「志紋家は帝家と縁が深いから、事故を聞いて朝廷側が早く動いたのだろうと、当時は誰も不思議に思わなかったそうだ。ただ、到着が早すぎる。事故発生から軍府に知らせが届き、騎兵が現場に向かうまでの時間を計算すると、その者たちは知らせを受けてから来たとは考えにくい」
『事故が起きることを知っていた?』
「そう考えれば辻褄は合う。でも、それだけでは証拠にならないね」
沙羅が手元の紙へ目を落とすと、周は少し間を置いてから話を続けた。
「もう一つ、車軸の件でも話が聞けた。現場に着いた騎兵は、馬車の車輪が壊れていること自体は見ている。ただ、彼の記憶では車軸が先に折れて事故になったというより、斜面に落ちた衝撃で壊れたように見えたらしい」
『では、正式な記録は』
「事故原因が車軸の破損だったと書き換えられている。誰がそう判断したのかを示す書類は、今のところ見つかっていない」
周の話を聞くほどに、父と母の死を事故として片づけるため、何者かが意図して記録を整えたのではないかという疑いは濃くなっていく。それなのに沙羅の胸に広がったのは、真相に近づいていることへの期待ではなく、目の前にいる周を失うかもしれないという新たな恐怖だった。
十年前の事件について、彼は何も知らなかった。沙羅と婚姻していなければ、志紋夫妻の事故を改めて調べる理由すらなかったはずなのに、今は宮宰としてルゼリアとの条約交渉を進める傍ら、軍府へ足を運んで古い記録を読み、当時を知る者から自ら話を聞いている。
もし、この先にいる何者かが今も朝廷の中で力を持ち、周の動きに気づいたなら――。
父と母に起きたことが、今度は周に起こるかもしれない。そこまで考えた途端、胸の奥に冷たいものが広がり、沙羅は衝動に急かされるように筆を取った。
『もう、調べなくても構いません』
周の視線が、紙の上で止まる。
「どうして?」
『ここまで分かれば、父と母が事故で亡くなったわけではないかもしれないと知ることができました。それだけで十分です』
もちろん、そんなはずはなかった。誰が両親を殺したのか、父は何を知り、何故自分だけが生き残ったのか、知らなくてもよいと思えることなど一つもない。それでも筆を止めることができず、嘘を書き連ねているうちに、呼吸まで浅くなっていく。
周は紙と沙羅を見比べた。
「沙羅」
名前を呼ばれても顔を上げることができず、沙羅は逃げるように次の言葉を書いた。
『条約のお仕事もございます。私の家のことまで、周様がお調べになる必要はありません』
「必要があるかどうかは、僕が決めてもいいかい?」
その一言で筆が止まり、ようやく顔を上げると、周は怒ってはいなかったものの、いつもの柔らかな笑みも浮かべてはいなかった。
「君が真相を知りたくないと言うなら、僕はやめるよ。これは君のご両親のことだから、君がもう触れてほしくないと望むなら、その意思は尊重する」
一度そこで言葉を切った周は、沙羅の書いた紙へ指先を添える。
「でも、僕のためにやめろと言うのなら、それは聞けない」
何かを書き返そうとした沙羅より先に、周が続けた。
「僕がこの件を調べているのは、沙羅に頼まれたからじゃない。もちろん、君のご両親の死を明らかにしたいという気持ちはあるけれど、それだけでもないんだ」
『では、何故ですか』
「十年前の使節襲撃と、志紋夫妻の死が本当に繋がっているのなら、それは今の条約交渉とも無関係ではいられない。十年前に一度交渉を潰した者がいるなら、その人間が今度は何もしないと考える方が危険だろう?」
沙羅は返す言葉を失い、ただ彼を見つめるほかなかった。
「だからこれは、僕の仕事でもある」
周は事実を確認するような淡々とした口調でそう告げると、さらに続けた。
「それに、宮宰だからでもなく、志紋家に入ったからでもなく、僕自身が知りたいと思っている。君のお父上が何を守ろうとしたのか、何故そのために命を失わなければならなかったのかを、途中まで見つけておいて目を閉じるつもりはないよ」
『けれど、危険です』
「危険かもしれないね」
あっさりと認められたことで、紙を押さえる沙羅の指先に思わず力がこもる。
「だから景にも協力を頼んでいるし、朝廷でも僕一人で動いてはいない。危険があると分かっているのに、花を見つけたからと一人で夜道を走っていくほど無鉄砲ではないつもりだよ」
少しだけ普段の調子を取り戻した周とは反対に、沙羅は笑うことができなかった。
『私と結婚しなければ、巻き込まれなかったのに』
とうとう書いてしまったそれは、今朝からずっと胸の内に蟠っていた言葉だった。
周は紙に落とされた文字を読み終えてもすぐには答えず、その沈黙に耐えられなくなった沙羅が後悔とともに紙を伏せようとすると、伸びてきた手が静かにその動きを止めた。
「僕が志紋家に入ると決めた時、君は何も隠して僕を騙したわけではないだろう」
沙羅が俯くのを見ながらも、周の声は変わらず穏やかだった。
「声が出ないことも、花を怖がっていることも知っていた。志紋家が普通の華族ではないことも、帝家との関係が深いことも分かった上で婚姻を受けたんだ。ご両親の死に事件が隠れていることまでは知らなかったけれど、それを君の責任にするのは違うよ」
いつの間にか、紙を押さえていた沙羅の指から力が抜けていた。
「それとも僕は、綺麗な庭と可愛い妻だけいただいて、厄介なことが出てきたら織部家へ逃げ帰るような男に見えるかい?」
思わず顔を上げると、周は至って真面目な顔をしている。
『可愛い妻、は余計です』
「そこ?」
『大事なところです』
「今の話で一番大事なのは、そこじゃないと思うのだがね」
呆れたように眉を下げた周だったが、その表情はすぐに柔らかなものに戻った。
「君が僕を心配してくれるのは嬉しいよ。でも、自分のせいで僕が巻き込まれたとは思わないでほしい。僕は自分で選んでここにいるし、自分で選んで調べている」
沙羅はその言葉を書き留めることもなく、ただ静かに聞いていた。
――自分で選んでいる。
思えば、それは婚姻を決めた時にも周が示してくれたことだった。帝に命じられたからでも、織部家の都合だけでもなく、自らの意思で志紋家へ入り、沙羅の夫になることを選んだのだ。その選択を、選ばれた側である自分が勝手に犠牲へ置き換えてしまうこともまた、違うのかもしれない。
しばらく迷った末、沙羅はもう一度筆を取った。今度は取り繕うことも、彼を遠ざけるための嘘を書くこともせず、胸の内にあるものをそのまま紙へ落としていく。
『怖いのです。父と母のように、周様までいなくなるのではないかと思うと、怖いのです』
書き終えて筆を置くと、周は長いこと紙を見つめていた。その沈黙が次第に恥ずかしくなり、沙羅が取り消すための言葉を探しかけた時、向かいから伸びてきた手が、卓上に置かれていた彼女の指へそっと触れる。
手を握られるのは、これが初めてではない。それなのに今夜は、触れたところから伝わってくる温度を、以前よりもはっきりと意識してしまった。
「分かった」
そう答えた周の指が、沙羅の手をゆっくりと包み込む。
「では、僕はできるだけ長生きできるよう努力するよ」
思いがけない返事に沙羅が目を瞬かせると、周は握った手を離さないまま、至極真面目な顔で続けた。
「危ないことを一人でしない。何か分かったら君に話す。食事も抜かないし、無茶な徹夜もしない。馬車に乗る時は車軸まで確認する」
『最後のものは、毎回なさるのですか』
「必要なら」
『御者が困ります』
「僕の命がかかっているからね」
どこまで真面目で、どこから冗談なのか分からなかったけれど、沙羅の指を包んでいる手だけは変わらずそこにあった。
「それでも絶対に何も起きないとは約束できない。僕は陛下に仕える立場だし、外交の仕事をしていれば、危ないことが一つもない人生にはならないだろうから」
沙羅が顔を上げると、周は誤魔化すことなく、その視線をまっすぐに受け止めた。
「だから、できない約束の代わりに、帰ってくる努力はする」
その言葉は、すぐに慰めとして胸に染み込むのではなく、時間をかけて確かな重みを持つものとして、沙羅の中にゆっくりと沈んでいった。
必ず大丈夫だとも、何があっても守るとも言わない。周はいつも、叶えられるか分からないことまで美しい言葉で飾ろうとはせず、その代わり、自分にできることを選び取って差し出してくれる。
沙羅は包まれた手に視線を落とし、わずかに迷ったあと、彼の掌の中で自分の指を動かした。
今度は、自分から握り返す。
その小さな動きに周が驚いたように目を見開いたので、沙羅は何事もなかったように紙へ筆を走らせた。
「沙羅」
『何ですか』
「いや、何でもない」
そう言いながらも、周の顔には隠しようのない喜びが浮かんでおり、沙羅はそれを指摘する代わりに、握り返した手だけはそのままにしておいた。
『事故が起きることを知っていた?』
「そう考えれば辻褄は合う。でも、それだけでは証拠にならないね」
沙羅が手元の紙へ目を落とすと、周は少し間を置いてから話を続けた。
「もう一つ、車軸の件でも話が聞けた。現場に着いた騎兵は、馬車の車輪が壊れていること自体は見ている。ただ、彼の記憶では車軸が先に折れて事故になったというより、斜面に落ちた衝撃で壊れたように見えたらしい」
『では、正式な記録は』
「事故原因が車軸の破損だったと書き換えられている。誰がそう判断したのかを示す書類は、今のところ見つかっていない」
周の話を聞くほどに、父と母の死を事故として片づけるため、何者かが意図して記録を整えたのではないかという疑いは濃くなっていく。それなのに沙羅の胸に広がったのは、真相に近づいていることへの期待ではなく、目の前にいる周を失うかもしれないという新たな恐怖だった。
十年前の事件について、彼は何も知らなかった。沙羅と婚姻していなければ、志紋夫妻の事故を改めて調べる理由すらなかったはずなのに、今は宮宰としてルゼリアとの条約交渉を進める傍ら、軍府へ足を運んで古い記録を読み、当時を知る者から自ら話を聞いている。
もし、この先にいる何者かが今も朝廷の中で力を持ち、周の動きに気づいたなら――。
父と母に起きたことが、今度は周に起こるかもしれない。そこまで考えた途端、胸の奥に冷たいものが広がり、沙羅は衝動に急かされるように筆を取った。
『もう、調べなくても構いません』
周の視線が、紙の上で止まる。
「どうして?」
『ここまで分かれば、父と母が事故で亡くなったわけではないかもしれないと知ることができました。それだけで十分です』
もちろん、そんなはずはなかった。誰が両親を殺したのか、父は何を知り、何故自分だけが生き残ったのか、知らなくてもよいと思えることなど一つもない。それでも筆を止めることができず、嘘を書き連ねているうちに、呼吸まで浅くなっていく。
周は紙と沙羅を見比べた。
「沙羅」
名前を呼ばれても顔を上げることができず、沙羅は逃げるように次の言葉を書いた。
『条約のお仕事もございます。私の家のことまで、周様がお調べになる必要はありません』
「必要があるかどうかは、僕が決めてもいいかい?」
その一言で筆が止まり、ようやく顔を上げると、周は怒ってはいなかったものの、いつもの柔らかな笑みも浮かべてはいなかった。
「君が真相を知りたくないと言うなら、僕はやめるよ。これは君のご両親のことだから、君がもう触れてほしくないと望むなら、その意思は尊重する」
一度そこで言葉を切った周は、沙羅の書いた紙へ指先を添える。
「でも、僕のためにやめろと言うのなら、それは聞けない」
何かを書き返そうとした沙羅より先に、周が続けた。
「僕がこの件を調べているのは、沙羅に頼まれたからじゃない。もちろん、君のご両親の死を明らかにしたいという気持ちはあるけれど、それだけでもないんだ」
『では、何故ですか』
「十年前の使節襲撃と、志紋夫妻の死が本当に繋がっているのなら、それは今の条約交渉とも無関係ではいられない。十年前に一度交渉を潰した者がいるなら、その人間が今度は何もしないと考える方が危険だろう?」
沙羅は返す言葉を失い、ただ彼を見つめるほかなかった。
「だからこれは、僕の仕事でもある」
周は事実を確認するような淡々とした口調でそう告げると、さらに続けた。
「それに、宮宰だからでもなく、志紋家に入ったからでもなく、僕自身が知りたいと思っている。君のお父上が何を守ろうとしたのか、何故そのために命を失わなければならなかったのかを、途中まで見つけておいて目を閉じるつもりはないよ」
『けれど、危険です』
「危険かもしれないね」
あっさりと認められたことで、紙を押さえる沙羅の指先に思わず力がこもる。
「だから景にも協力を頼んでいるし、朝廷でも僕一人で動いてはいない。危険があると分かっているのに、花を見つけたからと一人で夜道を走っていくほど無鉄砲ではないつもりだよ」
少しだけ普段の調子を取り戻した周とは反対に、沙羅は笑うことができなかった。
『私と結婚しなければ、巻き込まれなかったのに』
とうとう書いてしまったそれは、今朝からずっと胸の内に蟠っていた言葉だった。
周は紙に落とされた文字を読み終えてもすぐには答えず、その沈黙に耐えられなくなった沙羅が後悔とともに紙を伏せようとすると、伸びてきた手が静かにその動きを止めた。
「僕が志紋家に入ると決めた時、君は何も隠して僕を騙したわけではないだろう」
沙羅が俯くのを見ながらも、周の声は変わらず穏やかだった。
「声が出ないことも、花を怖がっていることも知っていた。志紋家が普通の華族ではないことも、帝家との関係が深いことも分かった上で婚姻を受けたんだ。ご両親の死に事件が隠れていることまでは知らなかったけれど、それを君の責任にするのは違うよ」
いつの間にか、紙を押さえていた沙羅の指から力が抜けていた。
「それとも僕は、綺麗な庭と可愛い妻だけいただいて、厄介なことが出てきたら織部家へ逃げ帰るような男に見えるかい?」
思わず顔を上げると、周は至って真面目な顔をしている。
『可愛い妻、は余計です』
「そこ?」
『大事なところです』
「今の話で一番大事なのは、そこじゃないと思うのだがね」
呆れたように眉を下げた周だったが、その表情はすぐに柔らかなものに戻った。
「君が僕を心配してくれるのは嬉しいよ。でも、自分のせいで僕が巻き込まれたとは思わないでほしい。僕は自分で選んでここにいるし、自分で選んで調べている」
沙羅はその言葉を書き留めることもなく、ただ静かに聞いていた。
――自分で選んでいる。
思えば、それは婚姻を決めた時にも周が示してくれたことだった。帝に命じられたからでも、織部家の都合だけでもなく、自らの意思で志紋家へ入り、沙羅の夫になることを選んだのだ。その選択を、選ばれた側である自分が勝手に犠牲へ置き換えてしまうこともまた、違うのかもしれない。
しばらく迷った末、沙羅はもう一度筆を取った。今度は取り繕うことも、彼を遠ざけるための嘘を書くこともせず、胸の内にあるものをそのまま紙へ落としていく。
『怖いのです。父と母のように、周様までいなくなるのではないかと思うと、怖いのです』
書き終えて筆を置くと、周は長いこと紙を見つめていた。その沈黙が次第に恥ずかしくなり、沙羅が取り消すための言葉を探しかけた時、向かいから伸びてきた手が、卓上に置かれていた彼女の指へそっと触れる。
手を握られるのは、これが初めてではない。それなのに今夜は、触れたところから伝わってくる温度を、以前よりもはっきりと意識してしまった。
「分かった」
そう答えた周の指が、沙羅の手をゆっくりと包み込む。
「では、僕はできるだけ長生きできるよう努力するよ」
思いがけない返事に沙羅が目を瞬かせると、周は握った手を離さないまま、至極真面目な顔で続けた。
「危ないことを一人でしない。何か分かったら君に話す。食事も抜かないし、無茶な徹夜もしない。馬車に乗る時は車軸まで確認する」
『最後のものは、毎回なさるのですか』
「必要なら」
『御者が困ります』
「僕の命がかかっているからね」
どこまで真面目で、どこから冗談なのか分からなかったけれど、沙羅の指を包んでいる手だけは変わらずそこにあった。
「それでも絶対に何も起きないとは約束できない。僕は陛下に仕える立場だし、外交の仕事をしていれば、危ないことが一つもない人生にはならないだろうから」
沙羅が顔を上げると、周は誤魔化すことなく、その視線をまっすぐに受け止めた。
「だから、できない約束の代わりに、帰ってくる努力はする」
その言葉は、すぐに慰めとして胸に染み込むのではなく、時間をかけて確かな重みを持つものとして、沙羅の中にゆっくりと沈んでいった。
必ず大丈夫だとも、何があっても守るとも言わない。周はいつも、叶えられるか分からないことまで美しい言葉で飾ろうとはせず、その代わり、自分にできることを選び取って差し出してくれる。
沙羅は包まれた手に視線を落とし、わずかに迷ったあと、彼の掌の中で自分の指を動かした。
今度は、自分から握り返す。
その小さな動きに周が驚いたように目を見開いたので、沙羅は何事もなかったように紙へ筆を走らせた。
「沙羅」
『何ですか』
「いや、何でもない」
そう言いながらも、周の顔には隠しようのない喜びが浮かんでおり、沙羅はそれを指摘する代わりに、握り返した手だけはそのままにしておいた。



