梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

「園丁の子が生きていました。父親は事件の直後に帝都を離れ、数年後に亡くれています。ただ、亡くなる前に家族へ、使節の別邸から花を一本持ち出したことを話していた」
「花一本で何が分かる」

 その一言だけで、鴻上の口調が変わった。
 沙羅が隣の周に目を向けると、彼は鴻上から視線を逸らさないまま答える。

「花一本だけなら、何も分かりません。だから、別のものも調べました」

 次に差し出されたのは、十年前の警備命令書だった。

「使節襲撃の日、本来であれば別邸から宿舎までの道には軍府の警備がつく予定でした。ところが当日の夕刻、経路が変更され、護衛の一部が別の門へ回されています」
「襲撃を受けて混乱していた時期だ。変更くらいあるだろう」
「命令書には、当時の警備局長の署名があります。しかし本人の日誌と照らしたところ、その時刻、局長は宮中の会議に出席していました。筆跡鑑定でも、署名は本人のものではない可能性が高い」

 そこで景が低い声を挟んだ。

「しかも、その偽造命令を軍府へ持ち込んだ使者の人相書きが残っていた。今朝、当時の門衛だった男に確認を取ったところ、鴻上侯爵家に長く仕えた従僕と一致した」

 居間の空気が目に見えない重みを帯びるなか、いつの間にか外では雨が降り始め、梔子の香りが湿った風に乗って室内へ淡く流れ込んできた。

 鴻上はしばらく誰とも目を合わせず、やがてゆっくりと茶器へ手を伸ばした。

「随分と調べたものだ」

 それは、否定の言葉ではなかった。
 周の横顔が強張っていく。

「先生」
「私が命じたと言いたいのかね」
「まだ、そこまでは申し上げていません」
「では何を聞きたい」
「十年前、志紋当主が先生のもとを訪れた理由です」

 その言葉に、沙羅の胸の奥で心臓が大きく脈打った。
 父は、鴻上にも会っていたのだ。

「記録に残っていました。使節襲撃から六日後、志紋当主は当時外務卿だった先生に面会を申し込んでいる。その翌日にも、もう一度」

 鴻上は答えなかった。

「何を話したのですか」
「十年前のことだ。細かな内容まで覚えてはいない」
「先生は僕に、人と話した内容を忘れるなと教えました」

 周の声に怒りはなかったが、それゆえにかえって、沙羅にはその静けさが恐ろしく感じられた。

「政治家にとって、相手が何を求め、何を恐れているかを覚えておくことは武器になる。だから酒席の雑談でも捨てるな、と。先生ご自身が、それを最もよく実践しておられたはずです」

 鴻上の目が、ゆっくりと周へ向けられる。
 長い師弟関係の中で、こうして向き合ったことは一度や二度ではなかったのだろう。

「覚えていない、という答えは信じられません」

 しばらく沈黙したあと、鴻上は小さく笑った。しかしその笑みには、先ほどまでの穏やかさはもう残っていない。

「本当に、嫌な男に育ったものだ」
「先生が育てたのでしょう」

 沙羅は周の横顔を見つめた。声音も姿勢も崩れてはいなかったが、膝の上に置かれた片手だけは、それまでより深く指を組んでいる。

 幼い頃から政治を学び、今なお「先生」と呼ぶ相手に、自分が教えられた言葉をそのまま刃として返さなければならないことが、何も残さないはずはなかった。

「そうだったな」

 鴻上は椅子の背へ身体を預けると、しばらく遠いものを見るような目をした。

「志紋殿は、花を持ってきた」

 その一言に、沙羅の指先がぴくりと動く。

「レフィアですか」

 周が問うと、鴻上は頷いた。

「ああ」

 それから、今度は沙羅へ視線を移す。

「あなたのお父上は、その花から何かを見たらしい。志紋家の力については、私も知っていたからね」

 沙羅は膝の上で手を握りしめた。
 何を見たのかと問いたくても、声にはできない。紙へ手を伸ばしかけたところで、それを待つことなく鴻上が続けた。

「男と女だそうだ。女が男の胸元にレフィアを挿し、必ず戻ってきてくれと言った。男は、すべては御国のためだ、と返したらしい」

 沙羅が押し花から受け取った断片と、ぴたりと重なる。
 思わず顔を上げると、鴻上は記憶を辿るように目を細めた。

「お父上は、その男をルゼリア側の人間ではないと考えた。言葉遣いや身につけていたものから、帝国人だと判断したのだろう」

 レフィアが残されていたからこそ、沙羅はこれまで、その記憶にいた者を外国人だと思い込んでいた。
 けれど、もし花そのものが、そう思わせるために使われていたのだとしたら。

「使節襲撃を、ルゼリア内部の争いに見せたかったのですね」

 周がそう言っても、鴻上は否定しなかった。

「実行犯の衣服に外国貨幣を入れ、国外から持ち込まれた花を身につけさせれば、疑いは自然と向こうへ向く。少なくとも、帝国内部の人間が交渉を潰すために動いたとは考えにくくなる」

 沙羅は唇を噛んだ。
 父は花の記憶からその偽装の綻びに辿り着き、だからこそ調べ始め、その果てに殺されたのだろう。散らばっていた事実がようやく一本へ繋がっていくほど、胸の内には真相に近づく喜びではなく、重苦しい確信ばかりが積み重なっていった。

「何故です」

 周の問いは短かったが、それ以上の言葉は必要なかった。

 鴻上はしばらく答えず、雨音に耳を澄ませるように窓の方へ顔を向けていたが、やがて低い声で話し始めた。

「十年前、帝国は弱かった。軍も産業も今とは比べものにならず、西方諸国に肩を並べるなど夢物語で、国民は、外国人が国内で罪を犯しても自国の法で裁けないという現実を突きつけられていた。関税一つ自由に決められず、それでも条約を改めていただくためには、こちらから頭を下げなければならなかった」

 周は何も挟まず、ただ黙って聞いている。

「当時進んでいた改定案を知っているか」
「概要は」
「領事裁判権の縮小と引き換えに、国内の裁判に外国人判事を入れる案があった。関税についても、こちらが求めていた完全な自主権には程遠かった。それでも朝廷は、一歩前進だから受け入れるべきだと言った」

 そこへ至って、鴻上の声に初めてはっきりとした感情が滲んだ。

「私は反対した。主権とは、外国に譲っていただくものではない。国が自ら力をつけ、向こうから認めざるを得ないところまで行って、初めて取り戻せるものだと、私はそう考えていた」
「だから交渉を潰したのですか」
「十年あれば国は変わると思った」

 鴻上はまっすぐに周を見る。

「実際、変わっただろう。軍備は整い、産業は育ち、帝国の国力は十年前とは比べものにならない。今回ルゼリアが持ってきた案を見たはずだ。十年前より遥かにこちらが有利な条件になっている」

 鴻上の言葉には、耳を塞いで悪意と切り捨ててしまうことのできない理屈があった。権力や金を求めてしたことではなく、帝国を強くしたいという信念そのものは、おそらく嘘ではない。

 だからこそ沙羅には恐ろしかった。
 国を強くするという目的のためなら、他人の命を秤の上に載せ、それでもなお自分の選択を正しかったと信じ続けられる。その確信こそが、単純な悪意よりも遥かに深く、沙羅の胸を冷たくした。