――いいかい。私がいいと言うまで、何も喋ってはいけないよ。
沙羅は両の手で喉を押さえた。
周が近づこうとしたが、沙羅は首を振った。
まだ終わっていない。伝えなければならないことがある。
――おとうさまが。
「お父様が」
――しゃべるな、と。
「……喋る?」
沙羅は頷き、もう一度ゆっくり動かす。
――なにも、しゃべってはいけない。
「何も喋ってはいけない、と?」
沙羅が頷いた途端、堪えていた涙が止めどなく溢れた。
――わたしが、いいというまで。
「私がいいと言うまで」
周は確かめるように繰り返した。それだけで、沙羅が伝えなければならないことはすべてだった。
沙羅は唇を固く閉ざした。
周はしばらく何も言わずに沙羅を見つめていたが、やがて静かに身を屈めると、その前に膝をついた。
「沙羅」
呼ばれて顔を上げると、周は先ほどと変わらない穏やかな眼差しで、沙羅を見ていた。
「お父上は、君に一生黙っていろと言ったんじゃない」
それは分かっているつもりだった。頭では、ずっと前から分かっていた。
「君を生かすために、その時だけ黙っていてほしかったんだと思う」
沙羅の目から、また涙が零れた。
「言いつけを解くところまで、生きられなかっただけだ」
周はそれ以上、父の気持ちを決めつけようとはしなかった。十年前、父が何を思って娘にそう命じたのか、今となって確かめることはできない。ただ、あの日の言葉とは別に、今ここにある事実だけを静かに差し出してくる。
「だから、君が今まで黙っていたことは間違いじゃないし、これから何かを伝えることも、言いつけを破ることにはならない」
沙羅は目を閉じた。
父の声が消えたわけではなく、あの日の恐怖もまだ身体のどこかに残っている。それでも、これまで一本しかないと思っていた記憶の先に、初めて別の道が続いているように思えた。
父は、沙羅から声を奪いたかったのではない。ただ、娘に生きていてほしかったのだ。
やがて周は立ち上がり、卓の上に置かれた紙へ目を向けた。
「今日はもう調べない」
沙羅が首を振りかけると、それを見越していたように言葉が続く。
「これは宮宰としてではなく、夫として言っている。君は十分やったよ」
目を開けた沙羅の前で、周の表情は穏やかなままだった。
「それに、ここから先は僕の番だ」
その声には普段とは異なる硬さがあった。
「君のお父上が何を知り、誰に会い、何を確かめようとしていたのか。事故の記録を誰がまとめ、何故調査が止まったのか。レフィアがどこから消え、誰の手へ渡ったのか。花の記憶だけに頼らなくても、十年前に人が動いたなら、どこかに痕跡は残る」
沙羅は黙って周を見つめた。
花に触れ、その記憶を辿れるのは自分だけだ。けれど、そこで見たものを証拠に変えることはできない。その役目まで一人で背負う必要はないのだと、周は初めから分かっていたのだろう。
「沙羅が見たものは、進む方向を教えてくれる。でも、それだけで誰かを罪人にはしない。僕が証拠を探す」
沙羅がゆっくりと頷くと、周はひとまず安心したらしく、ほっとしたように表情を緩めた。ところが、ふと何かを思い出したように目を瞬く。
「ところで」
それまでとは明らかに違う声音に、沙羅は何だろうと首を傾げた。
「さっきの、もう一度やってくれないかい?」
思いがけない頼みに目を瞬かせていると、周は自分の唇を指先で示した。
「唇だけで話すやつ」
こんな時に何を言い出すのかと思い、沙羅は呆れて彼を見返したものの、すぐに紙を引き寄せて筆を走らせた。
『嫌です』
「何で?」
『恥ずかしいからです』
「僕はかなり頑張って読んだのだけれど」
『だからです』
「せめて短いものなら」
『嫌です』
「一言だけ」
『しつこいです』
最後の一文まで読み終えた周が、本気で傷ついたように目を見開く。
「まだ声に出してもいないのに、もうそこまで言われるのか」
涙の跡を頬に残したまま彼を見ていた沙羅は、とうとう堪えきれずに笑った。もちろん声にはならないけれど、それでも先ほどまで喉の奥を塞いでいたものが、ほんの少しだけ緩んでいくのを感じる。
周もそれに気づいたのか、それ以上は何も言わず、穏やかな眼差しで沙羅の笑みを見守っていた。
その夜、寝室に戻る前に沙羅が庭へ出ると、周も理由を尋ねることなくついてきた。雨上がりの庭にはしっとりとした夜気が漂い、藤棚の向こうでは、まだ開ききらない梔子の蕾が白く膨らんでいる。
十年前の記憶を読む勇気は、今の沙羅にはまだなかった。それでも、花に残されているものが恐怖ばかりではないことは、もう知っている。父の笑い声も、母の声も、何も知らずに笑っていた幼い自分の声さえ、藤は長い歳月の中で失うことなく抱き続けていた。
ならば、あの日より前の自分まで、すべて失われてしまったわけではないのだろう。
「沙羅」
隣から名前を呼ばれて顔を向けると、周は先ほどまで使っていた紙を片づけながら、もう今夜は休むようにと促すような目をした。
「今日はもう何も考えないで寝よう。明日は朝から景のところへ行ってくる」
手元に紙がなかったため、沙羅は返事の代わりに一度だけ頷いた。それで十分に伝わったらしく、周はそれ以上何も求めず、屋敷へ戻ろうと歩き出す。
その背を追いかけようとしたところで、沙羅はふと思いつき、一歩踏み出して彼の袖をそっと引いた。
「どうした?」
足を止めて振り返った周を見上げ、沙羅はためらいながら口を開いた。やはり声は出なかったけれど、今度はそれを悲しいとは思わず、自分で選んだ言葉を伝えるために、唇だけをゆっくりと動かしてみる。
――ありがとう。
一瞬だけ目を見開いた周は、けれど今度こそ、その言葉を読み違えなかった。
「……どういたしまして」
柔らかな笑みとともに返された言葉が嬉しくて、沙羅も小さく笑い、掴んでいた袖からそっと手を離す。
十年前、父の命令によって閉ざされた言葉は、今もまだ声にはならない。それでも今夜、沙羅は初めて、自分の意思で誰かに届ける言葉を選ぶことができた。
無理に声を取り戻そうとしなくてもいいのかもしれない。今の自分にできるやり方で、一つずつ言葉を外に渡していけば、いつか声もそのあとを追ってくるような気がした。
庭の奥では、白く膨らんだ梔子の蕾が雨上がりの夜気に濡れながら、間近に迫った開花の時を静かに待っていた。
沙羅は両の手で喉を押さえた。
周が近づこうとしたが、沙羅は首を振った。
まだ終わっていない。伝えなければならないことがある。
――おとうさまが。
「お父様が」
――しゃべるな、と。
「……喋る?」
沙羅は頷き、もう一度ゆっくり動かす。
――なにも、しゃべってはいけない。
「何も喋ってはいけない、と?」
沙羅が頷いた途端、堪えていた涙が止めどなく溢れた。
――わたしが、いいというまで。
「私がいいと言うまで」
周は確かめるように繰り返した。それだけで、沙羅が伝えなければならないことはすべてだった。
沙羅は唇を固く閉ざした。
周はしばらく何も言わずに沙羅を見つめていたが、やがて静かに身を屈めると、その前に膝をついた。
「沙羅」
呼ばれて顔を上げると、周は先ほどと変わらない穏やかな眼差しで、沙羅を見ていた。
「お父上は、君に一生黙っていろと言ったんじゃない」
それは分かっているつもりだった。頭では、ずっと前から分かっていた。
「君を生かすために、その時だけ黙っていてほしかったんだと思う」
沙羅の目から、また涙が零れた。
「言いつけを解くところまで、生きられなかっただけだ」
周はそれ以上、父の気持ちを決めつけようとはしなかった。十年前、父が何を思って娘にそう命じたのか、今となって確かめることはできない。ただ、あの日の言葉とは別に、今ここにある事実だけを静かに差し出してくる。
「だから、君が今まで黙っていたことは間違いじゃないし、これから何かを伝えることも、言いつけを破ることにはならない」
沙羅は目を閉じた。
父の声が消えたわけではなく、あの日の恐怖もまだ身体のどこかに残っている。それでも、これまで一本しかないと思っていた記憶の先に、初めて別の道が続いているように思えた。
父は、沙羅から声を奪いたかったのではない。ただ、娘に生きていてほしかったのだ。
やがて周は立ち上がり、卓の上に置かれた紙へ目を向けた。
「今日はもう調べない」
沙羅が首を振りかけると、それを見越していたように言葉が続く。
「これは宮宰としてではなく、夫として言っている。君は十分やったよ」
目を開けた沙羅の前で、周の表情は穏やかなままだった。
「それに、ここから先は僕の番だ」
その声には普段とは異なる硬さがあった。
「君のお父上が何を知り、誰に会い、何を確かめようとしていたのか。事故の記録を誰がまとめ、何故調査が止まったのか。レフィアがどこから消え、誰の手へ渡ったのか。花の記憶だけに頼らなくても、十年前に人が動いたなら、どこかに痕跡は残る」
沙羅は黙って周を見つめた。
花に触れ、その記憶を辿れるのは自分だけだ。けれど、そこで見たものを証拠に変えることはできない。その役目まで一人で背負う必要はないのだと、周は初めから分かっていたのだろう。
「沙羅が見たものは、進む方向を教えてくれる。でも、それだけで誰かを罪人にはしない。僕が証拠を探す」
沙羅がゆっくりと頷くと、周はひとまず安心したらしく、ほっとしたように表情を緩めた。ところが、ふと何かを思い出したように目を瞬く。
「ところで」
それまでとは明らかに違う声音に、沙羅は何だろうと首を傾げた。
「さっきの、もう一度やってくれないかい?」
思いがけない頼みに目を瞬かせていると、周は自分の唇を指先で示した。
「唇だけで話すやつ」
こんな時に何を言い出すのかと思い、沙羅は呆れて彼を見返したものの、すぐに紙を引き寄せて筆を走らせた。
『嫌です』
「何で?」
『恥ずかしいからです』
「僕はかなり頑張って読んだのだけれど」
『だからです』
「せめて短いものなら」
『嫌です』
「一言だけ」
『しつこいです』
最後の一文まで読み終えた周が、本気で傷ついたように目を見開く。
「まだ声に出してもいないのに、もうそこまで言われるのか」
涙の跡を頬に残したまま彼を見ていた沙羅は、とうとう堪えきれずに笑った。もちろん声にはならないけれど、それでも先ほどまで喉の奥を塞いでいたものが、ほんの少しだけ緩んでいくのを感じる。
周もそれに気づいたのか、それ以上は何も言わず、穏やかな眼差しで沙羅の笑みを見守っていた。
その夜、寝室に戻る前に沙羅が庭へ出ると、周も理由を尋ねることなくついてきた。雨上がりの庭にはしっとりとした夜気が漂い、藤棚の向こうでは、まだ開ききらない梔子の蕾が白く膨らんでいる。
十年前の記憶を読む勇気は、今の沙羅にはまだなかった。それでも、花に残されているものが恐怖ばかりではないことは、もう知っている。父の笑い声も、母の声も、何も知らずに笑っていた幼い自分の声さえ、藤は長い歳月の中で失うことなく抱き続けていた。
ならば、あの日より前の自分まで、すべて失われてしまったわけではないのだろう。
「沙羅」
隣から名前を呼ばれて顔を向けると、周は先ほどまで使っていた紙を片づけながら、もう今夜は休むようにと促すような目をした。
「今日はもう何も考えないで寝よう。明日は朝から景のところへ行ってくる」
手元に紙がなかったため、沙羅は返事の代わりに一度だけ頷いた。それで十分に伝わったらしく、周はそれ以上何も求めず、屋敷へ戻ろうと歩き出す。
その背を追いかけようとしたところで、沙羅はふと思いつき、一歩踏み出して彼の袖をそっと引いた。
「どうした?」
足を止めて振り返った周を見上げ、沙羅はためらいながら口を開いた。やはり声は出なかったけれど、今度はそれを悲しいとは思わず、自分で選んだ言葉を伝えるために、唇だけをゆっくりと動かしてみる。
――ありがとう。
一瞬だけ目を見開いた周は、けれど今度こそ、その言葉を読み違えなかった。
「……どういたしまして」
柔らかな笑みとともに返された言葉が嬉しくて、沙羅も小さく笑い、掴んでいた袖からそっと手を離す。
十年前、父の命令によって閉ざされた言葉は、今もまだ声にはならない。それでも今夜、沙羅は初めて、自分の意思で誰かに届ける言葉を選ぶことができた。
無理に声を取り戻そうとしなくてもいいのかもしれない。今の自分にできるやり方で、一つずつ言葉を外に渡していけば、いつか声もそのあとを追ってくるような気がした。
庭の奥では、白く膨らんだ梔子の蕾が雨上がりの夜気に濡れながら、間近に迫った開花の時を静かに待っていた。



