父と母の死が事故ではなかったのかもしれないと初めて誰かに伝えた翌朝、沙羅が目を覚ました時には、隣で眠っていたはずの周の姿はすでになかった。
昨夜、藤棚から戻って横になった時には日付が変わるほど遅い時刻ではなかったが、長い一日の疲れが残っていたのだろう。沙羅は一度も目を覚まさないまま朝を迎えていた。
寝台の脇に置かれた卓には、昨夜まで使っていた紙と筆がそのまま残っている。
──父と母は、事故で亡くなったのではありません。
声にはならなかった言葉を、周は一音ずつ唇から拾ってくれた。
思い返すだけで、あの時頬に触れていた指の温度まで戻ってくるような気がして、沙羅は掛け布の上へ置いた自分の手を見る。
声を出せたわけではないのだから、十年前から何も変わっていないと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。それでも、父の言いつけによって閉ざされた場所から初めて自分の意思で何かを外に渡せたことは、沙羅にとって決して小さな出来事ではなかった。
ところが、その喜びに似た感覚に浸っていられたのは、朝餉の席で叔父の話を聞くまでだった。
「周殿なら、日の出前に朝廷へ向かわれたよ」
叔父は茶を飲みながら、昨夜遅くまで起きていた姪を気遣うように顔を見た。
「朝霧少将のところに寄ってから、十年前の警備記録を調べるそうだ。何でも、当時の報告書を書いた者のうち、まだ軍府に残っている人間が見つかったらしい」
沙羅は箸を持っていた手を止めた。
『旦那様がお一人で?』
用意されていた筆を取り、すぐに尋ねると、叔父は首を横に振った。
「宮中の官吏が二人ついているし、朝霧少将とも合流するそうだから、一人ではないよ。ただ、今日は帰りが遅くなるかもしれないと言っていた」
昨夜、周は約束した。
危ないことを一人でしない。何か分かれば沙羅にも話す。それを破ったわけではないのだと理解していても、胸のあたりに小さな棘が残った。
十年前の出来事を調べ始めたのは、自分がレフィアを見て記憶を取り戻したからである。
周はもともと、条約交渉を再開させるために働いていた。外交使節を迎え、帝の意向を受け、十年間停滞していた両国の関係を動かすことだけでも、宮宰として背負わなければならないものは十分に大きい。その人間に、さらに志紋家の過去まで抱えさせてしまっている。
父が何を知ったのか。誰が事故として処理したのか。レフィアはどこから来たのか。
昨夜までは知りたいという思いの方が強かったのに、一晩眠って朝の光の中で考えてみると、自分が周を十年前の闇に引き込んでいるのではないかという怖さが、急に輪郭を持ち始めた。
沙羅が考え込んでいることに気づいたのか、叔父が茶器を置く。
「心配かい」
沙羅はすぐには頷かなかった。何を心配しているのか、自分でも分からなかったからである。
周が危険な目に遭うことなのか。何も見つからないことなのか。あるいは、見つかってしまうことなのか。
迷った末に紙に書いたのは、それらとは少し違う言葉だった。
『旦那様は、私と婚姻しなければ、このようなことを調べずに済んだのでしょうか』
叔父は文字を読んでから、しばらく黙って沙羅を見ていた。
「それを周殿に聞くつもりかい」
沙羅は紙へ視線を落とす。聞いたところで、あの人なら困っているとは言わないだろう。
だからこそ、余計に分からない。
叔父は小さく息を吐いたあと、問いに直接答える代わりに、穏やかな声で言った。
「周殿が何を考えているかは、私には分からないよ。ただ、あの男は陛下から命じられたから志紋家に入ったわけではないし、まして君のご両親のことを調べろと命令されたわけでもない。そこだけは、分けて考えてもいいんじゃないかな」
沙羅が顔を上げると、叔父は目元を和らげた。
「君は昔から、人に迷惑をかけないようにしすぎるところがある。声が出なくなってからは、なおさらね」
責める調子ではなかった。
「書けば伝えられることでも、相手が忙しそうなら書かない。困っていても、自分で何とかできると思えば頼まない。それは悪いことではないけれど、夫婦になった相手にまで何も背負わせまいとするなら、周殿の方が困るかもしれないよ」
それ以上は言わず、叔父は冷めかけた茶を口へ運んだ。沙羅も朝餉に戻ったものの、箸はしばらく進まなかった。
周が帰宅したのは、空が茜色から群青へ変わり始める頃だった。
居間で待っていた沙羅は玄関の音を聞くなり本を閉じたが、すぐに立ち上がることはせず、廊下から聞こえてくる足音に耳を澄ませていた。
やがて襖が開く。宮中服の上着を腕に掛けた周は、いつもより疲れが顔に残っていた。それでも沙羅を見ると、目元をふわりと柔らげる。
「ただいま」
沙羅は卓上に用意していた紙へ、『お帰りなさいませ』と書いて見せた。
「今日はちゃんと待っていたと言ってくれる?」
普段なら別のことを書いて誤魔化していたかもしれない。けれど今夜は、『待っておりました』と続けた。
『何ですか』
「いや……」
妙に感慨深そうな顔をしたあと、周は向かいの椅子へ腰を下ろす。
「今日はいい日だね」
『お疲れなのでは?』
「疲れが今ので半分くらい消えた」
『残りの半分はご自分で何とかしてください』
「沙羅は本当に加減が上手になったなあ」
茶を運んできた侍女が笑いを堪えている。
沙羅は知らぬふりをして筆を置き、侍女が部屋を出るのを待ってから、周に向き直った。
『何か分かりましたか』
「ああ。その話をしようと思っていた」
周は持ち帰った薄い書類束を卓に置いた。
「十年前、君のご両親の馬車事故を担当した軍府の役人のうち、現場に二番目に到着した騎兵がまだ軍に残っていた。今は後方勤務に移っているけれど、当時のことを覚えていたよ」
沙羅はぴんと背筋を伸ばした。
「その男によれば、現場に着いた時には、すでに数人の役人がいたそうだ」
『軍府の方ではなく?』
「少なくとも彼の所属していた隊の人間ではない。朝廷の役人だと名乗ったらしい」
周は書類から一枚を抜き出し、沙羅に見せた。
昨夜、藤棚から戻って横になった時には日付が変わるほど遅い時刻ではなかったが、長い一日の疲れが残っていたのだろう。沙羅は一度も目を覚まさないまま朝を迎えていた。
寝台の脇に置かれた卓には、昨夜まで使っていた紙と筆がそのまま残っている。
──父と母は、事故で亡くなったのではありません。
声にはならなかった言葉を、周は一音ずつ唇から拾ってくれた。
思い返すだけで、あの時頬に触れていた指の温度まで戻ってくるような気がして、沙羅は掛け布の上へ置いた自分の手を見る。
声を出せたわけではないのだから、十年前から何も変わっていないと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。それでも、父の言いつけによって閉ざされた場所から初めて自分の意思で何かを外に渡せたことは、沙羅にとって決して小さな出来事ではなかった。
ところが、その喜びに似た感覚に浸っていられたのは、朝餉の席で叔父の話を聞くまでだった。
「周殿なら、日の出前に朝廷へ向かわれたよ」
叔父は茶を飲みながら、昨夜遅くまで起きていた姪を気遣うように顔を見た。
「朝霧少将のところに寄ってから、十年前の警備記録を調べるそうだ。何でも、当時の報告書を書いた者のうち、まだ軍府に残っている人間が見つかったらしい」
沙羅は箸を持っていた手を止めた。
『旦那様がお一人で?』
用意されていた筆を取り、すぐに尋ねると、叔父は首を横に振った。
「宮中の官吏が二人ついているし、朝霧少将とも合流するそうだから、一人ではないよ。ただ、今日は帰りが遅くなるかもしれないと言っていた」
昨夜、周は約束した。
危ないことを一人でしない。何か分かれば沙羅にも話す。それを破ったわけではないのだと理解していても、胸のあたりに小さな棘が残った。
十年前の出来事を調べ始めたのは、自分がレフィアを見て記憶を取り戻したからである。
周はもともと、条約交渉を再開させるために働いていた。外交使節を迎え、帝の意向を受け、十年間停滞していた両国の関係を動かすことだけでも、宮宰として背負わなければならないものは十分に大きい。その人間に、さらに志紋家の過去まで抱えさせてしまっている。
父が何を知ったのか。誰が事故として処理したのか。レフィアはどこから来たのか。
昨夜までは知りたいという思いの方が強かったのに、一晩眠って朝の光の中で考えてみると、自分が周を十年前の闇に引き込んでいるのではないかという怖さが、急に輪郭を持ち始めた。
沙羅が考え込んでいることに気づいたのか、叔父が茶器を置く。
「心配かい」
沙羅はすぐには頷かなかった。何を心配しているのか、自分でも分からなかったからである。
周が危険な目に遭うことなのか。何も見つからないことなのか。あるいは、見つかってしまうことなのか。
迷った末に紙に書いたのは、それらとは少し違う言葉だった。
『旦那様は、私と婚姻しなければ、このようなことを調べずに済んだのでしょうか』
叔父は文字を読んでから、しばらく黙って沙羅を見ていた。
「それを周殿に聞くつもりかい」
沙羅は紙へ視線を落とす。聞いたところで、あの人なら困っているとは言わないだろう。
だからこそ、余計に分からない。
叔父は小さく息を吐いたあと、問いに直接答える代わりに、穏やかな声で言った。
「周殿が何を考えているかは、私には分からないよ。ただ、あの男は陛下から命じられたから志紋家に入ったわけではないし、まして君のご両親のことを調べろと命令されたわけでもない。そこだけは、分けて考えてもいいんじゃないかな」
沙羅が顔を上げると、叔父は目元を和らげた。
「君は昔から、人に迷惑をかけないようにしすぎるところがある。声が出なくなってからは、なおさらね」
責める調子ではなかった。
「書けば伝えられることでも、相手が忙しそうなら書かない。困っていても、自分で何とかできると思えば頼まない。それは悪いことではないけれど、夫婦になった相手にまで何も背負わせまいとするなら、周殿の方が困るかもしれないよ」
それ以上は言わず、叔父は冷めかけた茶を口へ運んだ。沙羅も朝餉に戻ったものの、箸はしばらく進まなかった。
周が帰宅したのは、空が茜色から群青へ変わり始める頃だった。
居間で待っていた沙羅は玄関の音を聞くなり本を閉じたが、すぐに立ち上がることはせず、廊下から聞こえてくる足音に耳を澄ませていた。
やがて襖が開く。宮中服の上着を腕に掛けた周は、いつもより疲れが顔に残っていた。それでも沙羅を見ると、目元をふわりと柔らげる。
「ただいま」
沙羅は卓上に用意していた紙へ、『お帰りなさいませ』と書いて見せた。
「今日はちゃんと待っていたと言ってくれる?」
普段なら別のことを書いて誤魔化していたかもしれない。けれど今夜は、『待っておりました』と続けた。
『何ですか』
「いや……」
妙に感慨深そうな顔をしたあと、周は向かいの椅子へ腰を下ろす。
「今日はいい日だね」
『お疲れなのでは?』
「疲れが今ので半分くらい消えた」
『残りの半分はご自分で何とかしてください』
「沙羅は本当に加減が上手になったなあ」
茶を運んできた侍女が笑いを堪えている。
沙羅は知らぬふりをして筆を置き、侍女が部屋を出るのを待ってから、周に向き直った。
『何か分かりましたか』
「ああ。その話をしようと思っていた」
周は持ち帰った薄い書類束を卓に置いた。
「十年前、君のご両親の馬車事故を担当した軍府の役人のうち、現場に二番目に到着した騎兵がまだ軍に残っていた。今は後方勤務に移っているけれど、当時のことを覚えていたよ」
沙羅はぴんと背筋を伸ばした。
「その男によれば、現場に着いた時には、すでに数人の役人がいたそうだ」
『軍府の方ではなく?』
「少なくとも彼の所属していた隊の人間ではない。朝廷の役人だと名乗ったらしい」
周は書類から一枚を抜き出し、沙羅に見せた。



