梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その日の午後、周は朝廷へ向かった。

 出仕する前にも何度か青星草を振り返り、「本当に何を見たのか、あとで全部教えてくれない?」と食い下がっていたが、沙羅が頑として断り続けると、さすがに諦めたらしい。

「花にも秘密を守る義務を教えておくべきだった」

 最後にはそんな、よく分からないことを言い残して屋敷を出ていった。

 沙羅は縁側からその背を見送り、姿が見えなくなってから、もう一度青星草の鉢に近づいた。ただし今度は花を読むためではなく、そこに咲くものを眺めるためだけに腰を下ろし、膝の上でそっと両手を重ねる。

 顔合わせの日には、周が持ってきた花束へ指を伸ばすことさえできなかった。それが、このひと月あまりの間に二度も、自らの意思で花へ触れている。

 一度目は、父と母が残した時間を知るため。そして二度目は、周が過ごしてきた時間を、自分から知りたいと思ったからだった。

 もちろん、花への恐怖がなくなったわけではない。レフィアを思い出せば今でも指先が冷たくなり、十年前の馬車に続く記憶へ踏み込むことを考えれば、身体は無意識に強張ってしまう。

 それでも、怖いから触れないという一つの道しか持たなかった頃とは、もう違っていた。

 見たい記憶があり、知りたい人がいるのなら、そのために自分の意思で花へ手を伸ばすこともできる。そう思えるようになったことが、沙羅には不思議であり、少しだけ嬉しくもあった。

 ただ、周への気持ちを本人へ伝えるつもりは、まだない。

 気づいたばかりの感情を、自分でもどう扱えばよいのか分からないうえ、何よりあの男のことである。もし告げようものなら、屋敷中に聞こえるほど大仰に喜びかねない。

 そこまで想像したところで、沙羅は思わず顔を伏せた。

 きっと周なら、「僕の心臓は君のものさ」くらいのことは、何のためらいもなく言うだろう。

 以前であれば迷わず『いりません』と返せたが、今はどうにも自信がない。その事実に思い至ったことで、沙羅はますます扱いに困った感情を持て余すことになった。


 日が傾き始めた頃、叔父が庭へ出てきた。
 青星草の前に座っている沙羅を見つけると、何も言わずその隣に腰を下ろし、しばらくの間花を眺めていた。

「周殿の花かい?」

 沙羅が頷くと、叔父は青星草へ視線を移した。

「触ったのか」

 驚いて振り向いた沙羅に、叔父は穏やかな笑みを向ける。

「顔を見れば分かるよ。昔、君が花から良いものを見た時は、そんな顔をしていた」

 おそらく幼い頃のことなのだろうが、沙羅自身にはほとんど記憶が残っていない。

『良いもの、でした』
「そうか」

 叔父はそれ以上、何を見たのかとは尋ねなかった。
 親子ではなくとも、十年もの間沙羅を守り続けてきたこの人は、周とはまた違う形で、人を急かさずに待つことを知っている。

 しばらく二人で花を眺めてから、沙羅は今朝交わした言葉を思い出し、膝の上の紙へ筆を走らせた。

『叔父様』
「うん?」
『朝、周様に何も背負わせないようにするのは、周様が困るかもしれないと仰いましたね』
「言ったね」
『少し分かった気がします』

 叔父は書かれた文字を読み終えると、何かを確かめるように沙羅へ顔を向けた。けれど、彼女がそれ以上続きを書こうとしないことに気づくと、理由を問う代わりに静かに頷く。

「なら、よかった」

 その一言だけで、沙羅には十分だった。


 夜になり、周は約束していた時刻より少し遅れて帰宅した。
 沙羅が玄関まで迎えに出ていると、扉を開けて入ってきた周は、家令に外套を渡しかけたところで彼女に気づき、意外そうに足を止めた。

「どうしたの?」

 紙を持っていなかったため、沙羅が答える代わりに首を傾げると、周はすぐに理由を察したらしく、嬉しそうに目元を和らげる。

「いや、沙羅が玄関まで来てくれるのは珍しいから」

 そう言ってから、「ただいま」と、どこか嬉しそうに告げた。
 その声を聞いた途端、沙羅は思わず口を開きかけた。

 ――お帰りなさい。

 言ってみたい、と思ったのだ。
 けれど、喉はまだ声を形にしてくれなかった。無理に音に変えようとすると、十年前に聞いた父の声が、記憶の底からかすかに蘇ってくる。

 沙羅はそれ以上、無理をしなかった。

 今はまだ、これでいい。
 そう自分に言い聞かせ、代わりに周を見つめたまま、唇だけをゆっくりと動かす。

 ――おかえりなさい。

 周の目は見開かれたものの、以前一度、沙羅の口元だけで言葉を読んだ経験があるためか、今度は迷わなかった。

「……ただいま」

 先ほどと同じ言葉のはずなのに、今度はどこか違って聞こえた。

 沙羅が小さく笑うと、周もつられるように笑い、そのまま二人で居間へ向かおうとしたところで、彼がふと思い出したように足を止める。

「そうだ。今日、陛下から妙なことを言われたよ」

 沙羅が振り返ると、周は少し困ったような顔をした。

「最近、僕が以前より機嫌よく働いているらしい」

 思い当たる節がなく、沙羅が首を傾げれば、「自覚はないんだけれどね。何か良いことでもあったのかと聞かれた」と続ける。

 それはあるのだろうかと沙羅が考えている間に、周はこちらへ目を向け、いつもの調子で笑った。

「沙羅と結婚したからでしょう、と答えておいた」

 何気なく告げられたため、沙羅は思わず足を止めた。

「どうしたんだい?」

 どうしてこの男は、こういうことだけは少しも恥ずかしがらずに言えるのだろう。
 何も返さず再び歩き出すと、当然のように後ろから周が追ってくる。

「沙羅?」

 沙羅は振り返らず、そのまま歩みを速めた。

「待って。今、僕はかなりいいことを言ったと思うんだけど」

 それでも無視して先へ進めば、ますます納得のいかない声が背後から飛んでくる。

「無視するのはひどくない?」

 返事をするつもりはないのに、口元にはどうしても笑みが浮かんでしまう。

 自分が好きになった男は、政治の場では何手も先を読み、異国の使節を相手に一歩も退かず、十年前の記録に残されたわずかな綻びさえ見逃さない。それなのに、今この瞬間、沙羅がどうして逃げるように歩いているのかについては、一手先どころか目の前のことさえ分かっていないらしい。

 その鈍さが、今だけは少しありがたかった。

 もうしばらく、この気持ちは自分だけのものにしておきたい。

 たとえ花が先に知ってしまったとしても、本人にまで教えてやる必要はないのだから。

 廊下の向こうから、まだ納得していない周の声が追いかけてくる。それを聞いているうちに堪えきれなくなり、沙羅はとうとう足を止め、声の代わりに肩を揺らして笑った。

 まだ声は戻っていない。
 けれど、この人へ向けて笑うことも、唇だけで帰宅を迎えることも、知りたいと思った花に自分から手を伸ばすことも、もはや誰かに与えられたものではなかった。

 そのどれもが、沙羅自身の意思で選び取ったものだった。

 そして、一つずつ選び取ったものの先に周がいることを嬉しいと思う、この気持ちだけは、もう知らなかった頃に戻すことができそうになかった。