梔子の花嫁ー帝都婚姻録ー

 数日後、沙羅は庭の一角で見慣れない鉢を見つけた。
 志紋邸の庭には、周が織部家から運び込んだ鉢植えがいくつも並べられている。その多くは本人が置き場所を決め、日当たりや風通しまで庭師と相談していたから、沙羅もどれが周の花なのか大まかには覚えていた。

 その中で、一本だけ離れた場所に置かれている鉢があった。背丈は低く、細い茎の先に淡い青の花をつけている。
 華やかな大輪ではない。小さな花弁が重なり、中心に近づくにつれて色が少し深くなる。風が吹けば簡単に揺れてしまいそうな姿なのに、茎は思ったよりしっかりしており、午後の陽を受けて静かに咲いていた。

 沙羅が縁側から眺めていると、庭師が通りかかった。

「奥様、そちらが気になりますか」

 沙羅は頷き、紙へ書く。

『以前からありましたか』
「旦那様が織部家からお持ちになったものですよ。婚礼の前から大切に育てていたそうですが、移したあと少し弱りましてね。ようやく花をつけたんです」

 沙羅はもう一度鉢を見る。

『何という花ですか』
「私どもでは青星草と呼んでおります。珍しいものではございませんが、旦那様はこちらの株をずいぶん気に入っておられるようで」

 そう教えた庭師は、少し苦笑した。

「蕾をつけてからというもの、朝に一度、帰ってから一度、毎日のように様子を見ておいででしたよ」

 いかにも周らしい。
 沙羅は小さく笑い、鉢へ近づいた。

 手が届くほど近くに立っても、身体は固まらない。
 以前なら、花のそばへ近づくだけで、もし触れてしまったらという恐怖が先に立った。それが今は、触れない限り何も起きないと落ち着いて考えられる。

 藤の花から、父と母の穏やかな記憶を受け取ったからかもしれない。
 花に残るものが恐怖や悲しみだけではない。そう知ったことは、沙羅が思っていた以上に大きかった。

 けれど、この花に触れることはしなかった。
 周の大切な花であるなら、なおさら勝手に記憶を覗くようなことをしたくない。
 沙羅はしばらく眺めたあと、その場を離れた。

 
 その夜、帰宅した周へ青星草のことを尋ねると、案の定、話は長くなった。

「咲いたのを見たかい?」」

 沙羅が頷いた瞬間、周は夕餉の箸を置いて身を乗り出す。

「あれは去年の春に苗を分けてもらったんだけれど、最初の土が合わなくてね。葉ばかり伸びるのに花芽がつかなくて、一度植え替えたんだ。そのあと冬越しが少し危なくて、もう駄目かと思ったのだけれど――」
『お食事が冷めます』
「大事なところなんだけど」
『花は逃げません』
「食事も逃げないよ」
『冷めます』

 周は不満そうにしながらも箸を取り直した。
 沙羅は少し笑ってから、別の紙へ書く。

『あの花がお好きなのですね』
「好きだよ」
『特別なのですか』
「特別、というほど大層な由来はないけれど、僕が初めて一人で挿し芽から育てた株の子なんだ。元の株は織部家の庭に残してきたから、こちらに持ってきたあれが僕の手元にある最後の株になる」

 沙羅は青い花を思い浮かべる。
 織部家で育てていた庭を置いて志紋家に入った周が、持ってこられるものだけを選んだ時、その中に入れた花なのだろう。

『触れてもよろしいですか』

 何気なく書いたつもりだった。
 けれど紙を見た周の動きが止まり、しばらくしてから沙羅へ顔を上げる。

「花の記憶を見るために?」

 沙羅が頷くと、周は意外そうな顔をした。

「どうしてあれを?」

 問いかけられ、今度は沙羅が迷った。
 理由をうまく説明できない。父や母の過去を知るためではないし、事件に繋がる何かを求めているわけでもない。

 ただ、周が長い時間をかけて育ててきた花だと知った時、触れてみたいと思った。
 この人が花と過ごしてきた時間を、少しだけ知りたい。そんなことをそのまま書くのは、なんだか気恥ずかしかった。

『触れてみたいと思ったからです』

 結局、それだけを記した。
 周は紙を読んだあと、心配そうに眉を寄せる。

「嫌なものが残っている可能性もあるよ」
『周様がお育てになったのでしょう』
「僕だって毎日ご機嫌で花に話しかけているわけじゃないからね。仕事で腹を立てた日に世話をしたこともあるし、虫に葉を食べられた時はかなり荒れた気持ちになった記憶がある」
『虫にですか』
「苦労して増やした葉を一晩で食べられたら、沙羅だって腹が立つと思うよ」

 想像すると妙に可笑しくなった。

『それでも、触れてみたいです』

 もう一度書くと、周はしばらく考えてから頷いた。

「分かった。なら明日の朝、一緒に行こう」
 

 翌朝はよく晴れた。
 雨の名残を含んだ土から淡い匂いが立ち、庭の奥では梔子が数輪だけ先に開いている。まだ庭全体を満たすほどではないものの、風向きが変わるたび甘い香りが縁側まで届いた。

 周は出仕前にもかかわらず、青星草の鉢を前にして沙羅の隣に立っている。

「やはり、やめてもいいからね」

 今朝だけで三度目になる言葉に、沙羅は紙へ、『旦那様の方が怖がっていませんか』と書いた。

「僕は怖いよ。自分でも忘れているような恥ずかしい記憶を花に見られていた可能性があるんだから」
『花は誰にも話しません』
「沙羅には話すだろう?」

 確かにそうである。
 沙羅は少し考えたあと、『では、嫌でしたらやめます』と書いた。

「いや、それはもっと気になる」

 周は困った顔で青星草を見ている。

「ここまで来たら、僕の花が何を覚えているのか知りたい」

 結局、好奇心が勝ったらしい。
 沙羅は笑って紙を畳み、青星草へ向き直った。

 小さな花が朝の風に揺れている。
 藤に触れた時とは違い、指先に震えはなかった。
 それでも深く息を吸い、花弁に触れる直前に周を見ると、彼は手を伸ばせば届く距離に立ちながら、沙羅自身の判断を待っていた。

 大丈夫だと思い、沙羅はそっと花に触れた。