梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 最初に流れ込んできたのは、陽射しの暖かさだった。

 視界がゆるやかに切り替わり、やがて現れたのは織部家の庭らしい広い庭園の一角だった。今の志紋邸とは趣の異なるその場所で、まだ若い周が土の入った鉢を前にしゃがみ込み、真剣な顔で葉の様子を覗き込んでいる。

『もう少し水を減らした方がいいのかな』

 独り言として漏れた声は、今とほとんど変わらない。すると隣にいた年嵩の庭師らしい男が、呆れを隠そうともせず口を挟んだ。

『それ以上構うと枯れますよ、若様』
『構わなければ枯れるかもしれないだろう』
『植物は若様ほど心配性ではございません』
『僕を心配性と言うのか』
『花に関してだけは』

 そのやり取りを最後に景色がほどけ、次に沙羅の意識に触れたのは雨の気配だった。

 周は軒下に鉢を運び込みながら、雨に濡れた髪を鬱陶しそうにかき上げている。

『よかった。間に合った』

 その声に重なって伝わってきたのは、大げさな安堵ではなかった。大切にしているものが損なわれずに済んだことを喜ぶ、ささやかな感情が、花の奥に静かに残されている。

 さらに記憶が移ると、今度は婚礼を控えた頃なのだろう。周は青星草の前でしゃがみ込み、まだ花をつけていない葉をしばらく眺めていた。

『君は連れていこうか』

 猫にでも話しかけるような口調で花に話しかけるものだから、沙羅は思わず笑いそうになる。

『向こうの庭が気に入るかは分からないけれど、僕も同じだからね』

 その言葉に重なっていたのは、長く暮らした家を離れる寂しさだけではなかった。名残惜しさの奥には、新しい場所に向かうことを楽しみにする明るさがあり、それ以上にはっきりと残っていたのは、まだ顔合わせを終えたばかりの少女を案じる気持ちだった。

 ――沙羅が、あの庭で穏やかに過ごせるといい。

 それは声ではなく、花に沁み込んだ感情が意味となって、直接沙羅の中へ流れ込んできたものだった。

 指を離すこともできないまま見ているうちに、記憶はまた別の朝へ移っていく。

 志紋邸に移ってから間もない頃、周は青星草の葉を確かめながら、隣に置かれた鉢へ水を与えていた。ふと庭の向こうへ目を向けた時、そこを歩いていた沙羅の姿が視界に入り、彼の手がぴたりと止まる。

 けれど、声をかけることはしない。

 沙羅は一人で梔子を眺めており、その姿を見つめながら周の内に浮かんだものが、そのまま花の中に残されていた。

 ――今日は、少し顔色がいい。

 次の朝には、眠れたのだろうかと気にかけ、また別の日には、昨日よりよく笑ったと安堵する。さらに本を読んでいる沙羅を見つけた日には、あの場所が好きなのだろうと、ただ静かにその様子を見守っていた。

 そこには、何かを求める気持ちがほとんどない。
 話してほしいとも、笑ってほしいとも、自分を好きになってほしいとも願わず、その日の沙羅が穏やかであることを確かめ、それを嬉しいと思う気持ちだけが、いくつもの朝に重なるように残されていた。

 胸の奥が締めつけられるように苦しくなったものの、それはあの日の恐怖とはまるで違う痛みだった。

 やがて流れ込んできたのは、ルゼリア使節を迎える茶会、その前日の記憶である。

 周はいつものように水をやりながら、妙に真剣な顔で青星草を見つめていた。

『明日は沙羅が宮中に来るんだ」

 まるで報告でもするように花に告げている。

『僕が働いているところを見たいそうだ』

 嬉しい。その感情だけは驚くほど飾り気がなく、まっすぐ沙羅の胸に届いた。

『格好いいと思ってもらえるだろうか』

 すると、庭の向こうから庭師の声が飛んでくる。

『旦那様、花に相談しても仕方ありませんよ』
『分かっている』
『ならば早くお支度を』
『分かっていると言っているだろう』

 そこで記憶がふっと途切れ、沙羅はようやく青星草から指を離した。

 朝の庭が戻り、すぐ隣には周がいる。それなのに、どうしても顔を見ることができなかった。

「沙羅?」

 名前を呼ばれた途端、堪えていたものが一気に込み上げ、目の奥が熱くなる。頬を伝った涙を見るなり、周は目に見えて慌てた。

「どうした?! どこか痛いのか?」

 焦った声が庭に響く。

「何を見たんだい。嫌なものだった? まさか毒虫か? いや、虫の記憶まで残るのか? 僕の花が何かした?」

 必死に首を振って否定しても涙は止まらず、それを見た周はますます落ち着きを失っていった。

「どこか痛い? 気分が悪いなら座ろう。庭師を呼ぶ? 医者の方が――」

 何も悪いことは起きていないのだと伝えたかったが、紙も筆も手元にはない。沙羅は袖で涙を拭いながら周へ手を伸ばし、その袖を掴んだ。

 その動きに、周の声が止まる。

 沙羅は袖を掴んだまま、もう片方の手でもう一度青星草へ触れた。

「沙羅?」

 再び流れ込んできたのは、先ほどと同じ暖かなものだった。

 今度は記憶を追わず、ただ花の奥に残されている感情だけを受け取っていく。

 朝の水も、雨を避けるために伸ばされた手も、蕾を見つけた時の小さな喜びも、そのすべての時間の中で、沙羅の存在が混じっていた。

 今日も穏やかならいい。昨日より眠れていればいい。庭で花を見ることを嫌いにならなければいい。

 沙羅が何かを返さなくても、周の内にあるものは少しも損なわれず、ただ静かにそこにあり続けている。

 指を離したあとも涙はしばらく止まらなかったが、今度はきちんと周の顔を見ることができた。心配そうなその顔まで花は見てきたのだろうかと思うと、可笑しさが込み上げ、沙羅は泣きながら小さく笑ってしまう。

「泣きながら笑うのはやめてくれないかな。僕はどうしたらいいのか分からない」

 沙羅は周の袖から手を離すと、急いで縁側に戻り、置いてあった紙と筆を手に取った。

『何も悪いものは見ておりません』

 後を追ってきた周が、その文字を読む。

「では、どうして泣いているんだい?」

 答えようと筆を下ろしたものの、何をどう記せばよいのか分からず、沙羅の手は紙の上で止まった。

 周様が私を見ていました、と書くのでは、少し違う。
 私が穏やかでいることを願っていました、と記せば、花を通して彼の内側を覗いてしまったことが急に恥ずかしく思えてくる。

 迷った末、沙羅は少しだけ遠回りをするように文字を綴った。

『周様は、花にまでよくお話しになるのですね』

 それを読んだ瞬間、周の表情がわかりやすく固まった。

「……何を見たんだ?」

 問いかけられても沙羅は目を逸らし、『内緒です』とだけ返した。

「待ってほしい。今の反応は怖い」
『青星草に、明日は私が宮中に来るとお話しになっていました』

 周は無言で額を押さえた。

「そこまで残るのか……」
『格好いいと思ってもらえるでしょうか、と』
「沙羅」
『はい』
「それ以上は忘れてくれないか?」

 珍しく狼狽えるものだから、沙羅は肩を揺らして笑った。自分の美貌も花への愛情も、思ったことさえ隠そうとしない男なのに、花に残した気持ちを本人へ知られることだけは、さすがに気まずいらしい。

『嫌です』
「何で?」
『よいものを見ましたから』

 周は紙を読み終えると、今度こそ言葉を失ったように黙り込んだ。

 沙羅は筆を持ったまま少しだけ迷い、最後にもう一つ、どうしても伝えておきたいことを書き加える。

『嬉しかったのです』

 それこそが、涙の理由だった。

 周はその文字に目を落としたあと、先ほどまでの慌てた様子を失い、静かに沙羅を見る。

「そう」

 短く返したきり、何かを続けようとしたらしい唇は、結局そのまま閉じられた。

 けれど、その沈黙は少しも苦しくなかった。

 青星草に残されていたものを、周にすべて話そうとは思わない。あれは花が自分に見せてくれた、この人が過ごしてきた時間なのだと思えた。

 ただ、その記憶に触れたことで、一つだけ誤魔化せなくなったことがある。

 沙羅はもう、周をただ優しい夫として見ているわけではなかった。

 朝、姿が見えなければ気になり、帰りが遅ければ足音を待つ。危険に近づくと知れば怖くなり、宮中で働く姿を見れば格好いいと思う。

 花に話しかけていたことを知れば可笑しくなり、自分の知らない場所で、ただ穏やかに過ごせるよう願われていたと知っただけで、こんなにも涙が溢れてしまう。

 その感情に名前をつけることを、沙羅はこれまで避けていたのかもしれない。

 声を失ってからというもの、人と深く結びつくことそのものを、どこかで諦めていた。叔父を大切に思い、亡くなった父と母を今も愛しているけれど、それとはまるで違う形で誰かを求める気持ちが、自分の中で生まれることなど考えたこともない。

 けれど今なら、周がいなくなることを想像した時にあれほど怖かった理由も、帰宅する足音を待つようになった理由も、自分の書いた言葉を誰より彼に読んでもらいたいと思う理由も、すべて同じところに繋がっているのだと分かる。

 沙羅は、周が好きなのだ。
 そう気づいてしまった途端、目の前に立っているその人を見ることさえ難しくなり、沙羅は誤魔化すように紙へ視線を落とした。

「沙羅?」

 不思議そうに名前を呼ばれる。

「今度はどうしたんだい?」
『何でもありません』
「本当?」
『本当です』
「さっきから顔が赤いけれど」

 反射的に頬に手を当てると、周の目が細められた。

「熱でもある?」

 政治の場では人の意図を何手も先まで読むくせに、どうしてこういう時だけ見当違いなところへ行くのだろうと思うと、今度は少し腹が立ってくる。

 沙羅はいつもより強く筆を走らせた。

『ございません』
「ならいいけれど」

 それでもまだ心配そうな顔をしている周を見ているうちに、つい先ほど芽生えたばかりの恋の自覚が、今度は可笑しさを連れて胸の中へ広がっていった。

 この人を好きになったのか。
 花を前に庭師と喧嘩をし、夜中に明かりを消すかどうかで本気になり、挙げ句の果てには花に妻の話までしている、この人を。

 そこまで考えると、少しばかり自分の選択を疑いたくなる。

『旦那様』
「何?」

 呼びかけてから、沙羅は紙へ視線を落とし、ほんの少しだけ口元を緩めた。

『何でもありません』
「呼んでおいて?」

 不満そうな声を背中で聞きながら、沙羅は紙を胸元へ引き寄せ、笑ったまま庭へ顔を向ける。

 青星草は、何も知らないような顔をして、朝の風に静かに揺れていた。