梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その日の午後、織部周は再び志紋家を訪れた。
 昨日は顔合わせのために整えた装いだったが、今日は宮中から直接来たらしく、濃紺の正装を隙なく着こなし、長い髪も後ろでひとつに束ねられている。もともとの容貌が華やかなため、飾りを重ねずとも人目を引くことに変わりはないが、座敷に通された彼が叔父に一礼する姿には、昨日、花束を抱えて現れた男とは異なる緊張が宿っていた。

「本日は改めて、婚姻をお受けする意思をお伝えに参りました」

 低くよく通る声で告げた周は、昨日のように沙羅を見てすぐ何かを言うこともなく、まず叔父に向き直る。

「織部家からもお返事を頂戴しておりますが、周殿ご本人のお考えも伺っておきたい。志紋家へ入れば、いずれ織部の名を離れることになります」
「承知しております」
「志紋家を継ぐのは、沙羅との間に生まれた子となるでしょう。この家には、外へ出せぬ事情も少なくありません」
「それも父から聞いております。もっとも、聞く必要のないことまで教えていただくつもりはありませんので、私が知るべき時に、知るべきことだけお話しいただければ結構です」

 周は叔父の問いを一つずつ受け止め、必要なことだけを答えていく。
 帝の傍らで宮中を取り仕切り、外国からの使節を迎え、華族諸家との折衝まで任されている男なのだから当然なのかもしれない。それでも昨日は花の話ばかりしていたせいか、沙羅には、宮宰という肩書きを持つ彼の別の顔を初めて見たように思えた。
 叔父も何かを量るように周を見ていたが、ほどなく沙羅へ視線を移した。

「もう一つ、改めて申し上げておかなければならないことがあります。沙羅は――」

 その先に続く言葉を察し、沙羅は膝の上で指を握った。

「十年前から、声を出すことができません。医師によれば喉に異常はなく――」

 沙羅は紙を引き寄せる。

『叔父様』

 墨を含みすぎた筆先が紙へ触れ、最初の一画が濃く滲んだ。
 叔父が口を閉ざしたのを確かめてから、続けて文字を記す。

『そこから先は、私がお伝えします』

 幼い頃から自分を守ってくれた人に、これ以上説明させたくはなかった。
 自分の婚姻なのだから、自分で伝えなければならない。
 叔父は迷った末に頷き、沙羅は周と向き直った。

 昨日、花が怖いと書いた時とは違い、筆を握る指へ力が入る。断られることを恐れているのかと自分に問いかけても、はっきりした答えは出なかったが、これだけは曖昧にしたまま婚姻を受け入れることができない。

『私に、話すことを求めないでいただけますか』

 一字ずつ書き終えた紙を、周から読める向きに置いた。
 彼はすぐには口を開かず、最初の文字から最後まで目で追ったあと、沙羅の手元へ一度視線を移した。まだ続きを書こうとしているのではないかと確かめているらしく、そのまま待っている。
 沙羅が筆を置くと、ようやく周が顔を上げた。

「分かった」

 返ってきたのはそれだけで、なぜなのかと尋ねられるものだと思っていた沙羅は、しばらく周の顔を見つめた。

 治る見込みはあるのか、医師へ診せるつもりはないのか、夫婦となっても筆談を続けるつもりなのか。これまで縁談の話が持ち上がるたび、沙羅の声について知った相手は、本人が目の前にいても構わず、そうしたことを叔父へ尋ねた。

 声を出せない女を妻にして困らないのかと、沙羅より先に周囲が心配することさえあった。
 周は何も聞かない。
 沙羅が顔を上げたまま動かずにいると、彼は少し考えた末、先ほどより丁寧に言葉を継いだ。

「僕は君に声を出せとは言わないし、出せるようになってほしいとも言わない。それでよろしいかな」

 沙羅が頷くと、肩へ入っていた力が抜け、膝の上で握っていた指も緩む。

「ただし、一つだけ僕からも頼みがある」

 安堵したばかりの身体に再び力が入り、周はその変化を見て苦笑した。

「そう警戒しないでくれ。今の約束をひっくり返すような話ではないよ」

 そう前置きしてから、彼は沙羅の前に置かれた紙と筆へ目をやる。

「君が話したくなった時は、僕に聞かせてくれ」

 意味を取りかねて、沙羅は彼を見つめた。
 つい先ほど、話すことを求めないでほしいと伝えたばかりである。周も言葉が足りなかったことに気づいたらしく、片手を上げて首を振った。

「声の話ではないよ。紙でもいいし、目でも手でも構わない。君が僕に何かを伝えたいと思った時、それを途中で諦めないでほしいという意味だ」

 沙羅は筆を持ったまま、彼の顔を見ていた。

「君が黙っているからといって、何も考えていないとは思わない。ただ、僕には君の考えていることが見えるわけではないからね。嫌なら嫌だと教えてほしいし、腹が立ったなら怒ってくれて構わない。僕が間違ったことをしたなら、それも伝えてくれればいい」

 そこで周は口を閉じた。
 先を急ぐ代わりに、沙羅が何かを書こうとしていないかを待っている。こちらが筆を動かさないのを見てから、彼はもう一度口を開いた。

「声がなくても、言葉までなくなるわけではないだろう」

 雨上がりの風に押され、庭の梔子が葉を擦り合わせている。
 沙羅は手元の紙へ目を落とした。
 声を失ってから、自分が何かを伝えるためには、いつも人を待たせなければならなかった。筆を取り、墨を含ませ、文字を綴っているあいだにも会話は先へ進み、書き上げた頃にはもう話題が変わっていることもある。そのたび、今さら差し出すほどのことではないと思い直し、書きかけた紙を伏せてきた。

 それを繰り返すうち、口にできないものだけではなく、書けば伝えられるはずのことまで、自分の内に戻す癖がついた。
 周が求めているのは、その癖を今すぐ捨てることではないのだろう。
 伝えようとしたものを、伝わらないと決めつけて引き戻さないこと。
 それだけなら、自分にもできるだろうか。