梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 十年前の志紋夫妻の死について調べ始めてから、周の帰宅は目に見えて遅くなった。

 ルゼリア王国との条約交渉そのものが佳境へ入りつつあることも理由の一つだったが、宮中から持ち帰る書類の量は以前より明らかに増え、夕餉を終えたあとも執務室の灯りが深夜まで消えない日が続いている。

 沙羅が廊下を通るたび、閉じた襖の向こうでは紙を繰る音が聞こえ、ときおり朝廷から遣わされた官吏が夜遅くまで出入りすることもあった。

 それでも周は、沙羅と約束したことを守っていた。
 軍府に残っていた証言が増えればその日のうちに話し、十年前の帳簿から新しい記録が見つかれば、どこまで確かなものなのかを含めて説明する。まだ推測にすぎないことまで事実のように語ることはなく、反対に、沙羅が不安そうにしているからという理由で都合の悪い情報を隠すこともしなかった。

 これまでに判明したのは、志紋家の馬車が街道を外れた直後、軍府より先に朝廷の役人を名乗る者たちが現場に入りながら、事故原因とされた車軸には破損を確認した者の記録さえ残っていないこと、さらに父が亡くなるまでの十一日間で使節襲撃事件に関わった複数の役人と面会し、別邸から消えたレフィアまで、その動きに関係していた可能性が高いということだった。

 一つ一つを並べれば、両親が偶然の事故で亡くなったとは考えにくくなっていくものの、それだけでは誰が何のために二人を殺したのかまでは分からない。


 ところが、七月を間近に控えたある朝、その均衡を崩すものが志紋邸に届いた。

 封書を持ってきたのは、いつもの朝廷の使者ではなかった。門番によれば、まだ空が明るくなりきらない頃、門前の石柱に差し込まれていたのだという。

 宛名にはただ、志紋沙羅殿、とだけ書かれていた。
 家紋も差出人の名もない。
 沙羅が朝餉の席へ着いた時、その封書はすでに叔父の手元にあり、知らせを受けた周も登朝の支度を終えた姿で向かいに座っていた。

「開ける前に軍府に回すという手もある」

 叔父が言うと、周は封筒を直接手に取らず、卓上に置かれたまま表裏を確かめた。

「毒物の類が仕込まれている可能性は低いと思いますが、念のため素手では触らない方がいいでしょう。景に渡せば調べさせることはできます」

 沙羅は紙へ筆を走らせる。

『私宛なのですよね』
「ああ」
『でしたら、中を見たいです』

 周はすぐには頷かなかった。沙羅の顔と封書を見比べたあと、傍らに控えていた家令に薄手の手袋と小刀を用意させ、自分で封を切る。

 中に入っていたのは、二つ折りにされた一枚の紙だけだった。

 文面を読んだ周の表情から表情が消える。茶会で外国使節を相手にしていた時と同じ、感情の所在を容易には読ませない宮宰の顔だけが残った。

「沙羅」

 呼ばれて顔を上げると、周は封書を指先で押さえたまま言った。

「読む前に一つだけ言っておく。書いてあることを、そのまま受け取る必要はない」

 沙羅が頷くと、周が紙をこちらへ向ける。
 文字は筆跡を隠すように崩されていた。

 ――十年前に生き残った命を惜しむなら、花に触れるな。

 書かれていたのはその一文だけで、沙羅は一度読み終えてから、もう一度最初に戻った。

 読み返しても手は震えず、代わりに身体の奥が冷えていく。十年前の事件を調べていることだけでなく、沙羅が花へ触れて何かを読む力まで知る者がいるのなら、代々秘されてきた志紋家の異能が、事件の当事者側へ漏れているということになる。

 叔父が険しい顔で紙を見つめている。

「この力について知っている者は多くない」

 沙羅も同じことを考えていた。
 志紋家の異能は代々秘され、朝廷の中でも帝家に近い者と、ごく一部の重臣しか知らない。沙羅が花に触れなくなって以降は、叔父が意図的に外部との接触を減らしてきたため、現在その力が残っていると確実に知る人間となれば、さらに限られる。

「十年前に君のお父上が何を調べていたのかを知っている者なら、志紋家の力についても知っていた可能性がある」

 周はそう言いながら紙へ顔を近づけることなく、文字と紙質を確かめていた。

『周様』
「うん?」
『私が花に触れたことを見ていたのでしょうか』

 茶会でレフィアを見た時、沙羅は花に触れていない。
 押し花に触れたのは軍府書記官の娘の家であり、その場にいたのは本人と周だけだった。藤や青星草については志紋邸の中での出来事だから、外部の人間が知るはずもない。

「そこは僕も気になっている。君が実際に何かを読んだと知っているというより、調査が進んでいることから、力を使った可能性を考えているのかもしれない」
『脅しているのですね』
「ああ。ただし、何も知らない相手なら、わざわざこんなものは送らない」

 周はようやく沙羅を見た。

「向こうが焦っているということでもある」

 脅迫を受けた本人より落ち着いているように見えるが、その目には普段の柔らかさがなかった。

『今日は朝廷に行かれるのですか』
「行くよ。だが一人では行かない。景にも知らせるし、今日から屋敷の警備も増やす。約束は忘れていないよ」

 以前なら、それでも行かないでほしいと書いたかもしれないが、危険を承知したうえで周自身が選んで動いていることを、沙羅はもう知っていた。

『分かりました』

 そう書いてから、もう一行を足した。

『必ず帰ってきてください』

 周は文字を読み、ふわりと目を細めた。

「承知したよ、奥方殿」

 わざと改まって頭を下げる姿に、沙羅は呆れながらも、少しだけ笑った。
 周はその表情を見届けると、封書を持って立ち上がる。

「これで一つ、確かめるべきことが増えた」
『何をですか』
「この紙を用意できた人間が、どこにいるのかを」

 そう告げた時には、もう宮宰の顔に戻っていた。