伝わったらしく、周は沙羅の顔を見て答える。

「僕は朝廷へ行く。ただし、景と一緒だし、護衛もつける」

 それでも袖を離せず、沙羅は空いた手で紙を引き寄せた。

『私も行きます』
「沙羅」
『行きます』
「今夜は宮中に入らない方がいい」
『何故ですか』
「相手が君の力を警戒している可能性があるからだよ。ここにいる方が安全だ」

 言っていることは分かる。それでも、ただ屋敷に残って帰りを待つことが怖く、自分が狙われているのなら、むしろ周だけを行かせる方が危険なのではないかとさえ思えてしまう。

「帰ってくる」

 その言葉に顔を上げると、周は沙羅の目を見て続けた。

「今朝の約束を忘れていないよ」

 それでも袖を掴んだ指から力を抜けずにいると、周はその手へ自分の手を重ねた。

「今回のことは、君が一緒にいれば安全になる種類の危険じゃない。だから今夜は、僕を信じて待っていてほしい」

 信じて待っていてほしいという言葉を、沙羅はこれまでにも人から求められてきた。

 けれど周は、何も見せずに信じろとは言わない。自分が調べたことを話し、どこに危険があるのかも隠さず、できることとできないことを分けたうえで、それでも今夜は待っていてほしいと頼んでいる。

 だから沙羅は、ようやく袖を掴んでいた手を離した。

『分かりました』
「ありがとう」
『ただし』

 周が紙を見る。

『帰ってこなければ許しません』

 予想していなかったらしく、周は目を見開いてから笑った。

「それは怖いな」
『本気です』
「では、死んでも帰ってこないといけないね」

 沙羅は眉を寄せ、すぐに筆を走らせた。

『縁起でもないことを仰らないでください』
「困ったな。怒られてしまった」

 こんな時まで妙なことを言う男に呆れたものの、いつもと変わらない調子で返されたことで、胸を締めつけていた恐怖は少しだけ和らいだ。

 今度こそ、沙羅は周の手を離した。