その日、志紋邸の警備は目に見えて厳しくなった。
軍府から派遣された兵が門と裏手に配置され、外から届く荷物は一つずつ確認されるようになり、沙羅が庭へ出る時にも使用人が遠くから付き添っていた。
息苦しくないと言えば嘘になる。
けれど、脅迫を受けた以上は当然の措置だと理解しているし、何より叔父が以前とは比べものにならないほど神経を張り詰めていることが分かったため、沙羅は何も言わなかった。
午後になって雨が降り始めると、庭に咲き始めていた梔子の香りが濃くなった。
縁側から白い花を眺めながら、沙羅は父のことを考える。
十年前、父も同じように警告を受けたのだろうか。もしそうなら、誰にも話さなかったのだろうか。
妻と幼い娘を巻き込みたくないと思い、一人で何かを確かめようとしたのかもしれない。
もし父も同じような警告を受け、妻と幼い娘を巻き込みたくない一心で誰にも頼らず真相を確かめようとした末に、あの日を迎えたのだとすれば、同じことを周に繰り返させてはいけない。
危険だから調べるなと止めるのではなく、知っていることを互いに隠さず、誰か一人だけに背負わせないことなら、今の自分にもできるはずだった。
そう考えているうちに夕暮れが近づき、門の方から人の声が重なる気配がしたため、周が戻ったのだと思った沙羅は縁側から立ち上がった。
ところが廊下へ出るより早く、家令が足早にやってきた。
「奥様、旦那様がお戻りでございます。それから、朝霧少将ともうお一方、ご同道なさっております」
誰だろうと思いながら玄関へ向かうと、周の隣には朝霧景が立ち、そのさらに後ろに、沙羅が一度だけ宮中で見かけたことのある年嵩の男性がいた。
六十を少し越えたくらいだろうか。白いものの混じった髪を後ろへ撫でつけ、細身ながら背筋は伸びている。華美な装飾を避けた濃い色の衣装は、長く朝廷の中枢にいる人間らしい威厳を備えていた。
記憶を探るうち、その男が鴻上宗成侯爵であることを思い出した。現在は枢密顧問として帝の諮問に与り、かつて長く外務を預かっていた重臣であり、周がまだ若い頃から政治の手ほどきを受けた相手だと、以前叔父から聞いたことがある。
「突然押しかけて申し訳ありません、志紋夫人」
鴻上が沙羅へ頭を下げる。その声は深みがあり穏やかだった。
「十年前のことについて、少々お話ししておいた方がよいと思いましてな」
沙羅が周を見ると、彼は鴻上の隣に立っているものの、いつものような笑みを浮かべていない。
「居間を使おう」
それだけを沙羅に告げた。
四人が席につくと、家令が茶を置いて退出する。
景は軍服姿のまま沙羅の斜め向かいに座り、鴻上は卓を挟んだ正面に腰を下ろした。
周だけが沙羅の隣にいる。
席に着いて初めて、沙羅は二人の間にある違和感の正体に気づいた。鴻上は周にとって今も敬意を払うべき相手のはずなのに、長年の師弟なら自然に滲むはずの親しさが、今夜の二人には少しも見えなかった。
最初に口を開いたのは鴻上だった。
「今日、織部――いや、今は志紋殿でしたな。彼から十年前の使節襲撃について尋ねられましてね。私も当時は外務におりましたから、覚えていることをお話ししたのです」
周は黙っていた。
「使節が襲われたことで交渉が崩れたのは、実に惜しい出来事でした。当時の帝国にはまだ力が足りず、先方からかなり厳しい条件を出されておりましたが、それでも不平等な条項の一部を改めるところまでは話が進んでいた」
沙羅は鴻上の顔を見た。
彼が十年前の交渉に深く関わっていたことは、周からも聞いている。
「私は、あの時に一度まとめるべきだったと考えております」
意外な言葉だった。
現在の条約改定に反対する人間なら、十年前の交渉が潰れたことをむしろ歓迎していたのではないかと思っていた。
鴻上は沙羅の表情を見て、考えを察したらしい。
「国というものは、理想だけでは動きません。完全な対等を一度で得られないのなら、まず一歩進め、その次を目指す。それが外交というものです」
その時、周が初めて口を開いた。
「十年前にも、同じことを仰っていましたね」
「覚えていたか」
「先生から最初に教わったことの一つですから」
先生という呼び方で、叔父から聞いていた二人の関係がようやく目の前の人物と結びついたが、周の声音には懐かしさも甘えもなく、むしろ古い教えを一つずつ確かめ直すような硬さがあった。
「だからこそ、私はあの襲撃を許せなかった。交渉を潰しただけではない。帝国が国際社会から信用を得るために費やしてきた年月まで無駄にした」
「そうでしょうね」
「君も同じ考えだろう」
「ええ」
周はそこで、持ってきた書類鞄を開いた。
「ですから、先生に見ていただきたいものがあります」
取り出したのは、古い帳簿の写しだった。沙羅も知らない資料である。
「十年前、使節襲撃の実行犯とされた男について調べ直しました。事件翌日に川から遺体で見つかった人物です」
鴻上の顔色は変わらない。
「名前は三浦征二。元軍属で、その後は外国商人の護衛などをしていた。遺体からルゼリア貨幣が出たため、当時は先方の内紛に巻き込まれた可能性まで疑われました」
「ああ。記憶している」
「ところが、彼が事件の二月前から受け取っていた金について、出所が分かりました」
景が一枚の紙を卓へ置く。それは軍府の印が押された写しだった。
「当時使われていた私設銀行の帳簿が残っていた。三浦に三度、かなりまとまった金が渡っている」
鴻上は紙にゆっくりと視線を落とした。
「差出人の名は偽名でしたが、同じ口座から別に支払われた金を追ったところ、一つは宮中の警備に雇われた人に、一つはルゼリア使節の別邸に出入りしていた園丁へ渡っていました」
「園丁」という言葉へ沙羅が反応すると、その様子に気づいた周が続きを引き取った。
「別邸から消えたレフィアを持ち出した男です」
鴻上の指が、ほんの少し動いた。それまで完全に落ち着いていた人間に初めて生じた変化だった。
軍府から派遣された兵が門と裏手に配置され、外から届く荷物は一つずつ確認されるようになり、沙羅が庭へ出る時にも使用人が遠くから付き添っていた。
息苦しくないと言えば嘘になる。
けれど、脅迫を受けた以上は当然の措置だと理解しているし、何より叔父が以前とは比べものにならないほど神経を張り詰めていることが分かったため、沙羅は何も言わなかった。
午後になって雨が降り始めると、庭に咲き始めていた梔子の香りが濃くなった。
縁側から白い花を眺めながら、沙羅は父のことを考える。
十年前、父も同じように警告を受けたのだろうか。もしそうなら、誰にも話さなかったのだろうか。
妻と幼い娘を巻き込みたくないと思い、一人で何かを確かめようとしたのかもしれない。
もし父も同じような警告を受け、妻と幼い娘を巻き込みたくない一心で誰にも頼らず真相を確かめようとした末に、あの日を迎えたのだとすれば、同じことを周に繰り返させてはいけない。
危険だから調べるなと止めるのではなく、知っていることを互いに隠さず、誰か一人だけに背負わせないことなら、今の自分にもできるはずだった。
そう考えているうちに夕暮れが近づき、門の方から人の声が重なる気配がしたため、周が戻ったのだと思った沙羅は縁側から立ち上がった。
ところが廊下へ出るより早く、家令が足早にやってきた。
「奥様、旦那様がお戻りでございます。それから、朝霧少将ともうお一方、ご同道なさっております」
誰だろうと思いながら玄関へ向かうと、周の隣には朝霧景が立ち、そのさらに後ろに、沙羅が一度だけ宮中で見かけたことのある年嵩の男性がいた。
六十を少し越えたくらいだろうか。白いものの混じった髪を後ろへ撫でつけ、細身ながら背筋は伸びている。華美な装飾を避けた濃い色の衣装は、長く朝廷の中枢にいる人間らしい威厳を備えていた。
記憶を探るうち、その男が鴻上宗成侯爵であることを思い出した。現在は枢密顧問として帝の諮問に与り、かつて長く外務を預かっていた重臣であり、周がまだ若い頃から政治の手ほどきを受けた相手だと、以前叔父から聞いたことがある。
「突然押しかけて申し訳ありません、志紋夫人」
鴻上が沙羅へ頭を下げる。その声は深みがあり穏やかだった。
「十年前のことについて、少々お話ししておいた方がよいと思いましてな」
沙羅が周を見ると、彼は鴻上の隣に立っているものの、いつものような笑みを浮かべていない。
「居間を使おう」
それだけを沙羅に告げた。
四人が席につくと、家令が茶を置いて退出する。
景は軍服姿のまま沙羅の斜め向かいに座り、鴻上は卓を挟んだ正面に腰を下ろした。
周だけが沙羅の隣にいる。
席に着いて初めて、沙羅は二人の間にある違和感の正体に気づいた。鴻上は周にとって今も敬意を払うべき相手のはずなのに、長年の師弟なら自然に滲むはずの親しさが、今夜の二人には少しも見えなかった。
最初に口を開いたのは鴻上だった。
「今日、織部――いや、今は志紋殿でしたな。彼から十年前の使節襲撃について尋ねられましてね。私も当時は外務におりましたから、覚えていることをお話ししたのです」
周は黙っていた。
「使節が襲われたことで交渉が崩れたのは、実に惜しい出来事でした。当時の帝国にはまだ力が足りず、先方からかなり厳しい条件を出されておりましたが、それでも不平等な条項の一部を改めるところまでは話が進んでいた」
沙羅は鴻上の顔を見た。
彼が十年前の交渉に深く関わっていたことは、周からも聞いている。
「私は、あの時に一度まとめるべきだったと考えております」
意外な言葉だった。
現在の条約改定に反対する人間なら、十年前の交渉が潰れたことをむしろ歓迎していたのではないかと思っていた。
鴻上は沙羅の表情を見て、考えを察したらしい。
「国というものは、理想だけでは動きません。完全な対等を一度で得られないのなら、まず一歩進め、その次を目指す。それが外交というものです」
その時、周が初めて口を開いた。
「十年前にも、同じことを仰っていましたね」
「覚えていたか」
「先生から最初に教わったことの一つですから」
先生という呼び方で、叔父から聞いていた二人の関係がようやく目の前の人物と結びついたが、周の声音には懐かしさも甘えもなく、むしろ古い教えを一つずつ確かめ直すような硬さがあった。
「だからこそ、私はあの襲撃を許せなかった。交渉を潰しただけではない。帝国が国際社会から信用を得るために費やしてきた年月まで無駄にした」
「そうでしょうね」
「君も同じ考えだろう」
「ええ」
周はそこで、持ってきた書類鞄を開いた。
「ですから、先生に見ていただきたいものがあります」
取り出したのは、古い帳簿の写しだった。沙羅も知らない資料である。
「十年前、使節襲撃の実行犯とされた男について調べ直しました。事件翌日に川から遺体で見つかった人物です」
鴻上の顔色は変わらない。
「名前は三浦征二。元軍属で、その後は外国商人の護衛などをしていた。遺体からルゼリア貨幣が出たため、当時は先方の内紛に巻き込まれた可能性まで疑われました」
「ああ。記憶している」
「ところが、彼が事件の二月前から受け取っていた金について、出所が分かりました」
景が一枚の紙を卓へ置く。それは軍府の印が押された写しだった。
「当時使われていた私設銀行の帳簿が残っていた。三浦に三度、かなりまとまった金が渡っている」
鴻上は紙にゆっくりと視線を落とした。
「差出人の名は偽名でしたが、同じ口座から別に支払われた金を追ったところ、一つは宮中の警備に雇われた人に、一つはルゼリア使節の別邸に出入りしていた園丁へ渡っていました」
「園丁」という言葉へ沙羅が反応すると、その様子に気づいた周が続きを引き取った。
「別邸から消えたレフィアを持ち出した男です」
鴻上の指が、ほんの少し動いた。それまで完全に落ち着いていた人間に初めて生じた変化だった。



